全 長 | 15.30m |
全 幅 | 19.91m |
全 高 | 4.15m |
主翼面積 | 49.2㎡ |
自 重 | 3,703kg |
航続距離 | 1,300km |
発動機 馬力 | 「ハ1乙」空冷星型9気筒×2(中島) 620馬力×2 |
最大速度 | 365km/h |
武 装 | |
連 コードネーム | Thora(ソーラ) |
製 造 | 中島飛行機 |
設計者 | 明川 清 |
民間の本格的輸送機を軍事化 裏方での任務を忠実に遂行
長らく飛行機は軍用機であったり、数人を移動させる手段に留まっていて、多人数を輸送するほどの大型機の誕生には少し時間がかかりました。
特に日本では本格的な輸送機を製造できたのが昭和11年/1936年とかなり遅く、【ダグラス DC-2】を中島飛行機が国産化させた【AT-2】がようやく実用性の高い、10名の輸送ができる輸送機として誕生しました。
この時すでに「満州事変」が継続中。
満州航空からの要望で、日本から中国へいちいち船で時間をかけて人を運ぶよりも、短時間で反復輸送を行える輸送機が求められていました。
中島はこの時流に乗って【DC-2】のライセンス生産を行うことになり、【DC-2】の設計を大きく活用しつつ部分改善を行った【AT-2】の設計が進みました。
しかし輸送が10名止まりとなったのは、これは機体設計の限界ではなく、飛行場の整備がまだまだ不十分な場所が多くて耐え切れないというのが原因と言われています。
元となった【DC-2】は14名の輸送が可能です。
ベースがよく、また設計の明川清の腕もあって【AT-2】の性能は高評価を受けます。
操縦しやすく、乗り心地も安定していた【AT-2】は昭和11年/1936年9月に初飛行し、そして9月中に早くも満州に飛び立ちました。
もちろん民間機ですから、国内でも日本航空輸送、そして合併後の大日本航空で使用されました。
【AT-2】は合計33機が製造されています。
さて、【AT-2】の性能の高さを見たのが陸軍です。
民間に優秀な輸送機があるとなると、陸軍としては滅茶苦茶簡単に手に入る機体ですから見逃すはずがありません。
なんせ戦闘機や爆撃機とは違って輸送機ですから、極端に言ってしまえば設計そのままでも使えます。
そして実際、設計には手が加えられたとはいえそれは軍事転用のための改良ではなく【AT-2】そのものの改良であり、操縦性のさらなる改善とエンジンを「ハ1乙」に変更、そして内装の軍事仕様化ぐらいです。
こうしていきなり誕生した【キ34/九七式輸送機】ですが、中島は三菱と並んで今や日本の航空機企業の中心企業です。
言っちゃあなんですが、軍事航空機の設計製造に全力を注いでいる中で自社でなくても造れる輸送機を造ってる余裕なんてないのです。
ということで、中島製の【九七式輸送機】は一緒に製造することになっていた立川飛行機に一本化されることになりました。
とは言うものの、そのあと海軍が三井物産を通じて【DC-3】の生産ライセンス契約を結び、昭和飛行機工業が製造することになった【零式輸送機】。
これが昭和飛行機工業が設立されたばかりの新興企業でノウハウが全くなく、全然生産が進まないということで仕方なく初期型の【一一型】だけ中島が生産を71機請け負ったりしています。
【九七式輸送機】は中島がたった19機、残りは立川が約300機ほど製造しています。
【九七式輸送機】で有名なのは太平洋戦争緒戦の「パレンパン空挺作戦」。
この空挺部隊の輸送に使われたのが【九七式輸送機】です。
この他初期は非常に使い勝手の良い輸送機ではありましたが、【キ57/一〇〇輸送機】が登場すると次第に置き換わっていきました。
それでも危険な戦場には現れなくなっただけで、軍事的な利用は継続して行われ、終戦まで現役で使われ続けていました。