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特二式内火艇 【カミ車】

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全 長 7.42m(フロート有)
全 幅 2.8m
全 高 2.3m
重 量 12.5t(フロート有)
最大速度 37km/h(陸上)
9.5km/h(水上)
出 力 110馬力
エンジン 三菱A6120VDe 4ストローク
直結6気筒空冷ディーゼル
兵 装 一式三十七粍戦車砲 1基
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2基
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揚陸を安全に、そして反撃できるように 海軍考案の水陸両用戦車

まず、海軍には陸戦隊という、陸上で戦うための部隊が存在します。
当然陸上で戦うための部隊で、例えば陸軍が【あきつ丸】【まるゆ】と言った特殊船を保有していたように、海軍も海軍陸戦隊用の兵器を保有(独自開発のものもあれば、陸軍兵器の改良のものもあります)していました。

その代表格となるのが、この「特二式内火艇」です。
「特二式内火艇」、通称「カミ車」と呼ばれるこの戦車は、海軍が開発(を依頼)した海軍所属の水陸両用戦車です。

実は日本の水陸両用戦車、この「カミ車」が初めてというわけではありません。
「カミ車」誕生の7年も前に、陸軍は石川島自動車製造所(現在のいすゞ自動車)に対して水陸両用戦車の開発を命じていたのです。
開発のきっかけはイギリスのヴィッカース・アームストロング社が1931年に製造した「ヴィッカース水陸両用戦車」でした。
イギリスと日本の最大の共通点である、島国という立地条件。
つまりは本土での戦闘でない限りは、陸路での輸送は不可能でした。
そのためイギリスは海上輸送から揚陸までの危険性をできるだけ排除できるように、海上から直接陸に上がれる戦車の開発を行ったのです。

これに触発された陸軍が早速石川島自動車製造所に水陸両用戦車の開発を指示。
石川島自動車製造所は1934年に試作車として「SRイ号、SRロ号、SR-Ⅱ、SR-Ⅲ」という水陸両用戦車を完成させました。
性能は特に問題なく、外見も戦車そのもので、もちろん水上でも8km/hですが推進可能でした。

ただ、陸軍はこの完成した水陸両用戦車に対して明確なビジョンを持っておらず、とりあえずうちも造れるかどうか確認したいといった感じでの開発指示でした。
なので、要求通りの性能ではあったものの、この石川島製水陸両用戦車は量産されることはありませんでした。
(試作車が若干「日華事変」で使用されたことがあるようです。)

それから時を経て、開戦の狼煙が上がろうとしている中、やはり揚陸問題に直面していた海軍がこの車種に興味を持ち、陸軍の協力を経て本格的な水陸両用戦車の開発が始まりました。
海軍は南方諸島の迅速な占領と飛行場等の整備には、スムーズに戦力を揚陸する必要があり、そしてそれは船だけではなく戦車そのものにも手を加えるべきだと考えたのです。
開発の中心人物の名は上西甚蔵技師、つまり「カミ車」とは、彼の名字の一部の読みを拝借して付けられた通称でした。
「カミ車」は役割は完全に戦車ではありますが、分類としてはあくまで船、特型内火艇としたのはその正体を隠蔽するための隠れ蓑でした。
普通の内火艇は戦力ではありませんから。

ベースとなったのは当時の陸軍主力戦車の1つであった【九五式軽戦車】で、簡単に言えば【九五式軽戦車】の前後にフロートを付け、履帯の後ろに二軸のスクリューと舵が取り付けらた設計です。
新機軸になると部品調達や資金の問題が発生するため、できるだけ流用できる設計に努めました。

【大発動艇】などでの揚陸を強いられていた陸上戦車と違い、この「カミ車」は潜水艦での輸送も可能なものとされたため、全面溶接構造となる上、ゴムパッキンを貼ることで水密性を高める構造となっています。
開発にあたって上西技師と三菱はこの水密性という点でかなり苦労していて、また防弾ガラスの積極的採用、予備ガラスの搭載、フロートに対する防弾性など、水陸両用戦車ならではの対応がつぶさに見られます。

砲塔は【九五式】のものではなく、その後継にあたり、ちょうどこの時開発中だった【二式軽戦車】の物を搭載していましたが、実は主砲は前期型では間に合わず、これは【九五式】の「九四式、九八式三十七粍戦車砲」が止む無く取り付けられています。
「カミ車」後期型では本来の「一式三十七粍戦車砲」が搭載されました。
また、「九七式車載重機関銃」が車体の左側に取り付けられていましたが、後期型は「一式三十七粍戦車砲」と同軸機関で作動する「九七式車載重機関銃」がセットでくっついてくるので、後期型は機関銃も2挺となりました。

特徴であるフロートは脱着可能ではあるものの、取り付けには非常に時間がかかるものでした。
ですが本来は上陸後に砲塔を改めた【九五式】のような扱いを陸上でするつもりでしたから、装着に対するリスクというのはあまり気にされていなかったようです。
(つまり再び海上に出ることはないということ。)
また、航行時や上陸の際に外を見るための展望塔が砲塔の上に取り付けられており、合計6つの防弾窓から観察しながら上陸を行うことができました。
上陸後は邪魔になるので、展望塔は取り外されました。

このフロートとスクリューを使って浮力と航行能力を得るために、「カミ車」は重量軽減、つまり装甲の薄さを許容せざるを得ませんでした。
一番装甲の厚い場所でも12mmで、自身の搭載する37mm徹甲弾だとどこでも抜けたのではないでしょうか、怖い。
アメリカの対戦車砲には「M3 37mm砲」があり、対ドイツ戦車には役に立たなかった「M3 37mm砲」ですが日本戦車に対しては十分な攻撃力を誇っていたので、対面すればかなり苦しい戦いを強いられたことでしょう。

「カミ車」にはもう一つ、難点がありました。
潜水艦輸送には水圧という問題があり、潜水艦の中にいる間はなんと戦車の中に海水を入れておかなければなりませんでした。
もちろん水に触れるとアウトなエンジンや電気系統の装備は取り外されており、揚陸には浮上してからエンジン類の取り付けと排水を行う必要がありました。
そのため、揚陸の瞬間はスムーズかもしれませんが、その前に潜水艦は洋上で浮上停止を約30分も続けなければならないのです。
大変危険な輸送任務だったことがわかります。

それでも日本の中では十分な能力を持った軽戦車の揚陸をスムーズにするとあって、「カミ車」は1941年に試作車完成、1942年から制式化と生産がはじまりました。
しかし実践投入はかなり後で、初陣は1944年6月の「サイパンの戦い」でした。
この時は10両が投入されましたが、当然この時の戦況は酷く、「カミ車」程度の戦車砲戦力ではどうにもならないのですが、日本としては歩兵戦車があるだけでもありがたく、貴重な戦力でした。

その後もレイテ島の戦いにおいて「多号作戦」による輸送などで、少なくない被害の中なんとか揚陸に成功した「カミ車」が奮闘しています。
誕生したタイミングが遅かったために活躍したとは言い難い「カミ車」ですが、終戦までに合計184両が製造されました。

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特三式内火艇 【カチ車】

全 長 10.3m
全 幅 3.0m
全 高 3.82m
重 量 28.5t
最大速度 32km/h(陸上)
10km/h(水上)
出 力 240馬力
エンジン 統制型一〇〇式4ストロークV型
12気筒空冷ディーゼル
兵 装 一式四十七粍戦車砲 1基
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2基

「カミ車」【九五式軽戦車】ベースの設計に対し、この「特三式内火艇 カチ車」はより大型の【一式中戦車 チヘ】をもとに改修された水陸両用戦車です。
砲が「一式四十七粍戦車砲」へと大型したことはもちろんですが、「カチ車」「カミ車」の大きな違いは輸送に関する問題の大幅な解消でした。

「カミ車」は先述の通りエンジンや電装類を取り外した状態で輸送するため、実際に潜水艦から離れるまでに早くても30分ほどの時間がかかってしまいます。
しかし「カチ車」は耐圧性が向上し、水深100mまでなら水圧に耐えられる構造になりました。
これは潜水艦の一番深い安心深度と同じであり、つまり潜水艦運用を妨げない耐圧性を持ったことになります。
この改良によって浮上から航行までの所要時間は10分にまで短縮されました。

大型の空気吸入筒が砲塔後部に取り付けられていて、これは海水が入り込まないように、かつディーゼルエンジンに効果的に空気が流れ込むように設計されています。
上陸後は前後フロートが車内のハンドル(?)操作で一気に取り外すことができるようになり、またスクリューも跳ね上げ式になって地面との接触事故も防ぐことができました。
そして装甲も格段にアップして、前面装甲は「カミ車」の12mmから50mmへと跳ね上がりました。

と、これだけ強力に、かつ使い勝手の良くなった「カチ車」でありましたが、「カミ車」同様、戦況は悪化の一言で、とても積極的に潜水艦輸送ができる状態ではありませんでした。
何とか戦地に輸送された「カミ車」と違って、「カチ車」は1両も日本を出ることなく、全て本土防衛のために配備されるにとどまりました。
軽装甲の「カミ車」よりも、揚陸が容易で重装甲かつ中口径の「カチ車」が戦地にあれば、幾ばくかの反抗はできたであろうに残念です。

なお、「カミ車」の大型強化版である「カチ車」に対して陸軍は、「いやいや偵察車+α程度の役割の水陸両用戦車にどこまで期待してるの?」と言った感じで全然乗り気ではなかったようです。

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特四式内火艇 【カツ車】

全 長 11.0m
全 幅 3.3m
全 高 4.05m
重 量 16t
最大速度 20km/h(陸上)
8km/h(水上)
出 力 120馬力
エンジン 三菱A6120VDe 4ストローク
直結6気筒空冷ディーゼル
兵 装 魚雷 2本
九三式十三粍機銃 2基

「カツ車」「カチ車」をもっと強化した、まるで重戦車のような能力を持った水陸両用戦車、というわけではありません。
この辺りが海軍っぽいといいますか、手当たり次第に今欲しいものを今あるものにくっつける発想から生まれたのが「カツ車」です。

「カツ車」登場の背景にあったのが、揚陸後の物資の問題でした。
せっかく揚陸に成功しても、そのあと物資が陸軍に全て行き渡るかといわれると、そう生易しいものではありません。
揚陸物資に対する空襲であったり、艦砲射撃などで物資が焼失してしまうケースが相次いだのです。
これではせっかく輸送が成功してもトータルで見れば失敗です。
そこで、海上からそのまま内陸陣営まで物資を運べる、水陸両用トラックのようなものを造ろうという思惑から誕生したのが「カツ車」です。
「カツ車」は戦闘車両ではなかったので、上陸後の運動性は考慮する必要がなくなり、これまでの脱着式フロートは搭載されず、浮力と車体そのものの設計で航行可能なものになっていました。

が、この思惑とは裏腹に、「カツ車」には訳の分からない兵器が搭載されています。
それは魚雷です。
魚雷の大きさが45mmとか61mmの資料があって正確なものは不明ですが、魚雷はデッキ上から左右1本ずつ発射出るようになっていました。
本来なら武装は「九三式十三粍機銃」2挺だけだったのですが、なぜこんな妙な兵器が搭載されるようになったのでしょうか。

この案を提示したのは、やはり妙、どころか変人といわれた黒島亀人軍令部第二部長です。
両用トラックとして設計している中で、いきなり「こいつに魚雷積んで敵空母に奇襲をかける」と大真面目に言い出し、止む無く「カツ車」に魚雷が搭載されるようになったのです。
作戦は9隻の潜水艦に各2隻ずつの「カツ車」を搭載し、マーシャル諸島停泊のアメリカ機動部隊に襲い掛かるというものでした。
作戦名は「竜巻作戦」、しかしこんな作戦をいきなり吹っ掛けてきた黒島本人が竜巻としか思えません。

そもそも奇襲というのは相手の虚を突き、想定もしていないところから攻撃を繰り出すことです。
つまりは速度、隠蔽、高威力が求められます。
確かに魚雷でしたら45cmでも航空魚雷並みの威力は出て、うまくいけば中、大破に追い込むことができるかもしれません。
しかし速度と隠蔽に関しては全く考えていないとしか思えない作戦でした。

まず速度は、これまでの特型内火艇に比べて輸送力を高めるために大型化しており、にもかかわらずエンジンは同じものを使っていますから、陸海共に低速になるのは当然でした。
隠蔽については、当時アメリカ艦艇の大半に装備されていたレーダーという兵器の存在でほとんど意味を成しません。
ずいぶん離れたところからならまだしも、目標に近い所だと潜水艦もレーダー、ソナーに感知されますから、悠長に海上で「カツ車」を降ろす暇もありません。
駆逐艦に近寄られたらお終いです。

さらに「カツ車」には重大な騒音問題を抱えており、空冷ディーゼルエンジンの爆音は静かな海上で「奇襲を仕掛けるぞ」とわざわざ敵に教えているようなものでした。
同時に潜水艦潜航中に水圧の問題から発生するプロペラシャフト結合部からの漏油が改善されず、作戦も無茶ながら、性能面でも相当な問題を抱えていました。

そんな中、昭和19年/1944年3月31日に連合艦隊司令長官である古賀峯一が殉職した「海軍乙事件」が発生。
「竜巻作戦」は中止となり、その後も「あ号作戦」の1つとして組み込まれるものの上記の問題の解消の糸口が見つからずこれも延期、やがて中止。
このように「カツ車」活用の作戦は浮上しては立ち消えになるケースがいくつかありますが、いずれも勝算が全く見えないものでした。
同様に配備予定もたつものの生産性と不具合の問題が解消されないため、実際に運用された例はありません。
生産数は49両、そして潜水艦の搭載を諦める代わりに搭載量の増と液体燃料も搭載できる二型が1両だけ製造されたという記録があります。

そしてこれに続いて、「特五式内火艇 トク車」という水陸両用戦車も生産準備が行われていました。
これこそ「カチ車」の強化版なのですが、「トク車」は敵の上陸を阻んだり、逆上陸の先頭に立つ役割を持っていました。
主砲の「一式四十七粍戦車砲」は砲塔ではなく前面に設置されたために旋回はできません。
砲塔には対空機銃として多くの艦船に搭載されていた、25mm単装機銃が収まっています。
速射力の高い大口径の機銃で沿岸にいる兵士や船舶を攻撃し、また「一式四十七粍戦車砲」ではそれらを破壊するため、そして当然上陸後の主砲として運用するものだと考えられます。