九七式艦上攻撃機/中島B5N・三菱B5M

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九七式艦上攻撃機一二型(中島)
全 長10.300m
全 幅15.518m
全 高3.700m
主翼面積37.690㎡
自 重2,279kg
航続距離1,021km
発動機
馬力
空冷星型複列14気筒「栄一一型」(中島)
970馬力
最大速度378km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
爆弾60kg6発、250kg2発、800kg1発いずれか
800kg魚雷
符 号B5N2
連 コードネームKate(ケイト)
製 造中島飛行機
設計者中村勝治
九七式艦上攻撃機六一型(三菱)
全 長10.324m
全 幅15.300m
全 高4.24m
主翼面積39.640㎡
自 重2,342kg
航続距離1,282km
発動機
馬力
空冷星型複列14気筒「金星四三型」(三菱)
1,075馬力
最大速度381km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
爆弾60kg6発、250kg2発、800kg1発いずれか
800kg魚雷
符 号B5M1
連 コードネームMabel(メイベル)
製 造三菱重工業
設計者高橋巳治郎

その他の型式

九七式艦上攻撃機一一型(中島)
全 長10.300m
全 幅15.518m
全 高3.700m
主翼面積37.690㎡
自 重2,099kg
航続距離1,090km
発動機
馬力
空冷星型9気筒「光三型」(中島)
710馬力
最大速度350km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
爆弾60kg6発、250kg2発、800kg1発いずれか
800kg魚雷
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甲乙つけがたい2つの存在 真の終戦まで奮闘した九七式艦攻

「九六式艦上攻撃機」は昭和11年/1936年に初飛行を迎えていますが、その前年の昭和10年/1935年、海軍は研究の手を緩めずに次代の艦上攻撃機の開発に取り組んでいました。
欧米では「九六式艦攻」のような複葉機は旧式化しつつあり、新型航空機はどこをみても単葉機でした。
このままでは世界との溝は開く一方だと危機感を抱いた海軍は、急ぎ中島飛行機三菱重工業「十試艦上攻撃機」の開発を命じます。

中島は同時に開発を行っていた「十試艦上偵察機」(のちの「九七式艦上偵察機」)の経験をつぎこみ、さらに中村勝治は「引き込み脚」に執着していました。
当時日本の航空機には引き込み脚を取り入れた航空機はなく、また世界でもあまり例のない革新的な技術でした。
この油圧式の「引き込み脚」にはたいそう苦心し、大小様々な事故・不備が中島を苦しめます。
三菱との比較飛行の日には、油のパイプが切れたために足を降ろせないという最大の危機が中島を襲いますが、戦闘機を飛ばして応急下げ方法を伝達するなど1時間以上も混乱が続きました。
無事足を降ろして着陸はできたものの、中島は至急脚下げと応急下げの改良にあたっています。
この際に採用された応急下げ方法は、後の「引き込み脚」採用における標準的なシステムとなっていきました。

他には上方折り畳み主翼や密閉型風防なども採用され、中島の技術と革新力が詰まった「十試艦上攻撃機」ですが、一方の三菱は対照的な堅実設計の「十試艦上攻撃機」を用意してきました。

脚は従来通りの固定脚で革新的なものはないものの、航空力学に基づいた機体の洗練さで勝負を仕掛けてきます。
上昇速度は中島製を上回り、また安定性と振動の少なさが大きな特徴となります。
当初は主翼は後方折り畳み式でしたが、これは後に上方折り畳み式へ変更されました。

互いに一歩も譲らぬ激しい競争は、機体を選ぶ側の海軍すらも頭を悩ますものでした。
中島製は確かに先進的な機体ですが、それ故に構造は複雑で、量産性の問題が頭に残ります。
また比較飛行の際のようにパイロットが機体の使い方をしっかりと習得してくれるかどうかという点も不安要素でした。
一方の三菱は、保守的な構造ではあるものの全体的に安定しており、中島よりも劣るスペックがある一方で捨てるには惜しい存在でした。

結局3ヶ月に及ぶ議論でも決着がつかず、双方採用という結論に至りました。
中島製は「九七式一号艦上攻撃機」三菱製は「九七式ニ号艦上攻撃機」と名付けられ、製造数から見ればメインを「一号」、サブを「二号」とした運用になっていきます。

ところが中島はエンジンを「光三型」から、三菱が採用している空冷複列星形14気筒と同様の「栄一一型」へ換装し、これを新たに「九七式三号艦上攻撃機」として登場させます。
採用当初より三菱との差が広がったこともあり、今後は中島製の「九七式三号艦攻」が主力となり、「九七式二号艦攻」は結局昭和15年/1940年までに120~150機が製造されるに留まってしまいます。
しかし上記の通り、「九七式二号艦攻」は飛行が安定している点が現場では高評価となっており、「六一号艦攻」と名称変更の上、「三号」への機種転換が進められたもののなかなか現場はそれを受け入れなかったという現実もありました。

「九七式艦攻」太平洋戦争開戦の狼煙となった「真珠湾攻撃」で敵戦艦に猛烈な魚雷攻撃を仕掛け、大戦初期では主力艦攻として飛び回ります。
また、魚雷を搭載せずに偵察機の役割も果たしますが、これは後に「二式艦上偵察機」「彩雲」にバトンタッチしています。
開発が遅れていた「天山」が大戦中期から主戦場に出てくるようになると、「九七式艦攻」は陸上からの運用や対潜哨戒などで貢献するようになり、末期には特攻機としても使われるようになります。

そして日本が8月15日に「ポツダム宣言」を受け入れて降伏したにも関わらず、「日ソ中立条約」を破棄して一方的に侵攻してきたソ連軍との戦いが勃発した「占守島の戦い」(8月18日~20日)では、日本軍が最後の力を振り絞ってこの「九七式艦攻」を飛ばし、ソ連軍へ対して攻撃を仕掛けています。
「九七式艦攻」は太平洋戦争における開幕にて鮮烈なデビューを果たし、そして真の意味での最後の戦いとなった「占守島の戦い」まで飛び続けた貴重な存在です。