十八試丙夜間戦闘機電光 |
全 長 | 14.25m |
全 幅 | 17.50m |
全 高 | 4.25m |
主翼面積 | 47.00㎡ |
全備重量 | 10,180kg |
航続距離 | 1,600km |
発動機 馬力 | 空冷複列星型18気筒×2「誉二二型」(中島) 1,860馬力×2 |
最大速度 | 590.0km/h |
武 装 | 20mm機関砲 4門 30mm機関砲 2門 爆弾60kg4発または250kg1発 航空魚雷1t 1発 |
符 号 | S1A |
連 コードネーム | |
製 造 | 愛知航空機 |
設計者 | 本庄季郎 |
愛知初の戦闘機は10t超えの重戦闘機 電光
当時日本には夜間戦闘機として【二式陸上偵察機】から斜銃装備などの改造を経て誕生した【月光】を運用していました。
しかし【月光】ではどうしようもない敵が誕生するとの噂を聞きつけた海軍は、緊急にこの空飛ぶ要塞を撃退する手段を用意しなければならなくなりました。
その敵こそ、やがて日本各地を焦土にする【B-29】です。
高高度を雄大に飛行する四発超大型爆撃機を下から撃ち落とすためには、転用が続いてようやく隙間に収まって活躍している【月光】の能力では明らかに不足していました。
そこで海軍は【十八試丙型夜間戦闘機】(のちの【電光】)の開発を決定。
【月光】と【銀河】からの転用である【極光】とは違い、純粋な夜間戦闘機として一から開発が始まりました。
これは世界的に見ても珍しい例です。
ちなみに「丙」とは対爆撃機を想定された戦闘機のことで、結果的に夜間戦闘機を指すと考えてもいいです(対爆撃機襲撃は夜間に行われることが大半だったため)。
戦時中の逼迫した事態であり、本来であれば戦闘機の開発に長けた三菱や中島飛行機に頼みたいところなのですが、すでに三菱は【烈風】や【閃電】、中島は【天雷】開発などで手一杯の状態。
ここにまた新基軸の戦闘機の開発を依頼するのは流石に無茶でした。
この2社がダメとなると、選択肢は一気に限られます。
川西航空機か、愛知航空機か、実績で見ればこの二択です。
そして選ばれたのは愛知航空機でした。
しかし愛知航空機は振り返れば【九九式艦爆】、【彗星】などの爆撃機の他に【流星】を生み出した航空機メーカーであって、戦前の実績も含めて「艦爆屋の愛知」と呼ばれていました。
そこにいきなり四発爆撃機を撃ち落とす戦闘機を作れというのですから、愛知もさぞ驚いたでしょう。
ただ一方で川西は【紫電】を生み出して入るものの元は水上機メーカーですから、この判断は致し方ないのかもしれません。
寝耳に水だった愛知ですが、愛知は大手2社に比べると会社規模も大きくありません。
その愛知に新しい夜間戦闘機【電光】の製作依頼が舞い込んできたことで、社は大いに盛り上がりました。
しかしその要求は初めて戦闘機を作るからといって妥協されることは一切ありません。
速度590km/h(高度8,000m)、上昇6,000m/8分、エンジンは最大出力が出せる中島の「誉」を2基、そして武装は30mm機銃2機と20mm機銃を前方と機体上部に2機ずつ。
上部の機銃は【月光】の斜銃と同じようにターゲットを下から撃ち落とすために使います。
高高度での高速性と上昇力、【電光】にとってもっとも困難だった条件はここです。
特に厄介なのは高高度に至るまでの上昇力で、抵抗の塊に頭から突っ込んでいくのですから、ここには単純明快、猛烈なパワーが絶対的な条件です。
その上昇力が、「誉」だけでは不足していました。
本当なら排気タービン付きのエンジンを搭載したかったのですがまだ性能が不安定だったため、やむなく酸素噴射の二二型を採用。
高高度では燃焼に必要な酸素が不足するため、それを補う特液噴射装置を搭載して酸素をシリンダーに補充できるようにしました。
この他、製作の過程での効率性を高めるために、機体の断面が四角形というのも【電光】の大きな特徴と言えるでしょう。
斜銃の役割を果たす上部の機銃は遠隔操作なのですが、射手が入る偵察席や兵装の配置箇所から、この四角形が採用されました。
他にも親子二重フラップを採用して多くの場面で空気制動が行えるようにし、特に夜間離着陸の安全性を向上。
また機首には電探を取り付けています。
愛知は苦心しながらも、昭和18年/1943年11月から開発を始めた【電光】の木型を翌年8月には組み上げました。
初の戦闘機であり、また初の双発機、実績もなく、戦時中で他の航空機開発もある中では十分な速さではないでしょうか。
しかもエンジンの関係で上昇力には難点があったものの、概ね良好な機体ができあがったのです。
ただ一部を除いて。
その一部とは、想定以上の巨体となったこと。
実は【電光】の機体は【銀河】と似ていて、量産性を高めたり必要部品の調達を容易にするために設計の段階から【銀河】を意識していました。
他メーカーの機体との共通性を持たせた設計をしたという観点は素晴らしいと思いますが、要求が過剰であったことから、その大きさまでも【銀河】に酷似してしまいました。
しかも自重は【銀河】以上(爆弾等を搭載するため、正規装備では【銀河】のほうが上です)。
総重量10t超えという、日本史上最重量の戦闘機となりました。
さらに【電光】は諸元の性能を出す上で、戦時開発機とは切っても切れない「誉」不安定さという難題に直面します。
特に相手は超高高度を飛行する【B-29】ですから、速度はともかく攻撃できる高さまでいかに早く到達できるかは【電光】にとっては譲る余地のない至上命題でした。
性能不足の上に想定以上の超重量。
この状況は急を要する戦闘機開発にとって、登りきるにはあまりにも高い壁でした。
木型完成から2ヶ月後の10月、海軍はやむなく【電光】の開発中止を命令。
愛知苦心の作は日の目を見ることなく葬られることになりました。
しかし愛知は諦めません。
自社初の戦闘機開発は今後必ず役に立つと考え、愛知は試作機2機の製作をはじめました。
ところが翌年6月、試作機完成間近という時に、まさに【電光】が撃墜すべき相手であった【B-29】の空襲によって1号機が焼失。
そして7月にも2号機が焼失してしまい、愛知の努力の結晶は誕生することなく終わりを告げるのです。