起工日 | 昭和19年/1944年10月14日 |
進水日 | 昭和20年/1945年1月27日 |
竣工日 | 昭和20年/1945年3月31日 |
退役日 (解体) |
昭和23年/1948年7月1日 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,289t |
垂線間長 | 92.15m |
全 幅 | 9.35m |
最大速度 | 27.3ノット |
航続距離 | 18ノット:3,500海里 |
馬 力 | 19,000馬力 |
主 砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門 |
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm単装機銃 12基12挺 | |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 2基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
学校に負傷した兵隊が 機雷で吹き飛ばされた、最短寿命の駆逐艦
【榎】が竣工したのは昭和20年/1945年3月末。
1週間後には「坊ノ岬沖海戦」が始まるほどの時期で、【榎】は第十一水雷戦隊に合流するために舞鶴から瀬戸内海に移動します。
しかし呉に到着してから1ヶ月半、「飢餓作戦」による爆雷投下から、ちょっと航海するだけでも大怪我をする危険性が日毎に増していた中、第十一水雷戦隊は呉から避難し、一路舞鶴へと向かうことになりました。
生まれ故郷へたった1ヶ月足らずで戻ることになった【榎】ですが、5月17日、舞鶴に到着すると思いもよらない反応をされてしまいます。
このように大勢で来られては舞鶴も危険になる、という理由で、第十一水雷戦隊の入港が拒否されたのです。
まさかの事態に第十一水雷戦隊は困惑しますが、上陸できないのに錨を下ろすわけにも行かず、仕方なく【榎】らは福井の小浜湾で待機することになりました。
ですが小浜も敵に見つからないままヒッソリと終戦を迎えることはできませんでした。
6月24日には小浜湾にも空から機雷が撒かれてしまい、突然死が目の前に迫る海になってしまいました。
そしてその脅威は早速【榎】に襲いかかります。
26日、機雷敷設を終えた小浜湾は次に空襲の標的となります。
福井への空襲はここから数度発生するのですが、小浜にはおあつらえ向きに駆逐艦や【酒匂】がいますから、ただの港を襲うのとは訳が違います。
【榎】達は空襲に対抗して戦い、そしてひとまず26日の空襲は乗り切りました。
燃料も少ないのに急な運動を強いられる空襲は困ると、皆疲れた表情で湾内に戻ります。
そんな時でした、【榎】は突然大きな衝撃に襲われます。
敷設された磁気機雷が爆発したのです。
この被害は甚大で、すぐに曳航されましたが傾斜は32度、艦尾着底、船体も大半が水に浸かるという、ほぼ沈没に近い状態でした。
当然動くことはできず、船体はそのままで終戦まで残されてしまいます。
生存者が担ぎ込まれたのはなんと小浜中学校。
生徒たちは遠くからかっこいい軍艦を眺めて海軍に憧れていたかもしれませんし、これまで見たこともないような兵器と、目付きの鋭い兵隊がずらりと並ぶ小浜湾に恐怖を感じていたかもしれません。
そうやって駆逐艦達を見ていた生徒の学び舎に、負傷者や戦死者が続々と担がれてくるのです。
もちろん立ち入り禁止であったでしょうが、衝撃的だったことは間違いありません。
その後湾内に残っていた仲間は再び舞鶴へ移動し、倒れた【榎】だけが残されました。
終戦後の【榎】は3年ほど放置された後、昭和23年/1948年に解体されたと言われていましたが、当時の新聞記事が発見され、浮揚作業が行われたのは実は昭和26年/1951年4月だったということが判明しています。