【キ15】九七式司令部偵察機/三菱

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九七式司令部偵察機一型
全 長8.49m
全 幅12.00m
全 高3.34m
主翼面積20.4㎡
自 重1,399kg
航続距離2,400km
発動機
馬力
「ハ26-Ⅰ」空冷星型9気筒(三菱)
750馬力
最大速度480km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
連 コードネームBabs(バブス)
製 造三菱重工業
設計者河野 文彦
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偵察機の新たな可能性 高速第一主義で中国上空を支配

大日本帝国の航空史は、一時でも他国を圧倒した時期はありましたが、総合的には欧米に及ばず、そして特に陸軍は航空機のみならずあらゆる兵器が欧米とは大きな差を広げられました。
海軍は何とか艦船能力でアメリカとの差を縮めることができていましたが、それでも物量や運用方法などを含めると完膚なきまでに叩き潰されました。

そんな大日本帝国軍ですが、航空機において一部欧米に先駆けたものが存在します。
海軍では水上機の性能向上、そして陸軍の偵察機の重要視です。
偵察機は、諸外国では偵察兼〇〇と言ったように、偵察機専用の機体というのはほとんどありませんでした。
また専業の機体があったとしても、それは既存の機体の派生型であり、オリジナルの偵察機は珍しかったのです。

そんな中で陸軍は大正8年/1919年にフランスのサルムソン社から購入した「サ式二型偵察機」を正に偵察機専業として採用し、その後「乙式一型偵察機」として川崎航空機が国産化に成功。
その後も偵察機専業の機体を継続的に更新しており、また海軍も少し遅れて大正12年/1923年に「一〇式艦上偵察機」を採用。
海軍はやがて欧米同様、既存機に偵察を兼務させる方向に進んでいきましたが(水上偵察機は別)、陸軍は偵察機専業の機体開発を怠らず、その後も「八八式、九二式、九四式」と着実に進化させていきました。

そんな中、陸軍はその偵察任務においても新しい使い道を模索していました。
これまでの偵察機は飛行中にできるだけ広い範囲に目を行き届かせるため、ガラス張りの面積を広くして視界を大きくとる設計となっていました。
偵察の際に敵機に見つかると当然戦闘に入りますが、そのために自衛の機銃も搭載しています。
ですがこの従来の偵察機の概念にとらわれず、とにかく超高速でぶっ飛ばし、敵機を振り切って周辺をバーッと確認して要所だけ把握して帰ってくる戦略偵察機の開発を提唱する者が現れました。
陸軍航空技術研究所藤田雄蔵大尉です。

「空軍独立論」というものがあります。
今でこそ軍は陸・海・空が基本ですが、ご存じの通り当時の日本は陸軍の航空部隊、海軍の航空部隊という分かれ方で、空軍は独立していませんでした。
しかし日ごとに存在感を増していく航空機戦力、陸海軍の中に縛られていてはその真価は発揮できないという声が国で起こっていました。
ですが「空軍独立論」は間接的に「戦艦無用論」に繋がり、当時まだ戦艦こそ最強の戦力であると信じられていたことから、この論が受け入れられることはありませんでした。
一方で欧州ではイギリス、フランス、ドイツなどはすでに空軍は独立していました。

藤田大尉の声もこの「空軍独立論」に則ったもので、陸軍の指令系統にとらわれず、大きな範囲をターゲットにして戦略を立てるためには敵陣深く切り込める長航続距離・高速の偵察機が必要だと訴えました。
地上軍の作戦をベースに航空機が動くのではなく、航空部隊の目を最大限活用して地上軍の歩を進めようという考え方です。

これまでの偵察機は航続距離が短かったため、偵察機は進路上の障害を偵察するのが精いっぱい、本陣の様子などは近づかなければはっきりしませんでした。
しかしこの新しい偵察機を用いれば、爆撃機の活躍の場も広がり、また敵情をより敵に近いところで掴むことが可能です。
その代わり、見るだけ、見たらすぐに帰ってその情報をもとに作戦を練る、そのためには何としても高速でなければならないのです。
一方で彼は「直接協同偵察機」という偵察スタイルも提唱しており、航空機による偵察の未来を大きく訴えていました。

とにかく速く、そして長く飛べれば他は何もいらないという、単純明快な偵察機の開発が三菱重工業の手によって始まりました。
それが「キ15/九七式司令部偵察機」、事実上、世界初の戦略偵察機です。
要求速度は450km/h、航続距離は2,400kmで、武装は追撃されることを想定して後方に7.7mm旋回機銃1挺だけでした。

三菱は高速化のために空気抵抗の軽減に力を注ぎます。
エンジンはまだ開発途上である以上、ここで少しでも速度を稼がなければなりません。
滑らかな流線型の機体、全面的な枕頭鋲の採用、また風防も一般的なスライド式ではなく観音開きとなっています。
スライド式で生まれる段差を嫌ったためです。
じゃあなんで固定脚なのかという疑問もありますが、これは引込脚にすると航続距離を稼ぐための燃料タンクが小さくなり、他の場所にタンクを置くと機体が大型化して速度が出ないという問題があったからです。

このようにしてコンセプトを絞り込んだ「九七式司偵」は、昭和10年/1935年7月発注からわずか10ヶ月の昭和11年/1936年6月に早くも試作1号機が完成。
早速飛行してみると、速い速い、480km/hという超高速力を発揮しました。
前面展望視野が狭いとか離陸滑走距離が長いとか、多少注文は尽きましたが、許容範囲だったために風防の高さを少し高くした試作2号機をもって陸軍は本機を制式採用。
ちょうど2号機の実験が行われた昭和12年/1937年には偵察機の分類が「司令部偵察機・軍偵察機・直協偵察機」の3つに分けられることになり、本機はその司令部偵察機に充てられました。

「九七式司偵」は、まるで本機の誕生を待っていたかのように7月に勃発した「支那事変(日中戦争)」に早速投入されます。
狙い通り中国国民党軍の保有する米ソの戦闘機をやすやすと振り切り、陸軍の目として大いに活躍をしていきました。
さらに昭和14年/1939年にはエンジンを「ハ26」へと換装した「二型」が登場し、最大速度がさらに30km/h速くなり、ついに510km/hとなりました。
これでも世界最速ではありませんが(例えばソ連の「I-16」が520km/h以上出ると言われています)、少なくとも「支那事変」で相対する戦闘機ではとても追いつける速度ではありません。

「九七式司偵」で有名なのが独立飛行第十八中隊です。
陸軍最初の司偵部隊である独立飛行第十八中隊は、自らの任務を敵である中国の故事である「虎は千里往って千里還る」に例え、機体の迷彩の他に小柄ながらも尾を立てて口を大きく開いて威嚇する虎の画を描いていました。
彼らは「虎部隊」という愛称で敵味方共に名を馳せて、機体が「二型」に更新された際には機体横から垂直尾翼へと虎は移動しました。
そして大きさも尾翼いっぱいに描かれるようになり、この「虎部隊」の伝統は陸軍屈指の名機「一〇〇式司令部偵察機『新司偵』」でも受け継がれました。

「虎部隊」をはじめとした「九七式司偵」のもたらした情報を活用して、陸軍は戦略爆撃を行い、着実に侵攻を続けていきました。
ただし、広大な中国で奥地まで攻め込むことが必ずしも優勢であるとは限らないのが、戦争の怖さです。

「九七式司偵」
の生産は「新司偵」の登場までの5年間と短いものでしたが、しかしこの「新司偵」が活躍した背景には、その前任である「九七式司偵」の性能と活躍があってこそ。
510km/hという速度が太平洋戦争においては決して高速ではなくなったことから、「九七式司偵」は昭和18年/1943年までにおおむね前線から退きました。
「一型、二型」合わせて437機が製造されています。

「九七式司偵」は陸軍だけでなく、海軍、民間でも実績を残しています。
まず海軍では「二型」を多少いじっただけで「九八式陸上偵察機一一型」として本機を採用しています。
製造数はその改良型の「一二型」含めて50機程度と多くはありませんが、海軍が陸軍の機体を流用した例は少なく、魅力的な飛行機であったことは間違いありません。

民間では、なんと試作2号機を陸軍が試作する前に一時的に朝日新聞社に払い下げています。
何故そんなことをしたかというと、朝日新聞社がイギリスのジョージⅥ世の戴冠式典に自社機を飛ばして参加するというキャンペーンを打ち立てたためです。
朝日新聞社にとっては一大イベントに自社が注目されることをやり遂げたい、さらに当時は欧州~東京間は総合100時間以内での飛行は誰も達成しておらず、これを達成すれば世界的な偉業になること間違いなし。
陸軍にとっても、すでに完成度の高い「九七式司偵」でその偉業を成し遂げれば、日本の航空機の性能の高さを堂々と世界にアピールできるというチャンスでもある。
双方メリットがあるこの提案に陸軍は賛同し、公募の中から東久邇宮稔彦王によって「神風」と命名されます(無論、特攻とは関係ありません。そもそもあれは提唱者の弁によると「しんぷう」です)。
なお、このフライト後に試作2号機は無事に陸軍の手に戻り、前述の通り試験を行って制式採用へと繋がっています。

両翼には下からでも日本の飛行機だとわかるように旭日が描かれ、昭和12年/1937年4月6日午前2時12分に立川飛行場を離陸(実は1回悪天候で引き返してします)。
当然給油なしで飛べるわけがありませんから、着陸して給油して、また飛行して給油してを繰り返して遠いイギリスを目指しました。
そして現地時間4月9日16時30分(日本との時差8時間)、ついに「神風」はロンドンのクロイドン空港(1959年に閉鎖されています)に着陸。
総飛行距離は15,357km、所要時間は94時間17分56秒と文句なしの世界記録でした。

ロンドンではもちろんお祭り騒ぎで、この一大フライトを成功させた飯沼正明氏と塚越賢爾氏は大歓迎を受けました。
よく知らないけど中国の近くにある極東の国から、単発の小型機が、地図だけを頼りに飛んできたことに皆驚嘆しました。
実はパリ~東京を100時間以内でのフライトに失敗した経験があるフランスでは、この2人にレジオンドヌール勲章を授けるほどの歓待を受けています。
帰国後も昭和天皇の拝謁も行われるなど、一躍時の人となりました。
しかし残念ながら飯沼氏は太平洋戦争開戦直後に事故によって、塚越氏も「キ77」の日独無着陸飛行に搭乗後、機体そのものが消息不明となってしまい死亡認定とされました。