起工日 | 大正10年/1921年6月24日 |
進水日 | 大正10年/1921年10月3日 |
竣工日 | 大正10年/1921年11月7日 |
退役日 (除籍) | 昭和20年/1945年9月15日 |
建 造 | 川崎造船所 |
基準排水量 | 2,300t |
全 長 | 64.31m |
全 幅 | 15.24m |
最大速度 | 14.0ノット |
馬 力 | 4,000馬力 |
装 備 一 覧
大正10年/1921年(竣工時) |
主 砲 | 40口径安式(アームストロング式)8cm単装砲 1基1門 |
機 銃 | 40mm単装機関砲 1基1挺 |
缶・主機 | 片面煙管戻火式ボイラー 5基 |
直立式3気筒3段式レシプロエンジン 2基2軸 | |
その他 | 砕氷能力:厚さ2m |
尼港事件
【大泊】誕生の経緯には、切り離すことのできない憎き事件があります。
その事件、「尼港事件」についてまずは簡単に説明を致します。
大正6年/1917年2月、2月革命により臨時政府を成立させてロマノフ王朝は崩壊し、ロシア革命が一気に前進します。
しかし続く10月革命時、革命の中心人物だったボリシェヴィキに対する反乱分子が蜂起し、革命軍はこれを打ち破るものの、革命派と反革命派の対立は鮮明化しました。
革命によって成立したロシアのボリシェヴィキ政権ですが、ロシアは当時第一次世界大戦でドイツと激しく争っていました。
しかしドイツとロシアの軍事力の差は大きく、革命を推し進めて内乱を押さえ込むために、ロシアはこの戦争から離脱したいと考えていました。
やがて大正7年/1918年3月、ロシアはドイツと「ブレスト=リトクリフ条約」で講和を結び、戦争から離脱。
ドイツは対露戦闘では大方勝利という形でロシアとの戦争を中断でき、英仏との戦争に集中できる、ロシアも革命に邁進できるという利害一致がありました。
困ったのはいわゆる西側諸国です。
英仏としてみれば、二方面に戦力を分散させていたドイツの軍がこちらに集中してしまい、より一層泥沼化してしまう可能性がありました。
また、更にその裏には強大な社会主義国家の樹立という、ロシアそのものへの大きな危機感がありました。
メインはむしろ後者の方で、戦争に大きく加担していないアメリカと日本が、革命派によってウラジオストクに囚われていたチェコスロバキア軍を救い出し、ロシアに事実上の内政干渉をして反革命派を支援するためにシベリア出兵を行うことになりました。
チェコスロバキアはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、チェコ軍をドイツとオーストリアから解放するというのが出兵の看板でした。
しかしチェコスロバキア軍はロシアのボリシェヴィキ政権と戦闘状態にあり、実質チェコスロバキア軍支援の対露戦争と言ってもいい出兵でした。
日本でもこの出兵には賛否がありましたが、日本が共産主義に飲み込まれないように満州や朝鮮半島の地位を確固たるものにするという政治的側面も大きく、出兵に参加することになりました。
ここまでロシア内乱とシベリア出兵について説明してきましたが、正直このロシア内戦とチェコ軍VSボリシェヴィキ政権、シベリア出兵は、複雑に絡まりすぎて、今のところちゃんと理解できていません。
投げやりですが、逆に説明してほしいぐらいですので、すみませんが軽い認識でとどめておいてください。
話を戻しまして、シベリア出兵はあくまで「戦争相手のドイツに囚われたチェコ軍を助ける」と言うものです。
第一次世界大戦は、大正7年/1918年11月に休戦協定が結ばれて終結しました。
これによりチェコスロバキアも独立を勝ち取りました。
つまり、ドイツにとらわれていたチェコスロバキアが解放された以上、看板通りなら争う相手がいなくなったのです。
シベリア出兵の名目は失われ、本来ならシベリアから撤退しなければなりません。
日本は立場をはっきりさせることができず、ロシアに在留しながらも中立姿勢を取って結論を先送りしていました。
しかし反革命派の勢力はどんどん押し切られ、日本人も多く住んでいた樺太北端のすぐ西にあるニコラエフスクにも赤軍の影響力が日に日に増していきました。
そして大正8年/1919年から農民や労働者、さらに同じくニコラエフスクで働いていて、日本に対して敵対心を持っていた朝鮮人や中国人がパルチザンとなって、その勢力は赤軍よりも先に反革命派や日本軍の脅威となりました。
そして、ニコラエフスクは寒い寒い冬を迎えます。
反革命派はもはや体をなしておらず、実質日本軍とパルチザンの戦いでした。
大正8年/1919年1月28日、パルチザンはニコラエフスク付近のチヌイラフ要塞を占拠、さらにその後、要塞からの砲撃によって海軍の無線電信所がが破壊されてしまい、ニコラエフスクは日本との通信手段が完全に途絶えてしまいました。
事態を重く見た日本は、陸海軍ともに支援を送ることにしましたが、海軍はこの寒い季節によってオホーツク海や間宮海峡付近は厚い氷の砦がされていて、【戦艦 三笠】はおろか、砕氷艦に改造されていた【見島】すら進むことはできず、両軍ともニコラエフスクへ到達することができませんでした。
2月28日に赤軍の支援を大きく受けたパルチザンはニコラエフスクに入城。
開城合意文書が交わされていましたが、こんなもの、開城と同時に消滅します。
理不尽な逮捕や投獄、更には殺害が横行するようになり、さらに抗日組織を固めるために朝鮮人や中国人を広く受け入れます。
日本はこれに対して3月12日に一斉蜂起を行いますが、パルチザンどころか、中国海軍までもが出張ってきて各所へ艦砲射撃を行います。
各地で日本人に対する無差別殺戮が繰り広げられ、老若男女、年齢問わず、目に映る日本人は片っ端から殺されました。
これが、ニコラエフスク事件、日本ではニコラエフスクを「尼港」と呼んだので、「尼港事件」と称されています。
この後日本は赤軍に対して一切の妥協の可能性を捨て、ハバロフスクの赤軍を打ちのめし武装解除させます。
その後、ハバロフスクはパルチザンの指揮をとったトリャピーツィンを捕らえるため、ソビエト代表団と反トリャピーツィン組織を接触させるなど、ソ連にとっても「尼港事件」は想定外の大規模な虐殺だったことが伺えます。
簡単に調べるだけでも、日本人だけではなく、パルチザンに所属していない人間全てに対する蹂躙であることがわかる事件です。
悲劇を繰り返すな 国民を救う海軍唯一の砕氷艦 大泊
「尼港事件」は、海軍にとっても衝撃的な事件でした。
何しろ船はあったのにもかかわらず、そして改造とは言え【見島】があったのにもかかわらず、その役目を果たせずニコラエフスクへの道を断念せざるを得なかったのです。
漁業権の争いがあった北方警備ですから、海軍も何も準備していなかったわけではないのですが、このような事態を経験して手をこまねく訳にはいきません。
当時「能登呂型給油艦」の建造計画がありましたが、そのうちの1隻を本格的な砕氷艦の建造へ当てることとし、【大泊】の建造が大正10年/1921年にはじまりました。
【大泊】はロシアの砕氷船【ドブルニア・ニキチッチ】の設計が参考にされています。
砕氷方法は、まず氷の上に乗り上げ、その後前後のタンクに海水を取り込んで自重を増やし、その重みで氷を叩き割るという方法でした。
計画では2mの厚みでも砕くことができるとされていましたが、実際は1mちょっとぐらいだったそうです。
現代は船体を左右に振って氷を砕くのですが、【大泊】はまだタンクの注水、排水による上下動でしか砕氷方法がありませんでした。
ところで、【大泊】は砕氷艦ですから、当然活動は寒い地域、寒い季節に限られます。
にもかかわらず、誕生した【大泊】の艦橋は、簡単に言えば吹きざらし状態でした。
簡単な天幕だけが張られていた状態で、こんな状態で寒風の海上を進めば艦橋内でも凍傷の被害が続出しそうです。
なぜ建造中にこのことに気づかなかったのかは甚だ疑問ですが、1回任務をこなした後すぐに艦橋は密閉式、ガラス窓をはめるなどの改造を施されています。
また同時に、艦首の強度も不足した上、あまり厚くない氷を砕くにもいちいち乗りかかっていたら手間ですので、かつての「戦列艦」のような衝角を追加し、可能ならば氷を航行しながら破砕していけるようにしました。
このように、教訓から生まれたとは言え、まだまだ改善できる余地を残した【大泊】。
しかし任務が非常に過酷な艦種にもかかわらず、砕氷艦は【大泊】1隻のみ、後継、代替艦の建造に至りませんでした。
昭和13年/1938年には本格的な議論にも至ったのですが、対米戦争開戦の炎はすでに灯っており、予算を砕氷艦1隻に回すことはできませんでした。
【大泊】はその唯一の存在と特殊な任務から、戦争に直接加担することはありませんでした。
誕生以来、計測や救出、駆逐艦や海防艦がいないときの海上警備など、常に裏方の役割でしたが、特に民間船や貨物船の救出では大いに活躍。
なにせ自力ではどうにもならず、軍艦も砕氷能力と言えるのは、強いて言うなら鋭角な艦首ぐらいですから、船が身動きを取れなくなるぐらいの氷はこの【大泊】でしか破砕することができません。
【大泊】は寒い北方海域で、漁業や輸送に勤しむ人たちの守り神のような存在でした。
北方は戦闘に巻き込まれたことは多くなく、アリューシャン方面の戦闘と、終戦直前のソ連侵攻ぐらいでしたから、【大泊】は戦争による被害はありませんでした。
しかし【大泊】は常に寒風吹きすさぶオホーツク海や宗谷海峡などで自然と戦い続け、終戦時、艦齢は24年にもなっていました。
終戦後は特別輸送艦に指定されますが、もはや大人数を輸送できる力は【大泊】には残されておらず、整備しようにもかなりの費用がかかるため、使われることはありませんでした。
その後、やはり整備をして海上保安庁の北洋用の巡視船として活用できないかと議論されましたが、やはり古すぎる上に整備費の調達が難しいことから、【大泊】は解体されることになりました。
戦後の砕氷艦は、数年の空白期間を経て【宗谷】が【大泊】のあとを継ぐことになります。