(こちらは
【松】の艦歴をより詳しくご紹介したページになります。
「松型」の建造経緯、またもう少し気楽に読める文章量をご希望の方は
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戦時量産型駆逐艦である
「丁型駆逐艦」のネームシップとなる
【松】は、そもそもその建造が遅かったために登場したのは昭和19年/1944年4月と、太平洋戦争ではかなり劣勢となっていた時期でした。
【松】は他の駆逐艦同様、竣工後は第十一水雷戦隊で訓練を積むことになります。
当時の第十一水雷戦隊の旗艦は
【長良】でした。
5月3日、
【松】が第十一水雷戦隊に配属された直後に海軍は
「あ号作戦」を発令します。
「あ号作戦」とは
「マリアナ沖海戦」につながる作戦です。
当時最も戦力となる空母だった
【翔鶴・瑞鶴】と、装甲空母として救世主になることが期待された
【大鳳】を中心とした機動部隊の力で、パラオ方面でアメリカ軍を壊滅させるのが目的でした。
加えてサイパン島に陸軍兵士を投入する
「イ号作戦」、そのアメリカ軍を撃退する
「ワ号作戦」も同時に立案されます。
この「あ号作戦」の発令に伴って、第十一水雷戦隊からは
【霜月・秋霜】が出撃することになりました。
この「あ号作戦」の決行のためにはサイパン島への輸送が不可欠です。
しかしこの輸送は敵制空権下での強攻策であると同時に、満足な兵力も護衛もなかったため、日本は多大な犠牲を払うことになります。
すでに燃料もあちこちで不足しており、たとえ航空機が残っていても、「あ号作戦」のために温存し、結果輸送船が傷つき、沈むという悪循環でした。
そんな中、6月15日、米軍がサイパン島へ上陸し始めます。
激突の時が近づいていました。
四の五の言っていられる状態ではなく、何としてでもサイパン島へ兵力を注ぎ込まねばなりません。
訓練中だった
【松】もその中の一員となりますが、輸送先は小笠原諸島や硫黄島を任されました。
ちなみに硫黄島には揚陸施設がありませんでした。
【松】には
小発動艇があったために問題はありませんでしたが、残りの駆逐艦や輸送船はこのような装備がないため、いちいち父島で機帆船もしくは
【松】に物資を移して輸送するという手間がありました。
強引にできなくはなかったのですが、より戦地に近く、アメリカもターゲットとして睨みをきかせていた硫黄島に艦隊型艦艇を送り込むが怖かったという意見もあります。
サイパン島が陥落したあとは、この父島→硫黄島の輸送すらも危険となり、主に夜間の行動に限られました。
硫黄島からは「マリアナ沖海戦」に向けて航空機が飛び立つ予定でしたが、悪天候に阻まれて出撃は遅れてしまいます。
6月19日に勃発した「マリアナ沖海戦」も圧倒的な数の航空機に為す術もなく、日本は被害をただ重ねていくだけの大敗北に終わりました。
結局
【松】をはじめとして小笠原・硫黄島への輸送任務を担った伊号輸送部隊の活動は、先に「マリアナ沖海戦」が起こってしまったために遅きに失したことになります。
この
「伊号輸送作戦」は主に第十一水雷戦隊に所属している艦で編成されました。
【松】が輸送を行ったこの硫黄島は、戦略的観点から非常に重要な島でした。
アメリカはソロモン諸島での勢力を確実に増大させており、このままではこのソロモン諸島から飛び立った航空機が本土空襲のために日本に襲来する危険性がありました。
小笠原諸島、特に硫黄島は日本列島の南に存在するため、南方海域からやってくる本土空襲のための攻撃隊を迎撃できる絶好の位置にあったのです。
その他にもソロモン諸島奪還に向けての反撃の狼煙もまたこの硫黄島で上げることが可能。
しかし逆に言えばこの硫黄島が奪われてしまえば、日本のすぐそばにアメリカ軍の基地が設営されるという悪夢が待っているのです。
事態は一刻を争いました。
何しろそれだけの重要拠点であるにも関わらず、これまではこのような危機が近々に迫ってくるとは思わなかったので、この硫黄島の兵力はとても貧弱だったのです。
「マリアナ沖海戦」には敗北しましたが、まだサイパン島では死闘が繰り広げられています。
伊号輸送部隊は3部隊で編成され、6月28日、
【松】は
【長良・冬月】と3隻で、
【第四号輸送艦】を護衛して父島へ向かいました。
しかし時すでに遅し、数日前の25日には、「マリアナ沖海戦」の敗北によって議論はサイパン島の放棄へ傾いていて、各方面への輸送が達成されたものの、7月7日にサイパン島は陥落します。
【松】の初任務は、海戦の敗北とサイパン島陥落という最悪の形で幕を下ろし、日本はいよいよ本土空襲や日本近海への米軍進出の危機にさらされます。
サイパン島陥落を受け、サイパン島逆上陸のために集めた兵力はこの硫黄島に向けられることになりました。
7月3日に伊号輸送部隊は解散となりますが、
【松】は引き続き小笠原諸島への輸送任務を継続し、7月6日には
【第四号輸送艦】とともに再び硫黄島へ出発。
無事に送り届けることができますが、その帰り道に兄島へ向かうように命令を受けます。
7月3日と4日に硫黄島ではアメリカ軍との衝突があり、そのタイミングで輸送にあたっていた
【第一五三号輸送艦】が兄島へ非難するも、攻撃を受けて航行不能となっていました。
同じく救援に訪れた
【旗風】とともに
【第一五三号輸送艦】を曳航した
【松・第四号輸送艦】は、7月12日に横須賀へ到着。
【旗風】が増援を要請するも断られていたこの護衛任務は、なんとか成功を収めました。
15日には
【梅・竹・桃】らで第四三駆逐隊を編成することになります。
(
「松型」の駆逐隊は4隻編成ではありませんでした。)
しかし実際には上記4隻で行動をした記録はなく、
【松】はそのまま輸送任務にあたる他の艦との連携が続きました。
7月16日、「三七一八船団」が編成され、7隻の輸送艦・商船を
【松】や
【旗風】などが護衛することになります。
硫黄島行きを甲分団、父島行きを乙分団とし、
【松】は甲分団所属となります。
率いるのは高速性のある輸送艦3隻で、
【旗風】とともに
【松】は無事硫黄島へ、一方乙分団を率いた
【水雷艇 千鳥】も無事父島への輸送を果たしました。
続いて7月29日、「三七二九船団」を同じく硫黄島・父島へ輸送することになり、今度は対潜哨戒として連合艦隊所属である
【瑞鳳】も同行。
この船団に加わるため、一時的に船団を統括する第二護衛船団司令部の所属となりました。
通常
【瑞鳳】には第六三五海軍航空隊が乗っていますが、対潜哨戒任務とのことでその任務に長けた第九三一海軍航空隊の
「九七式艦攻」12機が搭載されました。
第二護衛船団司令部の旗艦となった
【松】は、船団を率いて輸送・護衛用として誕生したにふさわしい役割を担いました。
【松】らは輸送船6隻を護衛し、潜水艦の電波を探知しながらも、8月1日に無傷で父島への輸送を成功させています。
【瑞鳳】の護衛は大変有効だったようです。
【瑞鳳】は8月2日に先に本土へと帰投しています。
父島に到着すると、そのまま残る船と、更に硫黄島まで輸送を行うふた手に分かれ、
【松】は硫黄島組に入っていました。
しかし硫黄島への危機は目前に迫っており、父島出発後に硫黄島への米軍接近の警報が発令されました。
この報を受けた
【松】達は、踵を返して今度は「四八○四船団」を編成し、急ぎ父島へ戻りました。
8月3日帰港、さらに翌日の4日に、父島に残っていた船とともに本土へ向けて出発しました。
この時、「三七二九船団」に所属したものの、帰りの「四八〇四船団」には編成されなかった輸送船、輸送艦が一部ございます。
しかし「四八〇四船団」が父島を離れたからおよそ1時間後、懸念していた米軍がついに父島へ到達(
マーク・ミッチャー中将主導の
「スカベンジャー作戦」)。
幸いなのか、この航空部隊は父島空襲が目的ではなかったようで(
【瑞鳳】を狙ったという説があります)、父島への被害はありませんでした。
父島は別に航空基地があるわけでもなく、船と言っても取るに足りない小型船が多少目につく程度。
攻撃対象とは到底言えませんでした。
ところが何も土産がないのに米軍も帰るわけにはいきません。
上空旋回中に、10隻ほどの船団の存在を確認すると、攻撃の目標はその船団となりました。
その船団こそ「四八〇四船団」。
輸送船を囲う形で進んでいた「四八〇四船団」ですが、瞬く間に補足されてしまいます。
10時半頃、巧みな操艦で第一波を凌ぎ、
【松】は5機撃墜を記録しました。
しかし13時頃の第二波では
【延寿丸】が雷撃を受けて沈没。
他艦も被害を負いますが、航行に支障はなく、引き続き北進します。
16時頃、父島北方の聟島(むこじま)を過ぎてなおも航行中に、恐怖の第三波が船団に襲いかかります。
第三波空襲は苛烈を極め、輸送船が無残に蹂躙されます。
【第七雲海丸、昌元丸、龍江丸】が被雷、そして沈没。
中央で真っ二つに折れて沈む船、艦首を海面に突き刺してズブズブと飲み込まれていく船、火達磨になり、怨念のような黒煙をもうもうと吐き出す船。
地獄絵図が繰り広げられ、満身創痍になりながらも近くにいる生存艦は
【松・利根川丸・第四号海防艦】の3隻。
対空兵装がある
【松】と
【第四号海防艦】はともかく、ろくな装備を持たない
【利根川丸】は穴だらけの状態で、執念で動いているようなものでした。
【旗風・第一ニ号海防艦・第五一号駆潜艇】とははぐれてしまい、各々で横須賀を目指していました。
この時の第一波、第二波の空襲はおよそ30機、そして第三波の空襲ではおよそ50機が襲い掛かってきたと、
【第四号海防艦】の
水谷勝ニ艦長(当時少将)は答えています。
西日が海面を照らす中、
【松】ら3隻は未だ死に抗い続けている、沈没した船の乗員たちの救助を行いました。
しかしアメリカの執拗な攻撃は、月光の下でも赤い炎を求めて繰り広げられるのです。
船団の体はなしえていないものの、固まっている
【松・第一ニ号海防艦・利根川丸】。
ターゲットとなったのは、輸送船も含まれるこの3隻でした。
マーク・ミッチャー中将は小笠原諸島の砲撃のために用意していた第十三巡洋艦隊を一部分離し、この3隻の壊滅のために送り出します。
その数、軽巡・駆逐艦合わせて11隻。
第三波の空襲前後で、すでに米艦隊を近海で補足したという情報を、
【松】は父島の特別根拠地隊より入電を受けていました。
そして18時頃、
デュ・ポース少将率いるこの米軍艦隊に
【松】らは発見されました。
この時、3隻はまだ救助に専念しており、突如上がった砲撃による水柱に最初は
「また空襲か」と思ったそうです。
しかし2本目の水柱と、上空に航空機が見当たらないことから、入電のあった艦隊であると察知。
当たりはすでに暗くなり、艦影は見えず、砲弾の閃光のみが不気味に襲い掛かってきました。
当然
【松】は逃げ切ってしまいたいのですが、まず
【松】の最高速度は28ノット足らず、海防艦も遅いですが、
【利根川丸】に至っては最大11ノットととても鈍足です。
加えて各々が先程死闘を終えたばかり。
傷だらけの船団が、大戦中に建造された最新軽巡である
「クリーブランド級軽巡洋艦」に勝てるわけがありません。
逃げきれるわけがなく、どんどん敵艦隊が近づいてきます。
【松】と
【利根川丸】が主に標的となり、3隻は次から次へと撃ち込まれる砲弾を回避しつつも全力で航行しますが、いよいよこちら側も砲撃をしなければならない距離まで詰め寄られてしまいます。
【松】の
12.7cm高角連装砲、
【第四号海防艦】の
12cm高角砲、そして
【利根川丸】の備砲が、後方の米艦隊に向けられました。
ですが、このままでは3隻とも追いつかれ、みな沈められてしまいます。
量産型で、戦闘向けに造られていない
【松】は、ここで駆逐艦としての覚悟を決めます。
第二護衛船団司令部の
高橋少将は、
【第四号海防艦】へ向けて、
「四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ 」と命令。
【松】は反転します。
主砲も魚雷も見劣りし、速度は遅く、そしてすでに疲労困憊。
それでも、
【松】は11隻の艦隊へ向かって突進していきました。
19時15分、
「巡洋艦および駆逐艦10隻と交戦中」と入電。
19時40分頃、
「われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す」という電文が
【第四号海防艦】に届きます。
そして、それが
【松】の最期の声となりました。
この直後、砲声の後に真っ赤な炎を身にまとった
【松】が敵艦隊に突っ込んでいく姿が目撃されています。
たった4人の生存者の証言によると、
【松】は反転したものの未だに敵艦影は見えず、襲いかかる砲弾が発射された際に砲身で発生する光を目標に砲撃をしたとのことでした。
(以前、「生存者はゼロ」と表記しておりましたが、4名の生存を記す資料がありました。申し訳ございません。)
残念ながら
【松】が身を挺して逃がそうとした
【利根川丸】も21時頃に沈没。
航行中に
「B-24」が接近してきたため、
【第四号海防艦】はやり過ごそうとして沈黙を貫きましたが、
【利根川丸】は黒煙を上げて動き始めてしまい、この動きが見つかってしまいます。
その後、後方より追撃をやめていなかった米艦隊の照明弾によって
【利根川丸】の姿は暴かれてしまい、最終的には
「B-24」の爆撃か、後方からの砲撃か、そのどちらかによって沈没させられました。
【第四号海防艦】だけが九死に一生を得ていますが、これにより「四八○四船団」の輸送船は全滅してしまいました。
【松】は短期間ではありますが輸送・護衛任務を確実にこなし、そして最後まで駆逐艦の矜持を忘れなかった、立派な駆逐艦でした。
参考資料:硫黄島輸送作戦と父島 -第四八〇四船団の聟島沖砲撃戦をめぐって-(上條 明弘 首都大学東京 小笠原研究年報 第34号
2011)
情報提供者:HIRYU様
2016年12月17日 新規