広告

【橘型駆逐艦 樺】
Kaba【Tachibana-class destroyer】

記事内に広告が含まれています。

起工日昭和19年/1944年10月15日
進水日昭和19年/1944年2月27日
竣工日昭和20年/1945年5月29日
退役日
(解体)
昭和23年/1948年3月1日
建 造藤永田造船所
基準排水量1,289t
垂線間長92.15m
全 幅9.35m
最大速度27.3ノット
航続距離18ノット:3,500海里
馬 力19,000馬力
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 12基12挺
缶・主機ロ号艦本式缶 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
広告

先代の活躍と真逆 ただ痛めつけられただけの3ヶ月

【樺】は先代に「樺型駆逐艦」という戦時急造艦が存在します。
第一次世界大戦開戦直後、日英同盟を結んでいた関係で日本はイギリスより参戦要請が出されます。
しかし別に「ヨーロッパまで来て戦え」というわけではなく(後に再三の要請を受けて主に輸送で活躍)、南洋諸島や中華民国のドイツ植民地の占領という形で連合国に貢献しています。
この戦争に際して艦船の不足を補うという形で急遽建造が決定したのが、「樺型駆逐艦」10隻です。
10隻全てを半年以内に建造するという超スピードでした。

そしてこの第一次世界大戦では、なんとフランス海軍より駆逐艦の発注がありました。
第一次世界大戦はまだ航空機が戦闘に直接関与することがほとんどなく、陸上、海上での戦いがメインでした。
そのため失われる艦船の数は凄まじく、フランスは国力と建造能力に余裕がある日本に発注をしたのです。
この発注された「アラブ級駆逐艦」12隻の元となったのが、この「樺型駆逐艦」で、一部武装の変更がなされて地中海へと送られました。

さて、二代目【樺】は先代のそのような意義のある誕生経緯とは全く縁がなく、5月29日の竣工では船の数が増えたところでなんにも意味がない時期でした。
第十一水雷戦隊に編入されるも、燃料カツカツの日本では船を動かすことだけでも一苦労。
しかも大阪湾~瀬戸内海~関門海峡付近はアメリカの「飢餓作戦」により機雷が大量にばら撒かれていて、燃料が許しても機雷が移動を許しませんでした。
そして浅はかな行動をとったものには制裁を加え、【樺】は6月30日までに機雷の爆撃で損傷しています(29日?)。

損傷は大したことがなかったようですが、修理後も【樺】にお役目はありませんでした。
7月15日には、6月22日の空襲で損傷した【楡】は乗員がまるまる【樺】に移籍し、第五十二駆逐隊に編入されますが、駆逐隊と言っても管理上の存在でしかありません。
そして24日には呉軍港空襲があり、その余波で山口県光沖にいた【樺】達も爆撃を受けてしまいます。
この空襲で【樺】は小型爆撃1発を被弾し、35名が戦死しました。

そしてしばらく偽装係留されたあと、防空任務に付くために呉に移動。
そしてそのまま終戦を迎えた【樺】は、復員輸送に従事した後、アメリカへ引き渡されましたが即日売却され、昭和23年/1948年3月1日に解体されました。

駆逐艦
広告

※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

タイトルとURLをコピーしました