巨大な船体、分厚い装甲、一撃で敵を粉砕する大口径主砲
その圧倒的な存在感と、驚異的な威圧感。
日本では【大和】に代表される「戦艦」です。
第二次世界大戦・太平洋戦争を絶頂期とした世界各国の戦艦は、どのような歴史をたどってきたのでしょうか。
そして何故現代では最大最強の戦艦は消滅してしまったのでしょうか。
敵を破壊するためにでかい大砲を運ぶ乗り物
時は大航海時代、太陽の沈まない国スペイン帝国が大西洋を支配しつつも、欧州各国がそれに対抗して熾烈な海洋競争が繰り広げられていました。
当時各国がこぞって建造したのが『ガレオン船』と呼ばれる帆船で、高速性と豊富な積載量、そして大砲を左右に数門配備していました。
この頃の海戦は海賊映画などでよく見られる、数百メートルほどの近距離で多数の大砲の撃ち合いや体当たりであり、そしてこれは船をより巨大に、そしてより強力で数多くの砲門を要する船を建造させる大きなきっかけとなります。
無敵艦隊の旗艦であった有名な【サン・マルティン号】は1,000t級で50門ほどの砲門を構えていたとされます。
やがて大英帝国が無敵艦隊を打ち破ると、スペイン帝国は他国との争いにも敗れて凋落していきます。
イギリスは無敵艦隊の『ガレオン船』に対して単縦陣を組み、一斉砲撃によってスペイン帝国を粉砕。
以後、単縦陣で強力な砲撃を発揮するためにより多くの砲門を持つ帆船の建造が始まります。
この戦列を組んで砲撃をすることを主とした船を「戦列艦(Line-Of-Battle-Ships)」と呼びます。
イギリスは「寸法規定」という制度を敷いて、戦列艦の分類を画一的にしようと試みますが、他の欧州がガツガツ戦列艦を建造する中、イギリスはこの「寸法規定」のおかげで改革的な設計ができなくなってしまいました。
イギリスが自分の首を絞めている間に、ライバルであるフランス・スペインは着実に力をつけていき、ついに計74門の砲門を持つ戦列艦を建造します。
その後もモリモリ砲門を搭載した戦列艦が建造されていき、最大で120門を超え、排水量5,000tにもなる超強力な戦列艦も誕生しました。
しかし火砲は増えても技術に革新はありません。
つまり木造船であり、帆船であり、船の耐えうる強度と大きさの限界は火砲の増強に対応できないのです。
結局大砲を積みすぎると船が重すぎて動きづらい、もっと言えば戦えないという問題があり、どのバランスを採用するかが次の焦点となりました。
最終的に浸透したのは74門の戦列艦で、そして約80年もの間、この74門の戦列艦は海軍力の中心的存在としてたびたび海戦に現れるようになりました。
ただ、激化するイギリスとフランスの争いは常に拮抗し、戦争に次ぐ戦争だった当時であっても海戦では明確な勝利敗北が決したものは多くありません。
出遅れたとはいえ大英帝国、いつの間にかフランス海軍の海軍力を上回り、フランスは劣勢である海戦に消極的だったのです。
やがてイギリスでは産業革命が起こり、その影響は船にも当然波及します。
強度を高めることができたために門数が増えてもバランスが保たれるようになる、純木造からより強固な鉄が加えられた戦列艦ができる、蒸気動力を用いてスクリューを備えた戦列艦ができる。
そして万延元年/1860年、ついにフランスが初の【航洋装甲艦 ラ・グロワール】の建造に成功します。
負けじと文久元年/1861年にはイギリスが鉄製の【航洋装甲艦 ウォーリア】を建造。
この【ウォーリア】は【ラ・グロワール】の2倍の大きさ、どころか装甲・砲撃力・速度のいずれも勝っていました。
これは【ラ・グロワール】が錬鉄製に対して【ウォーリア】が鉄製であり、重量の関係から設計がどうしても大型・長大化してしまったという面もあります。
装甲艦の誕生には、数えて10回目の露土戦争にあたる「クリミア戦争」で勃発した「シノープの海戦」が大きく影響しています。
この時ロシアの戦列艦5隻を備えた黒海艦隊が奇襲でオスマン艦隊をボッコボコにしてしまいますが、この時の被害があまりに悲惨で、大砲や砲弾の進化に対して今の木造船はあまりに無力であることが証明されます。
敵の攻撃力が味方の防御力を上回るのであれば、それに耐えうる防御力を備えなければなりません。
このことで甲鉄を貼り付けた装甲艦が現れるようになったのです。
しかし【ウォーリア】が生み出した装甲艦は、産業革命のめまぐるしい発展の中のほんの一部にしかすぎません。
文久元年/1861年就役の【ウォーリア】は砲撃を交えることなくたった10年で第一線から退いています。
各国船体の大型化に並行して、同じく甲鉄、製鉄技術の向上によって主砲もどんどん改良されていきました。
目立つところでは後装式の大砲の誕生がありますが、それ以上に重要なのが旋条砲という、いわゆるライフル砲の登場です。
旋条砲の登場によって弾道の安定性や貫徹力が上昇し、またこれに合わせて砲弾の形状も貫徹・推進力を受けやすい昨今の一般的な形状に仕上がります。
そしてこれらの技術が組み合わさることで、新たに砲塔という概念、装備が誕生するのです。
各所で技術改革が急速に進む中、1880年代になると初めて「戦艦」の言葉が現れました。
イギリスでは明治20年/1887年に【アドミラル級戦艦 コリンウッド】が建造されています。
しかし「世界初の戦艦」と言われると、はっきりした答えはありません。
まず「戦艦(Battle Ship)」という定義そのものがイギリス発祥で、例えばイタリアの「カイオ・ドゥイリオ級戦艦」は明治13年/1880年建造ではありますが、これは「装甲艦」として分類されていることも多く、定義が生まれてから後付で分類された可能性が高いです。
ですが、「戦艦発祥の国」であるイギリス初の戦艦が「アドミラル級」であることは間違いありません。
海軍大国イギリスの発展は止まりません、明治25年/1892年には「ロイヤル・サブリン級」が建造され、これが近代戦艦の祖と言われています。
排水量14,000tを超える巨大な戦艦は、強力な34.3cm連装砲2基だけでなく、高い乾舷、合理的な防御方式や主砲、副砲の配置など、前弩級戦艦の礎となる要素が多分に含まれていました。
次級の「マジェスティック級戦艦」では、「ロイヤル・サブリン級」で重量軽減のために妥協された露砲塔を装甲砲塔へ変更し、30.5cm連装砲を前後1基ずつ備えたより優れたものとなりました。
そして「マジェスティック級戦艦」は、前弩級戦艦の代表格として世界の手本となっていきます。
この時日本は「マジェスティック級戦艦」をベースとした「敷島型戦艦」をイギリスに発注しています。
馴染みのある【三笠】の配置を思い浮かべていただければ、「マジェスティック級戦艦」のイメージがすぐにわくと思います。
戦艦の性能が右肩上がりに向上する中、世界各国が注目する歴史的な出来事がありました。
明治37年/1904年~明治38年/1905年の日露戦争です。
1870年代から装甲艦、そして80年代から戦艦が現れましたが、しばらく砲撃戦は発生しませんでした。
しかし明治38年/1905年5月、イギリス製の最新最強戦艦【敷島型戦艦 三笠】を中心とした連合艦隊と、ロシア自前の【ボノジロ級戦艦 クニャージ・スヴォーロフ】(仏製の前級をベースとしています)を旗艦とするバルチック艦隊が「日本海海戦」で激突。
結果、日本は疲労困憊のバルチック艦隊に対して終始優勢に攻撃を繰り出して完勝しています。
世界はこの戦いから、戦艦にはより強力な火力はもちろん、より数多い砲門数が必要だと確信し、そして再びイギリスで戦艦の革命が起こりました。
明治39年/1906年12月、イギリスを含めて全世界に激震が走った、【ドレッドノート】が満を持して登場します。
弩級戦艦時代到来 そして欧州初の戦艦同士の戦闘へ
少し話を戻しますが、日本に戦艦という言葉が浸透したのはいつ頃でしょうか。
できたてほやほやの新生日本は、ありとあらゆるものを欧米から取り入れており、海軍に関してはイギリスをお手本にしていました。
イギリスでは議会の中で「Battleship」という言葉が明治20年/1887年に使われていましたが、日本はすぐに戦艦という言葉を使ってはいません。
明治4年/1961年に一等軍艦から七等軍艦、明治23年/1890年からはこれを改めて第一種から第五種という区別に改められています。
この時点では「Battleship」は戦闘艦と訳されており、おおよそ第一種をさす言葉として使われていました。
なのでスループやコルベット、巡洋艦も全部戦闘艦に属することになります。
明治31年/1898年に改められた等級では、この第一種がより細かく分けられて、この中で最も強力な主砲を搭載する戦闘艦を新たに戦艦と称して分類することになりました(排水量10,000tを基準に一等・二等が区分されます)。
日本で公に戦艦という言葉が使われたのはここからになります。
さて、【ドレッドノート】以前のいわゆる前弩級戦艦は、主砲である連装砲が前後に1基ずつ、両舷に幾つかの大きめの副砲を備える形が概ね世界で統一されていました。
しかし命中率は非常に悪く、前弩級戦艦は威嚇しながら接近、やがて副砲による攻撃も加わり、最終的には体当たりをし、艦首の水線下にある突き出た衝角で敵装甲を貫いて浸水を起こすという戦い方を念頭に設計がされています。
ところが先の「日本海海戦」では突っ込んで敵船を破壊するような攻撃は一切ありませんでした。
距離8千~1万メートルという、当時としては戦艦の主砲ではなかなか命中しない距離で、日本は艦隊を巧みに操って丁字戦法をとり、一斉砲撃を開始して徐々に接近。
結果、日本は少ない被害で最大限の火力をバルチック艦隊に浴びせることに成功しました。
世界が、とりわけイギリスが注目したのがこの片舷砲門数の増加でした。
かつては大砲を積めるだけ積んで撃ちまくっていた戦列艦、しかし時代はやがてどれだけ強力な主砲を搭載するかと同時に、水雷艇対策や接近戦で速射性が求められる副砲を満遍なく搭載する形に変わっていきます。
その結果主砲の門数は口径重視によって減少傾向にありましたが、それをもう一度門数を増やして一気に叩き潰す方向に持っていく設計となりました。
「日本海海戦」が明治38年/1905年5月、【ドレッドノート】の起工が10月。
当初の設計理念はわかりませんが、この構造に間違いはないと確信した上で建造に挑んだことでしょう。
そして驚くべきことに、たった1年2ヶ月後の明治39年/1906年12月には【ドレッドノート】が世に現れました。
この【ドレッドノート】は、戦艦の在り方を一気にひっくり返した革命的戦艦でした。
これまでの戦艦は連装砲2基の計4門が通常でしたが、【ドレッドノート】は前部に主砲1基、中間部前方両舷にそれぞれ1基ずつ、そして後部に連装砲2基の計10門と2.5倍に飛躍。
片舷最大砲門数は8門と2倍になりました。
このように爆発的な攻撃力を誇った【ドレッドノート】は(他にも様々な影響がありますが割愛)、【ドレッドノート】以前の全ての戦艦を一気に抜き去り圧倒的頂点に君臨しますが、同時に他の戦艦が一斉に陳腐化。
弩級戦艦時代の幕開けです。
しかしその中には当然イギリスの戦艦も含まれており、特に世界最大の戦艦保有国であったイギリスが最も【ドレッドノート・ショック】の影響を受けたという皮肉な結果ももたらされました。
しかし海軍大国イギリスを舐めてはいけません、2年後には21ノットの【ドレッドノート】(蒸気タービンを搭載したのも【ドレッドノート】の特徴)に対して25.5ノットの高速性を持った「インヴィンシブル級巡洋戦艦」が誕生。
防御力を犠牲にして速度を重視した「巡洋戦艦」(戦艦ではなく巡洋艦と認識すべき存在です)もまたイギリスが生み出しました。
なお、後にドイツも巡洋戦艦を建造していますが、ドイツの場合は火力を犠牲にして防御力を戦艦並みに維持しています。
イギリスの快進撃は留まるところを知らず、明治45年/1912年には「オライオン級戦艦」が現れ、全てにおいて【ドレッドノート】を凌駕する超弩級戦艦が誕生します。
艦中央部付近にあった両舷の主砲はなくなり、全て中心線上に配置するようになり(この走りはアメリカの「サウスカロライナ級戦艦」)、そこに配置されたのは【ドレッドノート】の30.5cm連装砲を上回る34.3cm連装砲が5基。
装甲も強化され、ドイツ・アメリカ・フランスも負けじと大口径主砲を有する超弩級戦艦の建造を行います。
日本もこの欧米列強のめまぐるしい進化を指をくわえて見ているわけではなく、弩級戦艦にあたる「河内型戦艦」の建造を明治42年/1909年から始めていましたが、完成した年に「オライオン級」が誕生するなど、戦艦の進化速度に後れを取っていました。
無理もありません、戦艦の建造は前級の「薩摩型戦艦」が初めてなので、技術もそうですが時間もかかります。
このままでは置いていかれると焦った日本は、超弩級戦艦の設計、建造を国内で行う(「扶桑型戦艦」)のと並行して、イギリスにも超弩級戦艦の発注をしています。
それが最も働いた戦艦である「金剛型戦艦」の1番艦、【金剛】です。
日本歴史上、【三笠】に次いで2回目の世界最強戦艦保有の時でした。
大正3年/1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。
戦艦・巡洋戦艦保有数1位のイギリスと2位のドイツが真っ向から戦いましたが、主力艦同士の砲撃戦と呼べるものはたった1回しかありません。
かつてフランスがイギリスとの海戦を回避したように、ドイツもまたイギリスとのまともな撃ち合いは御免だったのです。
しかしそのたった1回が、戦艦の次の姿を決定づけました。
「ユトランド沖海戦」、英独で戦艦・巡洋戦艦・巡洋艦の砲撃戦が行われた、第一次世界大戦唯一の主力艦海戦です。
本海戦の流れなどは置いておいて、結論として「戦艦、特に巡洋戦艦の防御力の脆弱性」が露呈した海戦となります。
先述していますが、イギリスの巡洋戦艦とドイツの巡洋戦艦の意図は違います。
イギリスは防御を捨て、ドイツは火力を捨てました。
そしてこの海戦は明確に「巡洋戦艦の弱点は防御・装甲にある」ということを教えてくれたのです。
遠距離砲撃ができるようになると、落角が垂直に近くなり、真上から降ってくる砲弾にイギリス巡洋戦艦の甲板は全く耐えることが出来ませんでした。
海戦の内容を含め、この海戦でイギリスはドイツに比べて大きな被害を被り、巡洋戦艦は3隻も沈没、それも轟沈・爆沈と甚大な被害が瞬間的に巡洋戦艦を襲っています。
一方ドイツも1隻の巡洋戦艦が沈んでいますが、これは総員退艦後に駆逐艦による雷撃処分であり、両者の巡洋戦艦の最後にも大きな違いがあります。
一時の休息と、大艦巨砲主義の最高峰
第一次世界大戦後、世界は巡洋戦艦にある程度の見切りをつけ、超弩級戦艦をより強化する方向で戦艦の建造に取り組みます。
ここまでイギリスと熾烈な建艦争いを行ってきたドイツは、敗戦と「ヴェルサイユ条約」によって保有・建造制限を受けて脱落。
仏伊も第一次世界大戦の疲弊によって建造を継続することができず、終戦後の開発には乗り出すことができていませんでした。
代わりにのし上がってきたのが、「金剛型」を研究してから残りの3隻と「扶桑型、伊勢型」を建造してきた日本です。
第一次世界大戦によって、戦艦は兵器としての存在感がより増してきました。
戦艦は強力な主砲を運ぶ船ですが、その船を潰されないように防御力を高め、敵戦艦よりも有利に動ける機動力、そして敵を倒すためのさらに強力な主砲を搭載する必要があります。
加えて方位盤や射撃指揮装置などの開発も相まって、どれだけ相手より強い戦艦を持つかが国家の力そのものと言っても過言ではない時代がやってきました。
日本の「長門型」に代表されるように、第一次世界大戦後はついに主砲が40cmを超え、排水量も4万トンに迫ろうというところまできていました。
これに危機感をもったアメリカは、英日と、今は停滞している仏伊を加えた5カ国で「ワシントン海軍軍縮条約」の締結を求め、国家財政を圧迫してまでも行われた建艦競争にピリオドを打ちます。
新戦艦建造の禁止、各国決められた比率以上の戦艦保有の禁止など、主に戦艦と一部の空母に制限がかけられました。
【陸奥】をめぐった一悶着はありましたが、これで「ロンドン海軍軍縮条約」の失効までのおよそ15年間の「海軍休日」が訪れます。
ちなみに保有比率は米英:日:仏伊=5:3:1.67となり、ここまで戦艦開発で独走状態にあったイギリスは超弩級戦艦4隻を廃艦にする上に一気にアメリカに並ばれることになり、少し前まで自国で戦艦を造ることもできなかった日本にも7割まで迫られます。
この「ワシントン海軍軍縮条約」で最も損をしたのは、誰あろうイギリスでした。
昭和11年/1936年に日本は引き続き建造制限を設ける「第二次ロンドン海軍軍縮会議」から退席し、そして「ワシントン海軍軍縮条約」の失効と「ロンドン海軍軍縮条約」の脱退。
15年の「海軍休日」は終焉し、再び熾烈な戦艦競争が勃発します。
破棄通告から2年間は条約は有効のため表立った行動はとれませんが、日本はここから「大和型」を、米英は「第二次ロンドン海軍軍縮会議」で調印しない国があった場合のエスカレーター条項を発動させて戦艦、空母の性能と保有数の上限が引き揚げられました。
もはや戦艦をはじめとした海軍力はアメリカに集中しており、イギリスは「海軍休日」の制約下で苦しんでいました。
しかし事ここに至ってもまだイギリスは失墜することはなく、「キング・ジョージ五世級戦艦」は欧州各国の戦艦には依然として優位に立てる性能を持っていました。
この「キング・ジョージ五世級戦艦」の主砲は35.6cm砲ではありましたが、前代未聞の四連装砲を2基搭載。
さらに連装砲2基の計10門を備え、速度も28ノット、装甲も強固な造りとなっていました。
ただし、四連装砲は重量減に貢献はするものの非常に複雑で、故障がたびたび発生したそうです。
イギリスを差し置いて海軍力世界一の座についたアメリカは、「海軍休日」中に機関や主砲・両用砲などの研究が順調に進んでおり、昭和16年/1941年竣工の「ノースカロライナ級戦艦」もまた28ノットの高速性を実現。
主砲は16インチ(40.6cm)三連装砲が3基、また両用砲や機銃が潤沢に装備され、一気に存在感が増した航空機対策も取られていました。
その後も「サウスダコタ級戦艦」、「アイオワ級戦艦」と間隔を開けずにより強力な戦艦を建造したアメリカですが、特に「アイオワ級戦艦」は空母と共同運用をすることが求められた戦艦で、戦艦の存在理由が誕生以来初めて変わった重要な存在だと思います。
「アイオワ級戦艦」は「金剛型戦艦」を意識した戦艦で、空母と「金剛型戦艦」が同時に進撃してきた場合、アメリカの巡洋艦・空母が「金剛型戦艦」に潰されないため、「金剛型戦艦」よりも強い16インチ三連装砲を装備し、「金剛型戦艦」よりも速い33ノット(設計上)が出せる「アイオワ級戦艦」で迎撃する、という目的が大きくありました。
(しかし大正2年/1913年建造の戦艦に対抗する戦艦を昭和15年/1940年に建造するってすごいですね。)
ちなみに「海軍休日」後の欧州各国の戦艦も軒並み30ノット以上のもので、「キング・ジョージ五世級戦艦」の28ノットが一番遅いぐらいでした。
「大和型戦艦」の27.5ノットも、あの図体に似合わない速さなのですが、世界から見るとかなり遅い部類でした。
一方日本は、条約脱退後に大艦巨砲主義の頂点となる「大和型戦艦」を建造。
アメリカは日本が建造する新型戦艦の主砲はやはり41cm砲だと想定していましたが、とんでもない、46cm三連装砲を3基備える戦艦史上最大の存在となっていました。
当然アメリカの戦艦はこの主砲に耐えうる装甲は要しておらず、直撃すれば問答無用で大ダメージを与えることができます。
また「大和型戦艦」は強力な水中防御力もあり、魚雷の1発や2発ではビクともしませんでした。
実際魚雷が直撃しても船員の殆どが気づかなかったり、速度がたった1ノット低下しただけなど、信じられない逸話があります。
対空機銃もアメリカほどの性能ではありませんでしたがある程度優先的に増備され、これは「真珠湾攻撃」や「マレー沖海戦」で戦艦を機動部隊で撃沈させた戦訓が活かされています。
一方で先に火ぶたが切られた第二次世界大戦では、太平洋戦争のように航空機が水上艦を叩くというケースはまだ多くなく、戦艦の存在感は太平洋戦争より大きいものでした。
有名な【独ビスマルク級戦艦 ビスマルク】対【フッド】の「デンマーク海峡海戦」、またその敵討ちとなった「ビスマルク追撃戦」、「ナルヴィク沖海戦」、「スパルティヴェント岬沖海戦」と結構戦艦同士が砲撃を行う海戦は多いです。
ですが幕開けが「真珠湾攻撃」だったことからもわかるように、太平洋戦争は完全に航空機が主役の戦いでした。
日本は「ミッドウェー海戦」で4隻の空母を失った後、日本で実戦に参加できた新しい空母は【大鳳】だけ。
一方アメリカは「大和型戦艦」と対を成す存在になるはずだった「モンタナ級戦艦」を中止して空母量産に全力を尽くし、大型小型、主力護衛様々な空母を次々と投入していきました。
時代は完全に空母・航空機となり、太平洋戦争で戦艦同士が砲撃戦を交えたのは「第三次ソロモン海戦」のみ。
【比叡】【霧島】も当初の攻撃目標は戦艦ではなくヘンダーソン飛行場でしたから、計画当初から戦艦を叩こうとして戦艦を叩いたことはないと言ってもいいかもしれません。
以後の戦艦の役割は上記のように空母の護衛であったり、逆に占領した海域や領地を護る盾の役割でした。
「戦艦」の名を冠する存在は、この太平洋戦争終結を持って、その役割を実質終えることとなるのです。
偉大なる戦艦、あまりにも急速な幕引き
そもそも戦艦はその存在=国力と言われていましたが、とにかく建造費・維持費が莫大です。
「海軍休日」があったように、自国の強さを顕示する戦艦を建造するために財政を圧迫して国が疲弊するという矛盾を戦艦は孕んでいました。
それでも戦艦は海戦・防衛戦において無類の強さと精神的安定を与える存在で、各国は補助艦艇に力を入れつつも戦艦への執着から脱することはできませんでした。
そこへ颯爽と現れた空母という存在は、これまで国を守ってきた戦艦を蹴散らすことができる全く新しい船でした。
太平洋戦争を見てみると、そこかしこで空母・航空機が戦況を左右しており、潜水艦とともに海面にいない存在こそが海を制する時代となったのです。
これまで海上を威風堂々と航行していた戦艦は、空母の誕生によって長い歴史の終焉に向かうことになりました。
アメリカは「モンタナ級戦艦」の建造を中止した後、二度と戦艦を新造することはありませんでした。
イギリスは昭和21年/1946年の終戦後に【ヴァンガード】を、フランスは昭和25年/1950年に【リシュリュー級戦艦2番艦 ジャン・バール】を竣工させますが、ともに終戦前に起工しており、【ジャン・バール】は戦中に建造が休止していましたが、終戦後に建造を再開させて竣工しました。
そしてこの【ジャン・バール】が、世界史上最後の新造戦艦となるのです。
海戦が発生する戦争も起こらなくなり、また空母のほうが偉大な存在となったためにこの2隻は殆どを予備役として過ごし、大きな仕事が無いまま退役しています。
しばらくもしないうちに、今度はソ連が先陣をきって主砲をミサイルへと変化させることに成功。
ミサイルは、日本語では「誘導弾」と言われることからわかるようにコントロールすることができるため、命中率が主砲の比ではありません。
命中率が低いからこそ、大口径・長射程の主砲を持ち、当たった時のダメージが最大になるようにという思いで戦艦の主砲は進化していきましたが(もちろん命中率向上の努力も惜しんでいません)、このミサイルは途中で迎撃されない限りは基本的には命中します。
また推進装置もついていますから長砲身も不要となり、ますます戦艦の立つ瀬がなくなっていきます。
アメリカが空母を持つ一方で、ソ連はこのミサイルを搭載した「キーロフ級ミサイル巡洋艦」を就役させ、戦艦ほどの大きさがなくても長射程かつ命中精度の高い軍艦を手に入れます。
米ソ冷戦時代、互いが掲げる力の象徴は空母とミサイル巡洋艦で、決して戦艦ではありませんでした。
空母空母と躍起になるアメリカでしたが、戦後予備役に退いていた「アイオワ級戦艦」をたびたび復帰させて「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」に投入しています。
主力が空母とはいえ、相手に与えるプレッシャーもある戦艦はやはりその存在そのものが偉大でした。
アメリカは1980年代に「アイオワ級戦艦」の主兵装をトマホークミサイルや対艦ミサイルに置き換え、引き続き部分運用。
平成2年/1990年の「湾岸戦争」にも顔を出し、戦中に存在した戦艦のカラー写真が鮮明に残されている貴重な存在にもなりました。
しかし、「湾岸戦争」時の艦齢はもう50年という異常な数字です。
いくら兵装を換装しても時代に逆行した存在であることに加え、とにかくお金がかかる、古い設備を扱える人がいない、対空・対潜装備がないという様々な点から、「アイオワ級戦艦」の運用には限界が来ていました。
そして平成4年/1992年、【2番艦 ミズーリ】の退役を持って、全世界から戦艦が姿を消しました。
戦艦の歴史に幕が下りた瞬間でした。
明治20年/1887年【コリンウッド】の誕生を持って戦艦史が始まり、その歴史は105年。
最も巨大で、重火力で、強靭である戦艦は、空母の台頭によって主力艦の座を退き、ミサイルの登場によって新しい時代から切り離されることになりました。
今では戦中の面影を残す艦種は空母ぐらいで、駆逐艦・巡洋艦ともにずいぶんと見た目が変わっていましました。
それもまた、戦艦が消滅したことと同様、時代の変化に合わせて自身の形状も変化をしていったのです。
もう動く戦艦を見ることは叶わないでしょうが、海軍力の象徴とされてきた戦艦にロマンを感じながら、しかし各国の船が平和に海上を航行する日々に再び魔手が伸びないよう、建艦競争のような世を乱しかねない時代が来ないことを願いましょう。