一〇〇式輸送機二型 |
全 長 | 16.10m |
全 幅 | 22.60m |
全 高 | 4.77m |
主翼面積 | 70.1㎡ |
自 重 | 5,522kg |
航続距離 | 1,500km |
発動機 馬力 | ハ102空冷星型複列14気筒×2(三菱) 1,080馬力×2 |
最大速度 | 430km/h |
武 装 | 7.7mm機銃 2挺 |
輸送人員 | 11人(+乗員4人) |
連 コードネーム | Topsy(トプシー) |
製 造 | 三菱重工業 |
設計者 |
九七式重爆を輸送機へ 性能はいいものの肝心の輸送力に欠点あり
アメリカの「ダグラスDC-2」を中島飛行機が国産化させた「AT-2」が誕生したのは昭和11年/1936年。
輸送機の配備にはかなり遅れをとっていた日本ですが、陸軍はこの「AT-2」を軍用機化させた「キ34/九七式輸送機」の開発によってようやく輸送機らしい輸送機を用意することができました。
当時はすでに「満州事変」が勃発しており、「九七式輸送機」は誕生するや否やどんどん日本と満州の往復に使われるようになります。
ですが本機は「ダグラスDC-2」のコピーの改良機で、陸軍としての希望が反映された機体ではありませんでした。
このご時世ですから、できるだけ国産を推し進めたいという希望もあり、陸軍は「九七式輸送機」の生産が続く一方で昭和14年/1939年にこれの後継機種の開発に乗り出しました。
また「日華事変」の勃発も、「九七式輸送機」の時と同様に大型輸送機開発の流れを生み出しました。
なおこの時に陸軍は新しい輸送機の開発とは別方面で、同じく良好な海外製輸送機の輸入とライセンス生産権の購入を行っています。
輸入されたのはアメリカの「ロッキード
L-14 スーパーエレクトラ」で、陸軍が20機、日本航空輸送が10機購入しました。
さらにライセンス契約に伴って最初は立川飛行機が、途中から川崎航空機が「ロ号輸送機」として生産を行いました。
さて、新しい国産輸送機に話を戻しますが、その後継機種も新機軸ではありませんでした。
国産化ではありますが、今度も現行機の輸送機化という形になりました。
元となったのは当時の双発機で性能の評価が高かった「キ21/九七式重爆撃機」で、手っ取り早くこれを輸送機に改造して間に合わすことになったのです。
「九七式重爆」の開発元である三菱重工業は、陸軍の命を受けて「キ57」の改造試作機に着手しました。
三菱はもともと性能に太鼓判を押されていた「九七式重爆」に大鉈を振るうことはせず、ただただ「輸送機として必要なものを用意し、輸送機として必要のないものを取り除く」ということを徹底しました。
なので全体を見れば「九七式重爆」の面影があちこちにあります。
改造された点としてよくわかる場所は翼の位置です。
「九七式重爆」は中翼でしたが、「キ57」ではこれが「九七式輸送機」同様低翼になりました。
低翼のメリットとしては客室への振動が抑えられることがあり、輸送機としては確かに必要な改良点でしょう。
他には戦闘地域に飛び込む重爆には危険で備えられていなかったインテグラルタンクが備えられており、長距離輸送にも対応できるようになっていました。
試作機は翌年の昭和15年/1940年7月に完成し、陸軍からは操縦席の視界を改善するように指示があっただけで、昭和16年/1941年3月末に制式採用されました。
余計なことをせずに「九七式重爆」の性能をそのまま活かした判断は正解でした。
ただ、1点だけ正解じゃないことがあります。
エンジンです。
「九七式重爆一型」は搭載していた「ハ5、ハ5改」の調子が芳しくなく、現場からはいつも不機嫌なこのエンジンに対して不満がありました。
そしてほとんど同系統の「キ57/一〇〇式輸送機一型」でも全く同じ問題が発生したのです。
この状態でも一型は止む無く生産が続けられ、101機が恐る恐る使われていました。
やがて「九七式重爆二型」で「ハ101」が採用されて大幅に改善されたのと同様に、「一〇〇式輸送機」も「ハ102」へとエンジンを換装した「二型」の誕生でようやく問題が解消されました。
「二型」は昭和17年/1942年7月から生産が始まり、中国大陸と南方諸島で飛び交うようになりました。
「一〇〇式輸送機」は元が運動性・高速性を重視していた「九七式重爆」であることから、当時の輸送機としては一級品の性能を誇っていました。
国内の輸送機の中でも質はNo.1で、陸海通じて最も優秀な輸送機であったことは間違いありません。
ただ、「九七式重爆」を輸送機化したわけですから、胴体部分が風洞実験で影響が出るほどの改良をすることができません。
つまり、輸送機として最も大切な輸送量の確保が難しかったのです。
できれば細長い胴体を大きくして輸送量・輸送人員数を増やしたいのですが、そうすると速度は落ちるし設計にも時間がかかるため、機種本来の役割を甘んじて性能のいい輸送機を造るという矛盾が生じました。
通常では11名で、その後の改良によって最大19名の輸送力を誇りましたが、海軍の「零式輸送機」は通常21名、アメリカの主力輸送機であった「C-47」は最大で28名もの人数を運ぶことができます。
これでも「ロ号輸送機」より機体そのものは大きいので、なおさら11名という数字が輸送機らしからぬ輸送力であるかがわかります。
「一〇〇式輸送機」は「九七式輸送機」同様に「パレンバン空挺作戦」にも参加しており、輸送だけでなく落下傘部隊の移動手段としても多く使われ続けました。
他にも「ク8/四式特殊滑空機」を曳航できるように改造された機体もあり、輸送と運搬で終戦まで幅広く活躍をしています。
輸送力の少なさは確かに問題でしたが、使いやすい機体であることには変わりなく、「一型・二型」合わせて517機が製造されました。
また、高性能な本機は輸送機ということもあって民間への供給に障害が少なかったことから、民間機としても活躍してます。
民間では本機は「MC-20」と称され、大日本航空が入手した「妙高号」が試験飛行中に乗員全員が死亡するという痛ましい事故を起こしてしまいますが、着々と民間機としての幅を広げていきました。
エンジンを換装した「二型」が誕生した際には「MC-20」も「-Ⅰ」に対して「-Ⅱ」が誕生しています。
本機は終戦後も緑十字のマークを付けて各地を飛行して、日本復興のために尽力しています。
517機にはこれら「MC-20」も含まれていて、ある意味では国民に最も近い機体の1つであったかもしれません。