基準排水量 | 665t |
水中排水量 | 886t |
一番艦竣工日 | 呂号第二十九潜水艦 |
大正12年/1923年9月15日 | |
同型艦 | 4隻 |
全 長 | 74.22m |
最大幅 | 6.12m |
主 機 | ズルツァー式2号ディーゼル 2基2軸 |
最大速度 | 水上 13.0ノット |
水中 8.5ノット | |
航続距離 | 水上 10ノット:9,000海里 |
水中 4ノット:85海里 | |
馬 力 | 水上 1,200馬力 |
水中 1,200馬力 |
装 備 一 覧
備 砲 | 40口径12cm単装砲 1基1門 |
魚雷/その他兵装 | 艦首:53cm魚雷発射管 4門 |
搭載魚雷 8本 |
輸送襲撃潜水艦 Uボートに触発された海中型異色の特中型
「海中四型」によってついに中型潜水艦の門を開くことができた日本。
このころは初の排水量1,000t超えの「海大一型」の建造も行われており、スタートが遅かった潜水艦建造競争もなんとか他国と同じレーンを走れるぐらいには成長しました。
そんな中、地球の裏側では世界初の複数国を巻き込んだ巨大戦争、第一次世界大戦が勃発していました。
潜水艦に限って言えば、ドイツが自国の潜水艦「Uボート」を劇的に進化させ、通商破壊作戦をひっきりなしに行ってイギリスをじわじわと苦しめていました。
開戦当初は大した能力のない「Uボート」でしたが、戦時下においてドイツは潜水艦の力を輸送妨害に注ぐことにし、それに合わせて物凄い早さで潜水艦の性能を向上させ、また就役させていきました。
「Uボート」の恐ろしさとその戦い方は遠く日本にも伝わってきました。
日本はまだ潜水艦の使い方は沿岸警備用のものしかなく、「海大型」でようやく艦隊随伴が可能な航洋能力を備えることができました。
しかし「海大型」が敵艦隊を襲撃する一方で、じゃあ「海中型」はどうするんだということになってきました。
沿岸警備はもちろん重要ですが、それだけで潜水艦を増やすのももったいない。
何でもできるに越したことはないのです。
そこに飛び込んできたのが「Uボート」の活躍でした。
海軍はこの通商破壊作戦に飛びつき、沿岸警備だけではなく、周辺を航行する輸送船団を攻撃する力を「海中型」にも備えようとしたのです。
名前が「特中型」ということからも、これまでの潜水艦とは全く異なる存在となることがうかがえます。
さて、通商破壊作戦となりますと、これまでの潜水艦とどう変わるのか。
まず、警戒範囲とその時間が大幅に膨らむため、航続距離が重要になります。
潜水艦の最大の意味は、そこにいるかもしれないという警戒感です。
潜水艦が100隻いても沿岸から1kmまでしか動けなければ、それより遠くを動けば何の問題もありません。
しかし10km、50kmの距離でも遊弋している可能性があると、航路は変えないといけませんし、場合によっては輸送を断念せざるを得ません。
潜水艦は沈黙の圧力も大きな武器なのです。
この武器をもっと強力にするために、「特中型」はなんと速度を16ノットから13ノットに落としてまで航続距離を伸ばしています。
13ノットは初期の潜水艇クラスの鈍足で、こんなのでは水上艦の追撃ははなっから諦めるしかありません。
ですが、今回は敵が異なるのでそれでもいいのです。
通商破壊となりますと相手は輸送タンカーをはじめとした輸送船です。
輸送船の速度は10ノットを超えるか超えないかですから、別にこの速度でも最大速度は相手より速いので問題ありません。
その速度を捨てて手に入れた航続距離は10ノット:9,000海里と、これまでの1.5倍にまでなりました。
機関はこれまでのズルツァー式が1,300馬力×2基だったものに対して、こんなに要りませんから600馬力×2基と半分以下の機関へ変更されています。
続いて兵装ですが、魚雷は「海中四型」の53.3cm魚雷発射管4門に変わりはありません。
強くなったのは主砲です。
これまでの主砲は自衛用であって、別にこの砲で敵艦を沈めるつもりは全くありません。
沈めるにはあまりにも弱いです。
ですが「特中型」はこの砲を駆逐艦並の12cm単装砲へと強化しました。
12cm砲だと小型艦艇はもちろん、敵輸送船にもしっかりと砲撃でダメージを与えることができます。
当時の輸送船は潜水艦に対して攻撃手段を持っていません(せいぜい機銃)ので、砲撃で足を止めてから魚雷できっちり仕留めるという流れがこの主砲換装から読み取れます。
このように「海中型」でも異質の存在となった「特中型」は「八六艦隊計画」で4隻の建造が決定します。
しかしうち1隻の【呂31(当時は第七十潜水艦)】は引渡直前の公試試験中に誤作動によって意図せぬ潜航を行ってしまいます。
【呂31】はこのまま浮上することができずに乗組員88名全員が不幸な殉職を遂げてしまいました。
のちに【呂31】は浮揚されて、一度解体ののちにもう一度【呂31】として竣工しています。
さらに翌年には演習中の事故で【呂25】が沈没し、2年連続で日本は潜水艦沈没事故を起こしてしまいます。
いずれも救出作業ができなかったため、これに危機感を覚えた海軍は練習特務艦として貢献していたかつての戦艦【朝日】に潜水艦救難設備を搭載することにしました。
これはつるべの要領で、片方に沈没した潜水艦を吊るし、もう片方に沈める用の古い潜水艦を吊るして沈没した潜水艦を引き揚げるという方法でした。
簡易ですが、動力があまり必要ない上に構造も単純であることからこの方法が採用されています。
「特中型」は【呂29】が開戦前に除籍廃艦となっていますが、残りの3隻は開戦当時まだ現役でした。
昭和17年/1942年4月1日に【呂30、呂32】が除籍、事故によって再建造された【呂31】だけが、最後は予備艦だったものの終戦直前まで海軍に在籍し続け、沈没することなく生き抜いています。
同 型 艦
呂号第二十九潜水艦 | 呂号第三十潜水艦 | 呂号第三十一潜水艦 |
呂号第三十二潜水艦 |