【キ32】九八式軽爆撃機/川崎

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九八式軽爆撃機
全 長11.64m
全 幅15.00m
全 高2.90m
主翼面積34.0㎡
自 重2,349kg
航続距離1,200km
発動機
馬力
川崎「ハ9-Ⅱ乙」液冷V型12気筒
850馬力
最大速度423km/h
武 装7.7mm機銃 2挺
450kg爆弾1発
連 コードネームMary(メアリー)
製 造川崎航空機
設計者井町 勇
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欧州の液冷を求めて 夢散るも急場凌ぎで97軽爆を上回る製造数

昭和10年/1935年、陸軍は軽爆の新しい位置づけを「主として敵飛行場にある飛行機並びに大なる威力を要せざる諸施設の破壊に用うる」爆撃機としました。
飛行機やちょっとした施設を破壊できる爆弾を搭載できる、軽量軽快な軽爆を配備し、重爆との役割分担を図ることとしたのです。
これに合わせ、立川飛行機「キ29」三菱重工業「キ30」中島飛行機「キ31」川崎航空機「キ32」の4社が新軽爆の製造に参加しました。
そして基礎設計審査において「キ29、キ31」が不合格となり、後継機は「キ30、キ32」のどちらかに絞られました。

川崎「キ32」は、購入していたドイツの「He118 ハインケル」を参考に設計されました。
本国では「Ju87 ユンカース」との競争に敗れた「He118」でしたが、そのリベンジを遠い日本で果たすべく、川崎は機体製造に力を注ぎます。

爆弾は胴体内に収まり、また重量増を嫌って採用していた固定脚もスパッツ付きで極力抵抗を抑えました。
そして目玉はなんと言っても川崎の液冷エンジンです。

ドイツのBMW水冷エンジンの国産化を図った川崎
水冷・液冷エンジンは小型でかなりの大出力を発揮できるため、発動機としては誰しもが追い求める方式なのですが、いかんせん構造が難解で、欧米に比べてエンジン技術がかなり劣っている日本ではこの液冷エンジンへの挑戦を諦める企業ばかりでした。
そんな中、愚直に水冷、そして液冷にこだわっていたのが川崎でした。

エンジンはとにかく発した熱をどれだけ冷やすことができるかがカギで、液冷は空冷よりも冷却性能が安定しており、超馬力や連続運転に向いていました。
それに引き換え空冷は構造は単純になるのですが、単純構造だと出力に限界があるため、どうしても大型化していきます。
そして大型化していくと空気の流れがスムーズにいかずにエンジンを冷やしきれず、エンジンの不調が発生しやすくなるのです。

川崎はこの時点で現役である「キ3/九三式単発軽爆撃機」を製造し、そこでも水冷式エンジンを採用していましたが、これがなかなか不出来なもので故障が続発していました。
この機体に対する後継機種ですから、川崎としては「He118」だけでなく自身のリベンジにも燃えたのです。

しかし川崎はどうしてもこの液冷エンジンの手綱を取ることができませんでした。
水冷からより沸点の高いエチレンクリコールを採用し、またエンジンも小型化してみたのですが、「九三式単発軽爆」に使われた「ハ9」の改善も達成できていない中で新要素を盛り込んだ「ハ9-Ⅱ乙」は、再び川崎の未来を暗くしてしまいました。
機体の性能そのものは十分なもので、速度や上昇力は液冷の本領を発揮して「キ30」を上回りましたが、この液冷エンジンはクランクシャフトを損傷させることもあるほどの暴れん坊で、最終的にはこの「ハ9-Ⅱ乙」の性能不良によって「キ32」「キ30」に敗北。
無難に仕上げてきた三菱「キ30」「九七式軽爆撃機」として採用されることになりました。

またも液冷エンジンの高い壁に阻まれた川崎
しかし時局は「キ32」に復活の機会を与えてくれました。
昭和12年/1937年7月、本機の審査中に「支那事変(日清戦争)」が勃発していたのです。
三菱はちょうどこの頃、各機種の製造なり設計なりのピークを迎えており、「キ21/九七式重爆撃機」や、海軍の「九六式陸上攻撃機」の量産が行われていました。
そこへさらに採用された「九七式軽爆」を量産するのはかなり無理があり、一刻も早く増強が必要な軽爆において、今の三菱の製造速度では到底間に合わないのです。
「九七式軽爆」の制式採用は昭和13年/1938年6月と事変勃発から1年近く後で、採用前から製造は進んでいたとはいえ戦地の要求には全く答えることができませんでした。

そこで急遽白羽の矢が立ったのが、エンジン以外は十分使える性能を発揮していた「キ32」です。
幸か不幸か川崎三菱に比べるとキャパシティがあり、量産できる体制ではありました。
使えるかどうかは不安でも、機体がなければ使うことすらできないということで背に腹は代えられず、陸軍は「そのエンジン何とかしろ」と忠告をした上で「キ32」を緊急に採用することになりました。
試作機を製造して試験飛行を経て、なんと「九七式軽爆」採用の僅か2ヶ月後である昭和18年/1938年8月に「キ32/九八式軽爆撃機」が誕生。
川崎は陸軍の機体に応えて「九八式軽爆」をじゃんじゃん製造。
最大で月間50機という凄く速度で「九八式軽爆」を世に送り出していきました。

ですが、最大の懸念材料であるエンジンについてはついに改善することができませんでした。
液冷エンジンで困るのは、その故障の頻度もさることながら、現地で整備できるものが非常に少ないという問題もありました。
そもそも日本で普及していない方式ですから、専門的な知識と修理に相応しい設備がないと修理することができません。
そのため半ば使い捨てのようなケースもあり、昭和15年/1940年5月に生産が打ち切られるまでに「九七式軽爆」よりも多い846機も製造されましたが、非常に稼働率が低くてあまり好まれる機体ではありませんでした。
「支那事変」太平洋戦争の緒戦で活躍したものの、「キ51/九九式襲撃機」「キ48/九九式双発軽爆撃機」が誕生すると、「九八式軽爆」はその姿を消していきました。