【呂十六型潜水艦】(海中三型)

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基準排水量720t
水中排水量996.8t
一番艦竣工日呂号第十三潜水艦
大正11年/1922年4月29日
同型艦10隻
全 長70.10m
最大幅6.12m
主 機ズルツァー式2号ディーゼル 2基2軸
最大速度水上 16.5ノット
水中 8.5ノット
航続距離水上 10ノット:6,000海里
水中 4ノット:85海里
馬 力水上 2,600馬力
水中 1,200馬力

装 備 一 覧

備 砲28口径7.6cm単装高角砲 1基1門
魚雷/その他兵装艦首:45cm魚雷発射管 4門
舷側:45cm魚雷発射管 2門
搭載魚雷 10本
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安全潜航深度向上 最も多く建造された海中三型

改良程度とはいえ徐々に潜水艦建造が馴染んできた海軍は「海中型」の増備を引き続き進めていきます。
「海中三型」「八四艦隊計画」で6隻の建造が決定していました。
ですが全く新しい技術を投入できる力はまだ日本にはありません。
「海中三型」「二型」同様、部分的な改良をしただけで誕生しています。

「海中三型」で変わったのは安全潜航深度です。
これまでの「海中型」はその深さが30mでしたが、これが「海中三型」では45.7mまで向上しました。
安全潜航深度は深いに越したことはありません。
安全潜航深度というのはそれ以上潜ると耐え切れないというわけではありませんが、保証はできないというものです。
爆雷がどんどん降ってくる場合はやむを得ずこの深度よりも深く潜らなければならないこともあります。
「F一型」の安全潜航深度20mというのは相当浅く、30mも別に十分な数字というわけではありませんでした。
なので、地味ですけどこの改良も潜水艦の身を助けるためには重要なものでした。


「海中三型」
「八四艦隊計画」で6隻が建造されていますが、さらに「八六艦隊計画」で4隻の増備が決定。
計10隻は「海中型」で最も多い数となります。

「海中三型」では1隻、悪い意味で名の知れ渡っている潜水艦があります。
【呂25(当時は第四十三潜水艦)】は大正10年/1921年10月25日に佐世保で竣工し、他の潜水艦と同様に訓練と整備の日々を送っていました。
大正13年/1924年3月19日、【呂25】は佐世保鎮守府第一回基本演習に参加。
この時は【潜水艦母艇 見島】を仮想敵艦とした訓練で、【呂25】はこの【見島】を追撃しているところでした。

その時突然大きな衝撃が【呂25】を襲います。
この時実は【見島】の後続には【龍田】がいて、狭い視界の中で恐らく【龍田】に気づかなかったのでしょう、【呂25】【龍田】に衝突してしまったのです。
この時ハッチは空いていて、【呂25】は浸水して沈没していきました。

このハッチは沈みゆく中で何とか閉じることに成功したと思われますが、しかし亀裂から流れ込んでくる海水は止めることができず、また二次電池の爆発と停電によって艦内の明かりは消えています。
沈没前に浮標ブイが【呂25】から放たれており、それに入っていた電話機で艦内とのやり取りは明確に、残酷なほど明確に行うことができました。

空気が薄い
呼吸が辛い
電動機が浸水によってショート
炭酸ガスの充満
収まる気配のない浸水
遺書の準備

「ただ天命を待つ」

これが最期の言葉でした。
乗員みなこの絶望的な状況の中、取り乱さず、職務を全うし、助けを乞いつつも軍人としての生き様を失わずに、乗員45名全員が殉職しました。
乗員の遺書は全て新聞上で公開され、国民が大いに悲しんだ事故となりました。

当時は天候もあまりよくない上、当時日本にはこのように沈んだ潜水艦を救助する術を持っていませんでした。
【呂25】の浮揚には1ヶ月もかかっており、残された遺体を丁重に供養した後、【呂25】は修理をされて再び編成に復帰しています。

この事故と、前年に発生した【呂31】の沈没事故を受けて、日本は急遽この対策に追われることになります。
そこで日本は練習特務艦となっていた【朝日】に潜水艦救難設備を搭載することにしました。
これはつるべの要領で、片方に沈没した潜水艦を吊るし、もう片方に沈める用の古い潜水艦を吊るして沈没した潜水艦を引き上げるという方法でした。
簡易ですが、動力があまり必要ない上に構造も単純であることからこの方法が採用されています。

同 型 艦

呂号第十六潜水艦呂号第十七潜水艦呂号第十八潜水艦
呂号第十九潜水艦呂号第二十潜水艦呂号第二十一潜水艦
呂号第二十二潜水艦呂号第二十三潜水艦呂号第二十四潜水艦
呂号第二十五潜水艦