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テヘラン会談・宣言

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【テヘラン会談・宣言】とは、連合国の第二次世界大戦による対独攻勢について話し合われた会談、及びその会談を受けた内容の宣言。

【カイロ会談】に続いて行われた【テヘラン会談】は、1943年11月28日から12月3日まで実施された。
参加者はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン書記長及び各々の補佐である。

主題はドイツに対する第二戦線(西部戦線)を築くことと、それに伴いすでにドイツに降伏しているフランスに連合国が上陸することについてであった。
第二戦線については、ドイツ軍と真っ向から対戦を続けるソ連の疲弊が色濃いことから、ソ連が米英両国に支援を要請した。
イギリスはソ連の求める北フランスからではなく、フランス最西部のバルカン方面からの支援を提案した。
この裏にはバルカン方面にソ連が進出してくることが、戦後イギリスにとって悪影響をおよぼすことを危惧してのことだった。

しかし第二次世界大戦のみならず日本との太平洋戦争にも参加していたアメリカは、ソ連に太平洋戦争への早期参加を求めたいという思惑から、ソ連の要請を受け入れ、またイギリスを説得している。
そして思惑通り、アメリカは第二次世界大戦終結後にソ連から太平洋戦争参戦の約束を取り付けたのである。

もう1点大きく議論がなされたのがポーランドの国境問題である。
ポーランドはドイツが第二次世界大戦においてはじめに侵攻してきた国で、またソ連もドイツとの不可侵条約と同時に結ばれた密約に基づいて侵攻。
ポーランドは完全に崩壊していた。
大戦終結後、そのポーランドの国境線をどこに引くかが議論された。
ソ連はもちろん自国の領土、更には自国の影響力がヨーロッパに及ぶところまで接近したいと考えたが、イギリスは当然これに反対。
アメリカよりもソ連の影響力をよほど大きく受けるイギリスはこの主張に対抗したが、しかしここで揉め続けて第二次世界大戦の足並みが揃わないのも不味かったため、ヴェルサイユ条約時の国境線で妥協する予定であった。

しかしロンドンにあるポーランド亡命政府がこれに反対。
ポーランドは長きに渡り他国の争いに巻き込まれ続けていたので、この独立の機で簡単に引くわけにはいかなかった。
結局【テヘラン会談】ではポーランドの国境問題は結論が出なかった。

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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
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