高速艇 甲・乙

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全 長14.42m
全 幅2.74m
重 量7.2t(満載時)
最大速度37~38ノット
出 力400馬力
エンジンカーマス式ガソリンエンジン 1基(推定)
搭載能力武装兵8人
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近距離移動のモーターボート 高速偵察用の甲と連絡移動用の乙

大正12年/1923年、陸軍はかねてより意識していた上陸用の舟艇の開発を「大正12年帝国国防方針」にて決定しました。
これに伴い、陸軍は【大発動艇】という、陸海軍になくてはならない重要な上陸用舟艇を生み出すのですが、それ以外にも様々な小型舟艇に着手しています。
揚陸・上陸中は防御が手薄になります。
とにかく素早く、そしてすぐに戦える体勢に移らなければならないのですが、海から陸となると特に兵器類は即配備というわけにはいきません。
そんなことをしているうちに敵から攻撃を受ければいい的です。

そうならないためには、敵情視察が非常に重要になってきます。
そこで陸軍が考案したのが、偵察任務用の高速舟艇でした。
揚陸地というのは至る所にあるわけではありません。
なだらかな海岸、周辺の岩礁、揚陸後に身が隠せる茂みや森林など、かなり候補が絞られます。
なので、こちらが候補に挙げたところはすなわち敵も候補として挙げている可能性が非常に高いのです。

そのため、揚陸するタイミングなどが生死を分けます。
敵がいるのかいないのか、そしてその戦力はどれほどのものか、被害は大きくなるかどうか、それを調べるために小型高速艇を走らせて、周辺の偵察を行おうというものでした。

計画された船は【高速艇 甲】と呼ばれ、大正3年/1926年にイギリスのソーニクロフト社から魚雷艇を1隻購入します。
高速といえば魚雷艇ですから、日本はこの魚雷艇の設計を研究して独自の高速艇開発に着手しました。
ちなみにこのソーニクロフト社は、日本駆逐艦の祖の一角を担う「東雲型駆逐艦」を建造した会社でもあります。

さて、海軍なら魚雷は積めるようにしたまま小型化を狙いそうなものですが、もちろん陸軍はそんなことはしません。
魚雷落射器を降ろし、高速艇ならではの滑走型という、高速時にまるで水面を走っているような移動ができる設計を維持。
こうすれば水の抵抗を防ぐことができるので、小型高速艇やモーターボートの設計には非常に理に適っています。
設計の詳細が記録によって異なっていますが、輸入した魚雷艇よりは少し大きくなっているようです。

木製で固定兵装はなし、見つかったらすぐ逃げるスタンスでした。
その代わり武装兵8人を乗せることで自衛措置をとっていたようですが、人が持ち運びできる兵器で船上から攻撃するのは効果としてはどうなのでしょうか。
装備といえば無線通信機がついていましたが、航行中は受信も難しいなど、性能は悪かったようです。

陸軍ではあまり採用されていないガソリンエンジン搭載で、速度は37~38ノットを発揮することができた【高速艇 甲】は、海軍でも全く敵わない、当時の日本軍の中でも最速の小型舟艇でした。
制式採用後も改良の要望などがあり、どれだけ叶えられたかは不明ですが、更新されていったようです。

一方で、偵察はしなくても周辺の船から船や、陸地から船への連絡に使える小型舟艇もまた必要と考えられていました。
連絡用の小型船だとカッターなどがありますが、あれは手漕ぎ式ですから当然速度なんて全く出ません。
【甲】程の速度は不要だけど、とりあえず簡単に移動できるボートが必要とされました。

そこで【甲】から遅れること4年、昭和5年/1930年に【高速艇 乙】の設計がなされました。
動力は100馬力と150馬力のディーゼルエンジンの2種類があり、100馬力では速度13ノット、150馬力では速度16.5ノットが発揮できました(2つ採用された理由は調査不足)。
これでも短距離連絡でしたら十分な速度で、またディーゼルエンジンは燃料の軽油が引火の危険性がガソリンに比べて圧倒的に低いので、砲撃や銃弾などですぐに引火爆発するリスクを抑えることもできました(火災率の問題とは関係なく、戦車は基本ディーゼルエンジンです)。
滑走型だった【甲】に対して【乙】は一般的な排水型で、言ってしまえば大した特徴のない、汎用性のある小型船のようなものでした。
ただし、【甲】にはなかった固定兵装として軽機関銃1挺が艇首に備え付けられていました。
さらに屋根には重機関銃1挺を増設することも可能です。

さて、この【高速艇 甲・乙】ですが、その後どんな活躍をしたかというと、役割もあって大きな活躍はできていません。
まず生産数が非常に少ない。
開戦間もない昭和17年/1942年3月の時点で、【甲】が26隻、【乙】が44隻だけと記録されています。
さらにいずれも1943年の時点で生産兵器の機種整理の対象となり、生産が終了しています。
活用されていないわけではないのですが、特に【乙】に至っては少し速度は落ちても【大発】で事足りるので不要になったと思われます。

そしてもう1つの理由が敵の強さ。
「支那事変」では運用されたようですが、開戦から半年以上たった「ソロモン諸島の戦い」では、武装もない【甲】、速度が遅い【乙】に対して圧倒的優位に立てるアメリカの魚雷艇【PTボート】が沿岸警備でうじゃうじゃ現れるようになります。
この【PTボート】に対抗できる小型舟艇は陸軍にはなく、ましてや小型艦の性能、研究共に陸軍に劣っている海軍の所属艦なんて以ての外です。

海軍の高速艇【15m内火艇】はたった13.5ノット。
100馬力の【乙】と同じぐらいで高速と言い張る海軍をせせら笑っていました。
昭和12年/1937年に海軍は陸軍から技術提供を受けて魚雷追躡(ついじょう)艇(訓練などで使用した魚雷を追いかけて回収する船)である「公称第1000号」を配備していて、これがこの時の海軍の最速の小型船でした。
もちろん戦場に出る船ではないので計算には入りません。

【PTボート】の出現により、陸軍は慌てて設計中だった【高速艇 丙】【駆潜艇 カロ】へ昇華させました。
海軍もこの技術を借りてちょっとだけ配備されていた【乙型魚雷艇】を更新し、2年間で1,500隻投入するという現実性の欠片もない目標を掲げて量産が始まっています。
ですが到底間に合うわけもなく、また軽量高馬力のエンジンの量産もできなかったために、【乙型魚雷艇】は、ディーゼルエンジンをガソリンエンジンに置き換えるなんて当たり前、水冷航空エンジン、さらに空冷航空エンジンを搭載するなど、能率度外視、しっちゃかめっちゃかでした。

このように【高速艇 甲・乙】は対米戦闘では全く歯が立たず、敵情視察よりも敵国視察の甘さを痛感させられることになったのです。