全 長 | 6.47m |
全 幅 | 2.70m |
全 高 | 2.90m |
自 重 | 26.0t |
最高速度 | 22km/h |
走行距離 | 110km |
乗 員 | 5人 |
携行燃料 | 400ℓ? |
火 砲 | 九四式七糎戦車砲 1門 |
九四式三十七粍戦車砲 1門 | |
九七式車載軽機関銃(7.7mm) 2門 | |
エンジン | BMW Ⅳ水冷直列6気筒ガソリンエンジン改造 |
最大出力 | 290馬力 |
各 所 装 甲
砲塔 前面 | 30mm |
砲塔 側面 | 25mm |
砲塔 後面 | 25mm |
砲塔 上面 | 12mm |
車体 前面 | 35mm |
車体 側面 | 30mm |
車体 後面 | 25mm |
車体 上面 | 12mm |
車体 底面 |
実用的な重戦車の開発へ しかし短期的展望が将来を奪い試作止まり
苦心の末に誕生した、日本初の国産戦車【八九式中戦車】。
昭和4年/1929年10月に【八九式軽戦車】の名で仮制式化され、以後改良を重ねながら日本の主力戦車として増備が進んでいました。
この【八九式中戦車】の開発の前、まず最初の戦車設計として【試製一号戦車】が昭和2年/1927年に試作されています。
【試製一号戦車】は予定重量16ノット、路上の最大速度は25km/h(当時としては快速)、57mm戦車砲を搭載するという内容で設計されたのですが、初の試作戦車の性能は見学者から驚嘆の声が相次ぎました。
一般道を問題なく走り切れるかどうかすら不安視されていた戦車は、急傾斜も何のその、当時の戦車にとって何よりも重視された塹壕の突破も見事にこなし、荒れ地の安定性も素晴らしいと、いやこれほんとに初めてなの?と疑うぐらいの大成功を収めたのです。
しかし残念ながら設計の関係上、重量は18tと予定より2tオーバー、速度も20km/hにまで落ちてしまいました。
このため、【試製一号戦車】は試作車としての役目は存分に果たすことができましたが、そこから量産への道には繋がりませんでした。
この結果に伴って10tクラスの戦車が開発され、それが【八九式中戦車】なわけですが、しかしこの重量級の戦車というのはなかなか捨てがたい存在でした。
大きいことはいいことです、特に戦車の場合は、全長を長くしても塹壕突破という面では使い勝手はよくなります。
そこで陸軍は、【八九式中戦車】開発とは別に重戦車の新試作にも着手し始めました。
それが昭和3年/1928年3月から開発が始まった、【九一式重戦車】です。
【九一式重戦車】は、前回性能が落ちてしまった速度をエンジン改良によって再び20km/hへ増加。
主砲は当初は同じ57mm戦車砲でしたが、後ほど18.2口径70mm戦車砲へと変更されています。
貫通力はともかく、70mm戦車砲となると第二次世界大戦の主力戦車で多かった75mm戦車砲に近い大きさとなります。
他に6.5mm軽機関銃3基を搭載しており、【試製一号戦車】よりは格段にグレードアップしています。
【九一式重戦車】は研究の意味合いが強く、結局昭和7年/1932年に1輌が完成したっきりでしたが、この経験を積んでいよいよ陸軍は本格的な重戦車開発に挑むことになります。
昭和7年/1932年12月、「ロ号」という秘匿名称で再び重戦車開発がスタートします。
当時の戦車はもともとの誕生意義である歩兵直協、つまり歩兵と歩みを共にして進軍をサポートするという役割でしたが、第一次世界大戦終結後は、各国疲弊を癒す一方で細々と戦車の新機軸を模索していました。
その中で考えられたのが、1つの戦車に複数の砲塔および機銃を搭載する、多砲塔戦車というものでした。
戦車の弱点は砲が向いていない部分、多くの場合は側面や後方になりますが、その側面や後方側にも砲が向いていればとっさの襲撃にも対処できます。
また、この多砲塔があれば歩兵と離れて進撃しても、複数の砲火によって敵を圧倒することができると考えられたのです。
この狙いに基づき、イギリスが世界で初めての多砲塔戦車【インディペンデント重戦車】を開発します。
実は日本の【試製一号戦車、九一式重戦車】も多砲塔戦車に類されいます。
これは機関銃類も砲塔(銃塔)の数に含まれるからです。
そして【九五式重戦車】は、主砲に続く副砲も、機銃ではなく戦車砲として、より強力な攻撃力を発揮する戦車を目指しています。
主砲は九四式七糎戦車砲、そしてその砲塔の前左側の副砲塔には、九四式三十七粍戦車砲が搭載されました。
ですからこの車体は左右対称の構造にはなっていません。
三十七粍戦車砲は【九五式軽戦車 ハ号】や【九七式軽装甲車 テケ】の主砲としても搭載されていますから、軽戦車一輌分の攻撃力が【九五式重戦車】に上乗せされているといえます。
主砲の裏側と車輌後部には九七式車載機関銃(口径7.7mm)が1基ずつ搭載されていて、これで砲数は4つとなります。
装甲は【九一式重戦車】よりも増しており、車体の前面装甲は35mm、側面も30mmと、当時としてはかなりの厚さを誇りました。
しかしこれだけの砲とこれだけの装甲を貼ってしまうと、言わずもがな、重量が大きく増えてしまいます。
最終的に【九五式重戦車】は26tに膨れ上がっています。
それでも多砲塔戦車でこの重量はどちらかというとかなり絞り込んだ方で、例えば【インディペンデント重戦車】は33tですし、ソ連の【T-35重戦車】は45tもあります。
アメリカの【M3中戦車 リー】ですら26tですから、運用上の問題はあったとしても、サイズと攻撃、防御のバランスは取れていたと言えるでしょう。
加えて日本は戦車は鉄道輸送を主とするという考えがあったため、車体のサイズにも制限がありましたから、設計陣の努力は十分な成果として現れているのです。
足回りはいくつもの小転輪を並べていた【九一式重戦車】と違い、【八九式中戦車】と同じ9つの転輪へと転換。
これは高速性を高めたり整備面の配慮があって【八九式中戦車】で採用されており、事実【八九式中戦車】は【ルノーFT-17】よりも快速を発揮して、国産化を決断していた陸軍を安堵させています。
この足回りの変更に加えて、BMW Ⅳ水冷直列6気筒ガソリンエンジンを改造したBMW6290AGを搭載します。
馬力は290馬力と強力なもので、これらの組み合わせによって、【八九式中戦車】のおよそ倍の重量にもかかわらず、整地での最大速度はたった3km/h遅い22km/hとなっています。
【九五式重戦車】は昭和9年/1934年9月に試作一号車が完成します。
上記の通り、これまでの試作車開発と【八九式中戦車】のノウハウが注がれた【九五式重戦車】は、決して名前負けするような性能ではありませんでした。
しかし残念ながら、この時日本が置かれていた戦況では、【九五式重戦車】の力は必要とされていなかったのです。
当時日本は中国大陸で「満州事変」や「第一次上海事変」などを起こしており、中国軍との抗争が続いていました。
そこで用いられた【八九式中戦車】や【九二式重装甲車】などは、いずれも歩兵の足を引っ張らない高速力が評価されており、他にも多種の装甲車が活躍していました。
そして幸か不幸か中国軍は有力な戦車を持っていなかったため、これら高速性重視の戦車、装甲車(実質的には豆戦車)の増備のほうが前線では求められたのです。
対して【九五式重戦車】は、名前の通り重戦車です。
確かに速度差は大きくありませんが、戦場では【八九式中戦車】ですら荒れ地で使いづらく、止む無く装甲車をメインで働かせたケースが発生しています。
このことを考えると、速度は悪くなくても、重くて機動力がない【九五式重戦車】は、今戦況が求めている戦車ではなかったのです。
また、【九五式重戦車】でなければ突破できない状態でもなく、使いどころの少ない重戦車よりも【八九式中戦車】の増備、そしてさらには軽戦車の配備が急がれたのです。
結局【九五式重戦車】は4輌が生産されたものの、ついに5輌目は誕生せず、そしてこの4輌はいずれも戦場に現れることはありませんでした。
そして4輌のうち1輌は、大口径砲を搭載した自走砲開発の試作に活用されています。
三菱が開発に取り組んだ【自走砲 ジロ車】は、九六式十五糎榴弾砲もしくは九二式十糎榴加農砲を搭載する計画で、実際に改造された【九五式重戦車】にはこの九二式十糎加農砲が搭載されました。
ところが【ジロ車】は速度25km/hという遅さが戦車部隊の要求である40km/hに遠く及ばず、またしても【九五式重戦車】の歴史は開くことがありませんでした。
実は日本の戦車史の中で、ここで重戦車開発に区切りがついたのは大きな損失でした。
世界は徐々に戦車の普及に伴い、対戦車砲は当然ながら、戦車を攻撃するための戦車の開発に移りつつありました。
つまり、敵戦車が強力になると歩兵では対応が危険になるため、その分厚い装甲を活かして戦車で対抗しようというわけです。
戦場ではかつて地獄を生み出した塹壕戦は減少し、地上戦は歩兵、戦車のみならず航空機も現れるなど様変わりしました。
そして昭和14年/1939年の「ノモンハン事件」で、日本は初めて戦車による対戦車戦を経験しました。
ソ連の戦車は【BT-5】や【BT-7】で、かつて日本はこれらの戦車にボッコボコにされたというのが定説でした。
しかし当時のソ連の資料が続々と発見、公開されるにつれて、これらの歴史が大きく覆っている今日この頃です。
とはいえ、【八九式中戦車】が楽々戦えた相手でないことは事実です。
そして【八九式中戦車】や【九七式中戦車 チハ】の現性能では、決して敵戦車に対して十分な能力を持っていないことが明らかとなりました。
【チハ】の主砲が貫通力の高い一式四十七粍戦車砲へ換装されることになったのも、この「ノモンハン事件」の戦訓によるものです。
また同時に次代の中戦車として【一式中戦車 チヘ】の開発が始まりました。
この後も、日本はとにかく「中戦車」の開発を急ぎますが、ついに「重戦車」は着手されませんでした。
逆に全備重量150tというぶっ飛んだ【超重戦車 オイ】にまで針が振り切れています。
26tの重戦車造った次の重量級が150tです。
昭和9年/1934年に【九五式重戦車】が完成し、そして7年後に【超重戦車 オイ】の開発が始まるまでの空白期間、日本の戦車開発は全て軽戦車と軽めの中戦車だけで、対戦車戦を重視した重戦車の開発は完全にストップしていたのです。
さらに重戦車開発が進まないとなると、それに搭載する戦車砲の開発も停滞します。
もちろん戦車に搭載しない、対戦車砲の開発は続けられますが、それでも兵器は自国の兵器性能を敵兵器性能に見立て、それを上回る開発をするのが基本です。
つまり自国の戦車が中戦車や軽戦車だと、戦車砲もその威力の上限が低いから、高威力兵器の開発が遅れてしまうのです。
事実、【チハ】が搭載していた九七式五糎七戦車砲は、口径こそ大きいものの貫通力が非常に乏しく、そしてついに次の一式四十七粍戦車砲が、終戦まで日本最強の戦車砲に留まってしまうのです。
そして結局強力な貫通力を持つ戦車砲は戦時中に慌てて開発されることになり、例えば【四式中戦車 チト】や【五式中戦車 チリ】、そして自走砲や砲戦車搭載用のものが開発されました。
ですがいずれも終戦までに間に合わなかったのです。
やがて始まる太平洋戦争でも【チハ】は日本の主力戦車として各地で走り回ることになりますが、今度は対戦車戦を経験し、かつそれを上回る戦車開発競争の荒波に飲み込まれたイギリスの同盟国であるアメリカが相手となります。
そして最初は直接戦争に参加していなくとも、技術力が群を抜き、かつイギリスから逐一戦況、戦訓を得ているアメリカ戦車は瞬く間に成長しました。
【チハ】は35mm戦車砲を備える【M3軽戦車 スチュアート】に簡単に貫通される薄い装甲でした。
そして【M4中戦車 シャーマン】相手になると、75mm戦車砲でばんばん抜かれるのは当然として、こちらの主砲で抜くためには、近づいて側面や後面を奪うしか方法はなく、正面はほぼ不可能(抜けるっちゃ抜けますが、そんな距離まで近づくうちにこっちが撃たれる)、完全に劣勢となってしまいます。
この7年間の空白の間、細々とでも重戦車の開発が進んでいれば、【スチュアート】ぐらいには楽に処理することができたかもしれません。