広告

帆風【峯風型駆逐艦 十二番艦】

記事内に広告が含まれています。

起工日 大正9年/1920年11月30日
進水日 大正10年/1921年7月12日
竣工日 大正10年/1921年12月22日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年7月6日
セレベス海サンギ島沖
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,251t
垂線間長 97.54m
全 幅 8.92m
最大速度 39.0ノット
馬 力 38,500馬力
主 砲 45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門
機 銃 6.5mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 4基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸

広告

対潜装備も身を守るに至らず、二度の襲撃を許した帆風

【帆風】は一部では「峯風型」の最後の駆逐艦となっています。
以降の【野風】【沼風】【波風】は従来の「峯風型」から砲塔と魚雷発射管の配置を改められているため、「野風型」もしくは「峯風改型」と分類されることもあるためです。

【帆風】は太平洋戦争開戦前の昭和15年/1940年10月15日に【汐風】と共に第三駆逐隊を編成。
11月には第二艦隊第一航空戦隊に所属となりますが、翌年8月には第一航空艦隊第四航空戦隊へと編入。
当時は機動部隊戦力が充実し、同時にその存在感もうなぎ上りだったため、「トンボ釣り」要因として旧式の駆逐艦は重宝されました。

太平洋戦争開戦直前に航空機輸送の【春日丸】を高雄まで護衛し、【帆風】はその後柱島に帰投してそこで開戦を迎えます。
昭和17年/1942年1月10日に第三駆逐隊は解散となり、【帆風】【汐風】は第四航空戦隊直属となります。

4月10日には第五艦隊へ移動となったことから、活動拠点は北へ。
アッツ島やキスカ島の攻略作戦にも参加し、その後も現地での物資調達は非常に厳しい両島への輸送護衛などを行いました。

ですがそんな日々も僅か半年ほどで、10月からは南西方面艦隊第一海上護衛隊の下で一気に赤道付近まで南下。
任務に変わりはありませんが、当時は泥沼の「ガダルカナル島の戦い」の真っ最中ですから、北方とは比べ物にならないぐらい危険です。
その影響もあってか、昭和18年/1943年3月から【帆風】は九三式水中探信儀を装備する工事を実施しています。

しかし九三式水中探信儀は性能としてはイマイチで、かなり限定的な環境でしか効果を発揮しませんでした。
その影響か、7月1日、マカッサル海峡にて【米タンバー級潜水艦 スレッシャー】の魚雷を艦首に受けて【帆風】は中破。
この時【スラッシャー】は前日から2回の魚雷攻撃を行っていたのですがいずれも命中しておらず、これが三度目の正直でした。
さらに翌日にはこの船団から遅れていた【米山丸】【スラッシャー】の雷撃を受けて沈没しています。
スラバヤでだいたいの修理を受けましたが完治とまではいかず、結局浦賀で本格的な修理をすることになりました。

昭和18年/1943年12月30日【スラッシャー】の雷撃を受けて修復中の【帆風】

昭和19年/1944年3月、ようやく【帆風】は任務を受けられるまでに回復。
復帰後は所属部隊を変えながらニューギニアやサイパンなどへの輸送に汗を流しました。

7月6日、【帆風】はインドネシアのサンギヘ島へ向かいます。
6月30日に被雷の末擱座放棄された【山宮丸】の乗員を乗せて近くのハルマヘラ島まで送る任務を受けたのです。
【帆風】は人でぎゅうぎゅうとなりながらハルマヘラを目指していましたが、しかしそこに突如魚雷が突っ込んできます。
【米ガトー級潜水艦 パドル】が放った魚雷は【帆風】を見事に貫き、【帆風】はあっという間に沈没。
【山宮丸】の乗員もいたことから多くの犠牲者が出てしまい、被雷した【山宮丸】を曳航した【特設駆潜艇 図南丸】が僅かな生存者を救い出すに留まりました。

駆逐艦
広告

※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項における参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
わかっている範囲のみ、各項に参考文献を表記しておりますが、勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

シェアする
大日本帝国軍 主要兵器