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【九七式中戦車 チハ】その2
【Type 97 Medium Tank “Chiha”】

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中戦車 【九七式中戦車 チハ 新砲塔】

全 長 5.55m
全 幅 2.33m
全 高 2.38m
自 重 14.8t
最高速度 38km/h
走行距離 210km
乗 員 4人
携行燃料 246ℓ
火 砲 一式四十七粍戦車砲 1門
九七式車載重機関銃(7.7mm) 2門
エンジン 三菱SA一二二〇〇VD空冷V型12気筒ディーゼル
最大出力 170馬力

各 所 装 甲

砲塔 前面 25mm
砲塔 側面 25mm
砲塔 後面 25mm
砲塔 上面 10mm
車体 前面 25mm
車体 側面 最大25mm
車体 後面 20mm
車体 上面 10mm
車体 底面 8mm
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貫通力を高めて対戦車戦を可能に しかし薄い装甲は如何ともしがたく

このような性能で誕生した【チハ】は、前述の通りすでに「日華事変」が始まっていたのですぐに生産が始まっています。
満州での冬季実験でもマイナス40度前後の環境で問題なく操縦できたことから、中国への侵出の障害は全くありませんでした。
とはいえ、これは日本のディーゼルエンジン全般の問題ですが、エンジンを温めるのにはかなり時間がかかったそうです(数時間レベル)。
「日華事変」では前述の3.7 cm PaK 36に貫通されたという事態も発生していますが、それでも中国軍の士気は総じて低く、戦争そのものは泥沼化するものの、開戦当初は日本は終始有利に事を進めています。
「ノモンハン事件」では4輌だけが戦闘に参加していますが、うち1輌が撃破されています。

この「ノモンハン事件」で日本は初めて戦車による対戦車戦を経験します。
この戦いにおいて日本の57mm砲ではソ連の【BT-5】の装甲を抜くことができず、また初速も遅い、射程も短いということで非常に戦いづらいということが身に沁みます。
この戦いでは結局対戦車砲と歩兵の活躍によってソ連軍に大きな被害をもたらしますが、戦車による恩恵は大したことがありませんでした。

この戦いの前から、「日本戦車の父」と呼ばれ、渡欧の経験などを活かして【試製一号戦車】の時から戦車設計に携わっている原乙未生(当時大佐)をはじめ、戦車に理解のある者(実はまだまだ戦車の地位は低い)は常々近い将来戦車対戦車が始まるから砲の強化は必須であると訴えていたのですが、これはいつも退けられて、その結果が【チハ】の57mm砲搭載で現れています。
そしてこの「ノモンハン事件」によってようやく対戦車戦を考慮する必要があることを認めた陸軍は、重い腰を上げて貫通力の高い戦車砲を搭載した戦車の導入に動き出すのです。

とはいえ、すでに戦争中、また【チハ】の生産は軌道に乗りつつある中、ここで緊急に新戦車を開発してすぐにそちらへ移行することはできません。
何度も申し上げますが、日本の車輌製造能力は低く、あっちこっちで開発と量産をすることはできないのです。
特に戦車は設計、開発できるのが軍か三菱の二択といっても過言ではなく、船や飛行機とはまったく事情が違います。
となると、新設計を進める一方で現存車輌を改良するしかありません。

よく「ノモンハン事件」で初めてこの事実に直面したと言われることがありますが、これは正しくなく、意見を述べても却下され続けてきたわけです。
【チハ】設計の中で、搭載砲の更新を見越して敢えて砲塔の中径を九七式五糎七戦車砲よりも大きくし、また車体そのものにも重量増に対応できる構造であるなど、重要な保険をかけていました。
最終的には戦車砲ではなく砲塔そのものを更新することになっていますが、砲塔が更新できたのはまさにの先見の明のおかげなのです。

昭和14年/1939年8月、【チハ】の主砲の威力を増大させるために、換装する高貫通力の戦車砲の開発とその砲塔の研究が始まりました。
開発にあたっては同じ口径で長砲身の57mm長加農砲も検討されていますが、昭和12年/1937年から研究されていた試製九七式四十七粍砲をさらに強化し、戦車砲、対戦車砲へとする案が採用されました。
これらは弾薬筒が共通化しており、やがて戦車砲は一式四十七粍戦車砲、対戦車砲は一式機動四十七粍速射砲として完成してます。

戦車砲は初速が810mと約2倍に。
貫通力は200mで50mm、500mでも40mm装甲が貫通できるとされ、格段の進歩を遂げています。
実際、側面を突く必要はありましたがこれで【M4中戦車 シャーマン】の装甲を抜くことができます。
そして【九五式軽戦車】にとっての天敵だった【M3軽戦車 スチュアート】に対しても正面からの砲撃で貫通が可能です。
中戦車が軽戦車に勝って喜ぶというのもちょっと変ですが、【九五式軽戦車】では歯が立たないですから止むを得ません。

一式四十七粍戦車砲は昭和15年/1940年に完成し、夏頃から試験を開始。
9月には【チニ】案消滅後も未練を捨てきれなかった陸軍参謀本部が試作(のち開発中止)していた【試製九八式中戦車 チホ】の砲塔に一式四十七粍戦車砲を搭載し、それを【チハ】に載せて試験を実施しました。
翌年には戦車学校、騎兵学校においてより実践的な試験を委託し、4月からの改修を経て、9月に無事に仮制式化、昭和17年/1942年4月1日に制式制定されました。

昭和16年/1941年10月には68輌の【チハ】が新砲塔への改装が始まっており、量産化が進んでいた【チハ】の強化が進みます。
砲塔はこれまで仰俯角、左右ともに肩付け式でしたが、新砲塔になるとこのうち仰俯角はハンドル操作へと変更になりました。
そして地味ですが、照準具のレンズには初めて距離測定用の目盛が入っています。
実はこれまで的までの距離が近い(射程が短いから)上に歩兵直協ということもあって、測距用の目盛は入っていなかったのです。
こちらの方が信じられないのですが、射程が少なくとも1,500m以上となったため、新たに付けられたわけです。
また、鉢巻アンテナも新砲塔ではなくなって、代わりに一本の直立式アンテナとなっています。

太平洋戦争開戦時、国内ではせっせと【チハ新砲塔(九七式中戦車改)】の生産が進みますが、まだまだ大半は旧砲塔、つまり57mm砲の【チハ】が主力でした。
果たしてこの戦車砲で連合軍と戦えるのか、戦車隊は前々から攻撃力、防御力共に日本戦車に不満を持っていたので、不安がなかったといえばうそになるでしょう。

しかしその不安を払拭させたのが、高い機動性でした。
開戦と同時に、陸軍が是が非でも手中に収めるために電光石火の攻撃を仕掛けた「マレー作戦」
トラックと共に歩兵も高速で移動する、銀輪部隊で有名な「マレー作戦」ですが、それに追随できる戦車の存在は重要でした。
シンガポール陥落を最終目的としたこの作戦では、高い機動力を活かしてイギリス軍を翻弄します。
突破するのが極めて困難とされたジットラ・ラインを、夜戦を敢行するなどの奇策によって僅か1日で突破するなど、敵に息つく暇も与えずに進軍を続けました。
この日は猛烈な豪雨だったため、騒音もかき消されました。

連合軍には【スチュアート】が220輌もあったとされていますが、この日本の想像をはるかに上回る突破力と、歩兵らの果敢な攻撃によって、懸念された戦車戦に持ち込ませる前に多数撃破、また降伏、逃亡による無戦力化に至らしめています。
また、鹵獲した【スチュアート】を調査した結果、57mm砲ではにっちもさっちもいかないことがわかっていたため(側面300mでも抜けませんでした)、待ち伏せによる奇襲や、複数で「榴弾」でタコ殴りにするなどの対策をとっています。
そして鹵獲した【スチュアート】は、一部で揶揄されるように「日本最強の戦車」として日本の戦車隊に加わったのです。

このように、イケイケドンドンな太平洋戦争緒戦では【チハ】は旧砲塔型中心であっても立派に活躍をしています。
ですが一方でビルマの「ペグーの戦い」では【スチュアート】に対してボロ負けするなど、普通に戦うと劣勢にあることは紛れもない事実でした。
それを打破すべく、満を持して【チハ新砲塔】が戦場に到来し、いよいよ本格的な戦車戦が始まる!
と思いきやです、戦場が【チハ新砲塔】の活躍の場を急激に狭めてしまいました。

太平洋戦争の主戦場はオーストラリア北側に存在する南方諸島の数々です。
日本はここを占領していきますが、「ミッドウェー海戦」での歴史的大敗北と「ガダルカナル島の戦い」、またその周辺の制空権の喪失があって、輸送が大変危険な任務となりました。
輸送船は次々と空襲によって沈み、戦車の輸送は一向に捗りません。
また、戦場はジャングルですから、何とか戦車を送ったとしてもその戦車が戦える場所とは必ずしも言えません。
こうなると野砲、山砲や迫撃砲など、砲兵部隊のほうがよっぽど役に立ちます。
なので、【チハ】は太平洋戦争の主戦場にはついに姿を現すことはなく、末期の「ルソン島の戦い」でようやく姿を見せる程度でした。

【チハ】は引き続きビルマやフィリピンなどで戦闘を繰り広げており、さすがに【チハ新砲塔】では【スチュアート】に対しても戦うことができるようになりました。
しかし敵側も昭和18年/1943年ごろから【シャーマン】を投入してくると、日本はさらに劣勢に立たされます。

とにかく装甲が弱い。
【スチュアート】でしたら300mほどの距離で正面が抜かれますが、【シャーマン】は37.5口径75mm戦車砲M3ですから、そりゃもう否応なく抜かれます。
さらに資材不足によって鋼材の質が落ちてくると、戦争末期では正に末期症状、12.7mm車載機関銃で攻撃される始末でした。
装甲を抜かれる射撃を1秒に十数発も受けるなんて怖すぎます。
それでも有効な攻撃になるぐらい、日本の戦車の装甲は数値以上の弱さがありました。
ということは【スチュアート】のM3 33mm戦車砲でも問題なく抜けるわけですし、ともすれば榴弾砲でも貫通は無理でも大きなダメージを与えることができるため、防御力なんてあってないようなものでした。

いくらこちらの砲撃力が、側面とは言え【シャーマン】の装甲を抜けるといっても、真っ向勝負を挑むのは明らかな自殺行為でした。
【九五式軽戦車】【スチュアート】に対してとった方法同様、結局【チハ】も待ち伏せによる奇襲などで如何にして相手の虚をつくか、これに終始するしかありませんでした。
ですが勘違いしてはいけないのが、【チハ】は歩兵直協車輛です。
むしろ戦車戦なんて御免ですから、できるだけ戦車と戦わないように行動をとっていますし、そもそも戦車戦なんてかなり少ないです。

どうしても戦車対戦車に目が行きがちですが、【チハ】はしっかりと歩兵と共に作戦に参加し、歩兵を守りながら防衛であったり進撃をしています。
ただ、悲しいかな、歩兵直協であっても敵の対戦車砲にはなす術がないのです。
【チハ】は対戦車砲や対戦バズーカ砲などでどんどん撃破されていきます。
そして逆に、日本の対戦車砲で【シャーマン】を抜けるのかと言われると、これまた【チハ】同様側面や後部を狙うしかなく、かなり難度の高い任務でした。

後継となるはずだった【チヘ】は結局170輌生産されましたが日本を出ることはなく、また【三式中戦車 チヌ】も同様です。
【チヘ】は日本の兵器開発、生産力の弱さを体現し、主砲やエンジンの開発に手間取った挙句、装甲の厚い【チハ】程度ならすでに軌道に乗っている【チハ】でいいと量産されずじまい。
【チヌ】はすでに戦争末期のために本土決戦用として海外の戦場での救世主とはなりませんでした。

このような状況から、【チハ】はどれだけ苦しくても戦場に身体を張って飛び出していくしかありませんでした。
太平洋戦争、第二次世界大戦中の各国の戦車と比べるとあまりにも弱い【チハ】
まぁアメリカやイギリスはドイツの【Ⅳ号中戦車】(25t)とやりあってるわけですから、同じ中戦車と言っても重量半分ちょっとで貫通力も装甲もない【チハ】相手となるとそりゃ楽勝です。
こうなると逆に【チハ】に撃破された戦車の乗員はさぞ恥をかいたことでしょう。

例え日本が第二次世界大戦に参戦し、戦車事情を事細かに知りえたとしても、当時の兵器開発力では贔屓目に見ても【チヘ】が主戦力となっていたぐらいでしょう。
どちらにしても、もともとない技術力を絞りに絞って完成したものの、時代遅れと言わざるを得ない性能で戦い続けるしかなかった【チハ】【九五式軽戦車】は、有名であるが故に辛く悲しい兵器でありました。

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