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【九八式軽戦車 ケニ】
【Type 98 Light Tank “Keni”】

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全 長 4.11m
全 幅 2.12m
全 高 1.82m
自 重 6.20t
最高速度 ケニA:50km/h
ケニB:55km/h
走行距離 300km
乗 員 3人
携行燃料 128ℓ
火 砲 一〇〇式(一式?)三十七粍戦車砲 1門
九七式車載重機関銃(7.7mm) 1門
エンジン 統制型一〇〇式空冷直列6気筒ディーゼル
最大出力 130馬力

各 所 装 甲

砲塔 前面 16mm
砲塔 側面 16mm
砲塔 後面 16mm
砲塔 上面 6mm
車体 前面 16mm
車体 側面 12mm
車体 後面 10mm
車体 上面 6mm
車体 底面 6mm
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軽戦車の底上げを目指すも、不運の連続で意図不明な113輌のみ誕生

昭和11年/1936年から生産が始まった【九五式軽戦車】
当時日本が求めていた、高速で部隊の進軍速度を損なわない軽戦車として開発された【九五式軽戦車】は、装甲を犠牲にして最大45km/hという速度で移動することができました。
しかし一方で、装甲だけではなく砲撃力、特に貫通力が足りていないことに戦車部隊からは導入前から不満がありました。

これらの要望に応える形で、軽戦車と組んで運用する構想にあった中戦車、すなわち【九七式中戦車 チハ】が昭和13年/1938年から生産が始まります。
【チハ】は前面装甲25mm、主砲は九七式五糎七戦車砲を搭載し、当たり前ですが【九五式軽戦車】よりも強力な攻撃力と装甲を持っていました(貫通力はまだまだです)。
速度も高出力のエンジンを開発・搭載することで38km/hまで出すことができて、当時の歩兵直協戦車としては十分な性能で誕生しています。

そしてこの【チハ】の経験をもって、新しい軽戦車の開発を進めることになり、それが【九八式軽戦車 ケニ】になります。
【九五式軽戦車】はとにかく速度が第一であること、また量産型戦車としてはまだ2つ目であったことなどから、妥協された点も多いです。
戦車部隊からは文句が出、騎兵部隊からは歓迎されていることから、つまり【九五式軽戦車】は重装甲車と軽戦車の間みたいな性能でした。

しかし今回の軽戦車は、そのあたりの不満もできるだけ解消したものにするため、全体を通して【九五式軽戦車】を上回る性能が求められました。
【ケニ】【九五式軽戦車、チハ】の開発と生産に当たっていた三菱だけではなく、今回は日野重工業(旧東京瓦斯電気工業)も開発することになりました。

なお、当時自動車メーカーは誕生したり倒産したりの繰り返しでしたが、比較的安定していた東京瓦斯電気工業の自動車部と、自動車工業株式会社、共同国産自動車株式会社が国策によって合併、ヂーゼル自動車株式会社が誕生。
そこからさらに日野製造所から独立する形で日野重工業が誕生します。
言うまでもなく、現在の日野自動車です。

三菱日野、2社で開発が行われた理由は不明ですが(当時の自動車開発力と情勢でコンペ形式を取る余裕ないと思うのですが)、採用されたのは日野【ケニA】と呼ばれるものです。
三菱【ケニB】は、【A】と違って【九五式軽戦車】の項でも紹介しているソ連の【BT-2】のような大型転輪を採用していました。
しかし大型転輪は最高速度は上がるものの荒れ地での安定性が劣るというデメリットがあり、最終的には【九五式軽戦車】でも導入されている、【ケニA】のシーソー式懸架装置が採用されました。
車輪は【九五式軽戦車】が転輪4つに対して6つに増えました。
試作車はいずれも昭和14年/1939年に完成しています。

まずエンジンですが、これは私が考えすぎなのかわかりませんが、ちょっとお話が最後にあります。
とりあえず、【九八式軽戦車】に搭載されていたのは130馬力の統制型一〇〇式空冷直列6気筒ディーゼルエンジンでした。
速度は【A】は最大50km/h、【B】だと55km/hと着実にスピードアップしています。

速度アップに貢献しているのはエンジンだけではありません。
実は【九八式軽戦車】【九五式軽戦車】よりも小さくなっています。
車体をコンパクトにできた理由は、エンジンを横置きに変更したのが大きいです。
こうすることで【九五式軽戦車】よりもスペースができたので、余剰スペースを圧縮することができました。
当然サイズが小さくなると重量も下がりますから、自重は500kgほど軽くなりました。

主砲は一〇〇式三十七粍戦車砲というのが多くの資料で共通している武装なのですが、この点についても後でちょっと説明が入ります。
貫通力は【九五式軽戦車】の後期型で搭載されている九八式三十七粍戦車砲とほぼ同じで、500mで24mmの表面硬化装甲を貫通します。
当時の各国の軽戦車相手なら十分な貫通力で、太平洋戦争で【九五式軽戦車】が大苦戦した【M3軽戦車 スチュアート】も側面装甲ならなんとか抜けそうな威力です。

機関銃は九七式車載機関銃(7.7mm)を搭載していますが、【九五式軽戦車】では砲塔前後部に別々で設置されていた機関銃を、一〇〇式では双連、つまり砲架に主砲と機関銃を据え付けた形となっております。
主砲同軸機関銃と呼ばれ、自身もある程度自由な旋回範囲を持つことができました。
これはかなり大事なことで、【八九式軽戦車】【九五式軽戦車】も砲塔の後方にそれぞれ機関銃が備わっていました。
ですがこれだとすぐに機関銃による断続的な射撃が必要な場合、主砲が前に向いているとわざわざハンドルで砲を回す必要があります。
ところが双連になるとこの砲塔旋回の時間が無くなりますから、機関銃の即応性が格段に改善しました。

一〇〇式が九八式と違う点はまさにここで、機関銃がもっと働けるようにする構造を一〇〇式で実現したのです。
ただ、機関銃の弾薬は箱形弾倉式(固定した機関銃の上に四角いカートリッジを差し込んで装填するタイプ)で、よく映画で見る、じゃらじゃらと弾薬がベルトで繋がれていてずーっと撃ち続けるタイプではありませんでした。
なので20発毎にちょっと間ができるという問題もありました(まぁ機関銃は熱を冷ます必要があるので馬鹿みたいに引き金引き続けてはいけないのですが)。

防御については装甲もさることながら、避弾経始についてもより考慮されています。
基本的に砲撃は装甲に対して垂直に、真正面から直撃を受けるのが最もダメージが出ます。
しかし例えば傾斜であったり、波打つような形状だと砲弾の威力が分散されるために貫通しにくくなります。
軍艦の場合だと傾斜装甲というものがあり、できるだけ船の側面を水面に対して垂直にしないような構造を採っています。
軍用車両でもこの考え方は当然当てはまるわけで、一番一般的だったのが円形にすることでした。
しかし円形に加工するのは手間がかかるために量産には不適格ですから、全面的に採用するのはなかなか難しいです。
なので装甲の分厚さや丈夫さでカバーする場所と、避弾経始でカバーする場所をうまく織り交ぜる必要があります。

【九八式軽戦車】は砲塔が円錐型で、車体上部は傾斜した装甲板を貼っています。
装甲は砲塔と車体前面が16mmとなり、多少ですが分厚くなりました。
またこれまでリベット打ちだった戦車は、被弾時に打ち付けたリベットが車内で弾けて乗員を負傷させる危険性が指摘されていました。
そのためまだ技術的に完全ではありませんでしたが、【九八式軽戦車】【チハ】と同じく溶接が多く使われています。
ですが、実際に動かしてみると円錐型の砲塔はかなり狭苦しく、せっかく双連にしたのに車長兼装填手と砲手の2人がスムーズに動くには支障があったそうです。

このように、文字に起こせば結構【九五式軽戦車】と違いがある【九八式軽戦車】
しかし当時すでに【九五式軽戦車】は量産が軌道に乗っていたこと、そして「日華事変」が勃発していたことから、新しい戦車を一から量産に持っていくことで【九五式軽戦車】の生産速度が落ちることを嫌ったため、【九八式軽戦車】の生産は全く進みませんでした。

結論から言って、【九八式軽戦車】はたった113輌しか誕生していません。
時期がとにかく悪かったのです。
【九五式軽戦車】は攻防面で確かに不満がありましたが、そもそも戦車そのものがまだ不足していた時期、そして【チハ】も鋭意生産中という状況でした。
ここで【九五式軽戦車】とまったく同じペースで【九八式軽戦車】が生産できるのならばいいのですが、そんなわけにはいきません。
結局現場には【九五式軽戦車】の不満点は忍んでもらい、まずは数を揃えることが優先されたのです。

しかし太平洋戦争が勃発し、もともと対戦車戦を想定していない【九五式軽戦車】【スチュアート】の登場によって大苦戦を強いられます。
【スチュアート】は日本の戦車能力に置き換えると中戦車レベルの攻撃力と装甲を持っており、【九五式軽戦車】は肉薄して遮二無二砲撃を仕掛けるといった、危険極まりない戦法を取らざるを得ませんでした。

これを受けてもはや軽戦車では戦いに寄与できないと判断され、【チハ】は新砲塔へ更新したものを量産し、またそれを上回る中戦車の開発が急がれました。
一方で、こうなる前に【九八式軽戦車】開発の中で問題となっていた点を改良した【二式軽戦車 ケト】が昭和16年/1941年に完成。
結局【九八式軽戦車】は量産前に【ケト】が誕生してしまったため、必要ではなくなってしまったのです。

が、この【ケト】も戦時の生産体制で戦車は優先度が下げられてしまったことから全然生産されず、まともに造られ始めたのはなんと昭和19年/1944年です。
そしていつの間にか、この2年の間に【九八式軽戦車】は合計113輌造られました。
この113輌も、果たしてどのような意図で生産されたのか、ここまでの背景をみると謎ですが、ほぼ何もできずに終焉を迎えたというのが残念ながら真実です。
なお、【ケニ】がこの段階で【ケト】に代わって生産されなかったのは、搭載するはずの一式三十七粍戦車砲の開発がめちゃくちゃ遅れたからです。

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管理人の疑問点 余談です

さて、【九五式軽戦車】を置き換えるために開発された【九八式軽戦車】ですが、調べていくうちによくわからないことがありました。
まず、前述の通り【九八式軽戦車】は昭和14年/1939年に試作車が完成しています。
ですがこの段階では主砲は搭載されていないことがわかっています。

で、そこに収まるはずの主砲ですが、一〇〇式は制式化されたのがなんと昭和16年/1941年です。
ということは、まずこの段階で【九八式軽戦車】は早期に配備するつもりがなかったのでしょうか。
急ぐのなら一〇〇式の開発を促しつつも九八式三十七粍戦車砲を搭載した【九八式軽戦車】の生産を進めそうなものです。
この一〇〇式も試作止まりで、実は生産された【九八式軽戦車】にはさらにあとになって開発された一式三十七粍戦車砲が載っていたのでは、という資料もあります。
一式の採用が早くても昭和18年/1943年後半からなので、時期的には合致します。

しかしすでに「日華事変」の真っただ中でこんな悠長な構えをしますかね?
とりあえずまずは配備をと生産を続けた【九五式軽戦車】とは違い、とりあえず九八式搭載の【ケニ】生産を、とはならなかったわけです。
こんな考えをするのであれば開発の必要すらなかったのではないでしょうか。

誕生が遅れたのは一〇〇式だけではありません。
エンジンにも謎が残ります。

【九八式軽戦車】に搭載されたエンジンは統制型一〇〇式空冷直列6気筒ディーゼル」であることはすでに述べました。
この統制型についてですが、昭和15年/1940年ぐらいに陸軍ではこれらのエンジンを各社で乱立させるのではなく、国内のエンジンの共通規格を設けて生産性工場、コストダウンを図る統制型ディーゼルエンジン構想に含まれています。
特に軍用車両向けの空冷エンジンについては日野三菱が開発しているものが多く、これらは「統制型〇〇式」という名称で統一されました。
そしてこの統制型一〇〇式空冷直列6気筒ディーゼルエンジンは、日野製のDB52型空冷直列6気筒ディーゼルエンジンでした。

このエンジン、製造されたのが昭和17年/1942年であり、つまり試作段階ではこのエンジンは存在していないのです。
じゃあ試作車完成当時は何が搭載されていたのでしょうか?
調べたけどわからなかった・・・。
日野(東京瓦斯)製のどれか、という憶測に留まります(DA10型?)。

【九五式軽戦車】で使われている三菱A六一二〇VDe空冷直列6気筒ディーゼルでは、DB52型の130馬力に対して10馬力落ちます。
120馬力でも130馬力でも同じ最高速度なら、むしろDB52型が失敗作になってしまいますから、当時搭載されていたのは少なくとも130馬力相当のエンジンであることは想定できます。
ですが試作車が完成する段階で存在していた130馬力の空冷ディーゼルエンジンがわかりません。

じゃあ昭和14年/1939年に試作車造ったけどエンジンいいのないから空っぽのまま放置、そして昭和17年/1942年に初めてエンジン突っこんで動かしたら50km/h出たって、こんな話になるの?
しかも主砲も似たような状態なわけです。
いずれも車両開発の上で形状や構造がどんなでもいいわけないですから、2~3年後の主砲・エンジンの構造細部が全てわかった上で車両だけ完成させて、数年寝かした、ということですか?

これまでの疑問から、昭和14年/1939年はエンジンは旧型のものを使って、もしくは旧型も搭載せず放置、一〇〇式もしくは一式や統制型一〇〇式が用意できたことで試作車を一部改造し、改めて試験を行った結果が性能諸元として残っているか、というのが自然でしょうか。
そしてこの空白期間中に【九八式軽戦車】の問題点を洗い出し、【ケト】の設計が始まった、と。
少なくとも【ケト】も同じように戦車砲の開発遅れで放置され続けたため、ある程度現実味があります。

これらは私のわかる範囲での調査結果で残った疑問です。
単純に私の調査不足ということも大いに考えられますので、ご存じの方にはぜひご指摘いただきたいところです。
113輌造られた後もグライダーでの空挺輸送計画があるだけで、陸軍の中でも完全にほったらかし状態だった【九八式軽戦車】は、なんとも哀れな生涯でした。

戦車/装甲車
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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