【キ21】九七式重爆撃機/三菱

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九七式重爆撃機二型甲
全 長16.00m
全 幅22.50m
全 高4.85m
主翼面積69.6㎡
自 重6,070kg
航続距離2,700km
発動機
馬力
三菱「ハ101」空冷星型複列14気筒×2
1,450馬力×2
最大速度478km/h
武 装7.7mm機銃 5挺
7.7mm機銃(双連) 1挺
最大1,000kg爆弾 1発
連 コードネームSally(サリー)
製 造三菱重工業
設計者
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三菱と中島を足して2で割る まとまりよく中国大陸を支配

昭和8年/1933年、陸軍は性能悪く、旧式化しているにも関わらず昭和3年/1928年に誕生した「八七式重爆撃機」以降後継機種が用意されていない重爆撃機の製造を進め、三菱重工業「キ1/九三式重爆撃機」を誕生させました。
日中の情勢悪い中、早期に製造するためにドイツの「ユンカースK-37双発軽爆撃機」をそのまま大型化したような設計だったのですが、この慌てた製造が見事に失敗作を生み出します。
飛行試験の際にすでに問題点は発覚していたのですが、性能よりも新型機が欲しいという欲が「九三式重爆」をそのまま世に出してしまいました。

結果、エンジンは壊れるわ油漏れは頻発するわ操縦しにくいわで大批判を浴びます。
練習飛行ですら事故が多発する本機をパイロットたちは「直線不時着練習機」と蔑み、壊れるのが当たり前の飛行機として忌み嫌われます。
昭和10年/1935年に設計を大幅に見直した「二型」が誕生し、比較するとちょっとはマシになりましたが、それでも前が酷すぎるのでちょっとマシ程度では何の慰めにもなりませんでした。
それでもこの後に続く重爆撃機がないので、現場の批判をよそに細々と製造が行われました。

「八七式」に比べると格段に進歩しているはずの「九三式重爆」は初期の一型と二型合わせても118機しか製造されず、「支那事変(日中戦争)」でちょっとだけ出撃して昭和11年/1936年に生産は打ち切られました。
あまりにも使い勝手が悪いので、イタリアから「フィアットBR.20(イ式重爆撃機)」を急遽輸入して戦争に投入しています。

さて、「九三式重爆」が酷い結果に終わったため、陸軍は再び新しい重爆撃機を導入する必要に迫られました。
そこで三菱中島飛行機、そして川崎航空機に急遽試作機の試作を依頼し、以下の条件で両社は早速次世代の重爆撃機の試作に取り掛かります。
条件としては、
・最高速度400km/h
・航続時間5時間以上
・爆弾搭載量750kg以上
というもので、爆弾搭載量は「九三式重爆」に比べると減っていますが、速度も航続距離も倍近い数字です。
と言っても、比較対象がポンコツ過ぎたので、倍が無茶かと言われると言葉ほどではありません。

三菱には「キ21」中島には「キ19」川崎には「キ22」の番号が与えられたのですが、まず基礎設計審査の段階で川崎が脱落。
試作機製造には三菱中島が進むことになり、昭和12年/1937年に早速両社の試作機飛行試験が行われました。
両社とも「九三式重爆」とは似ても似つかぬ、全く新しい流麗な機体で、まさに次世代を担うに相応しい機体を準備していました。
いずれも試験項目もクリアし、どちらが採用されても不満は出ないほど両機の性能は拮抗していたため、選定には頭を抱えます。

そして、陸軍はおいしい所取りをすることにしました。
すなわち、両機のいい所を混ぜてしまえということです。
この結果、三菱「キ21」中島「キ19」に搭載しているエンジン「ハ5」を突っ込んで、また細部の設計も「キ19」のものを取り入れる形となったわけです。
三菱はトータルでは勝ったと言えますが、中島からしたら勝ってた部分を全部持っていかれたわけですからいい気分ではなかったと思います。

そしてその折衷案の機体を製造する一方で、制式採用される前に「キ21」の試作機2機はそのまま使えるということでいきなり中国に送られています。
「九七式重爆撃機一型」は、ライバルである海軍で、デザインが類似している「九六式陸上攻撃機」よりも性能がいいということもあって、自信満々で昭和13年/1938年に制式され、早速量産が始まります。

ただ、何の因果か、この機体の中身はいつしかゴロっと入れ替わることになります。
「一型」を製造していく上で、「ハ5」が改良型の「ハ5改」含めてどうも安定しないのです。
「九七式重爆」の性能は十分現場の期待に応えてくれているのですが、不満があるのに放置はできません。
航続距離も不足しており、このままでは双発機としての性能が活かせないということから、陸軍は三菱に対してエンジン換装を含めた機体改良を求めます。

これに対して三菱は採用間近に控えていた新エンジン「ハ101」を搭載することにします。
「ハ5改」が1,080馬力に対して、この「ハ101」は1,450馬力と出力が1.3倍となり、大きな性能向上となりました。
それに加えて機体の再設計や完全引き込み脚、武装と防弾の強化を行った結果、全く新しい「九七式重爆二型」が誕生したのです。
速度は30km/h速くなり478km/h、航続距離も2,500kmから2,700kmへと延長されました。
この速度は他国の爆撃機に比べると明らかに速いのですが、これはこの当時日本が戦闘機から逃げきれる速度を爆撃機に求めたからです。
その代わりに航続距離と爆弾搭載数を減らし、反復攻撃でその威力不足を賄おうという考えでした。
これらの要求に即して「二型」「一型」から一新したデザインとなるのですが、逆に「キ19」の面影が随所にみられる機体となったのです。

つまり、最初は三菱の機体、中島のエンジンだったのに、改良型の「二型」三菱のエンジン、中島の機体となったのです。
とは言うものの、三菱も海軍の「九六式陸上攻撃機」と、この後にも「一式陸上攻撃機」の設計を行うわけですから、その過渡期にある本機で新しい設計を導入していることも事実です。

武装は「一型」7.7mm機銃計5挺で、前方、後方下部各1挺、胴体左右兼用で1挺、そして後部上方の機銃は双連式でした。
対して「二型」は左右兼用だった胴体部分の機銃を両側1挺ずつに変更され、さらに「二型乙」では後部上方の機銃が12.7mm機関砲へと換装されています。

一方で防御面では「一型」の段階から燃料や潤滑油タンクに対して防漏、防弾化がなされているのが特徴です。
「二型乙」では防弾ガラスに防弾板、さらには窒素ガスを用いた消火装置も完備されるなど、ずいぶん至れり尽くせりです。
機体そのものは頑丈とは言い難いですが、敵機が12.7mm機関砲を使うようになると耐え切れないのはどこの国の航空機でも同じでした。

「九七式重爆」はもちろん「支那事変」では大活躍。
「重慶爆撃」「ノモンハン事件」でも主力爆撃機として航空撃滅戦で多大な戦果を残してます。
太平洋戦争でも引き続き陸軍の主力爆撃機としてフィリピンで戦い続けますが、島嶼での戦いとなると海軍機がそうであるように航続距離が非常に大事になってきます。
島内の行動ならまだしも、島から海を隔てた向こうの島まで飛ぶことになると、往復プラス現地での作戦行動分の燃料が必要です。
もともと陸軍機はこのような使われ方を想定していないので活動範囲はどうしても狭くなり、さらに相手がアメリカということで修復速度も補充の早さも中国の比ではありません。
爆撃の効果も薄くなっていき、制空権を奪われるにつれて被害増大、次第に活躍の場を失っていきます。
それでも夜間爆撃、哨戒、また「キ57/一〇〇式輸送機」への転用などで終戦まで貢献し続けた「九七式重爆」は、昭和19年/1944年9月に生産が打ち切られるまで、陸軍重爆最多の2,055機が製造されました。