十八試陸上攻撃機連山 |
全 長 | 22.935m |
全 幅 | 32.540m |
全 高 | 7.200m |
主翼面積 | 112.000㎡ |
自 重 | 17,400kg |
航続距離 | 3,700km~ |
発動機 馬力 | 空冷複列星型18気筒×4「誉二四-ル型」(中島) 1,850馬力×4 |
最大速度 | 592km/h |
武 装 | 13mm機銃 4挺 20mm機関砲 6門 爆弾60kg18発、250kg8発、800kg3発、1500kgないし2000kg2発 いずれか |
符 号 | G8N1 |
連 コードネーム | Rita(リタ) |
製 造 | 中島飛行機 |
設計者 | 松村健一 |
中島の四発機リベンジは終戦によって果たせず 連山
日本初の四発機【深山】は、ありとあらゆる問題が噴出した結果採用されることなく計画は中止。
しかし時はすでに戦中で、大型陸上攻撃機は必ず陸上基地や艦船攻撃に重宝されるようになると考えられ、日本に未だに四発機がない事態を憂いていました。
昭和18年/1943年、海軍は【深山】で失敗はしたものの、ノウハウを得ている中島飛行機に再び四発機の製作を指示。
中島もリベンジに燃えました。
これまででしたらあれもこれも投入して超万能機の製作を求められるところですが、そんなことをしていると戦争に間に合いません。
次に製作を行うことになった【十八試陸上攻撃機】は、発注の前から海軍と打ち合わせを繰り返し、木型までも完成している状態で正式な発注となりました。
ですので、発注こそ昭和18年/1943年9月ですが、実質的に動き始めたのはその前年の昭和17年/1942年でした。
性能の要求は確かに高いものでしたが、事前の調整もあって、スケジュールは四発機という大型にもかかわらず順調に進みます。
【十八試陸攻】で重要視されたのは、量産性の高さでした。
できるだけ特殊な部品、特殊な加工を避け、部品数全体を減らし、工程を短く、そして単純化させるように努力されています。
機体の設計には【深山】の経験はもちろん、開戦後に鹵獲した同じ大型爆撃機の【B-17】の構造が大きく影響しました。
機体の大きさに対して翼の面積が狭めだったので、二重フラップでこれをフォロー、当時最大出力だったエンジン「誉」を搭載し、【B-17】より大型化したものの、洗練された機体となりました。
爆弾は最大で2t爆弾を2発、機銃は20mm機銃六挺、13mm機銃四挺と優れた攻撃力を持ち、また防弾装備も比較的充実していて、さらに排気タービン過給器も備えた2回目の四発機【連山】は昭和19年/1944年10月に試作機が完成します。
しかし試作1号機は機体の軽量化のために欠かせなかったアルミニウムの不足によって強度不足であり、また速度向上に欠かせない排気タービン過給器も搭載されていない状態、つまりは未完成品でした。
完成品と言える【連山】は試作機4号機からの予定で、そのため引き渡しも昭和20年/1945年1月となっていました。
1~3号機はあくまでも試作・試験用という認識だったようです。
ところがその4号機が完成した頃、日本は遂に本土空襲が行われるようになりました。
そのターゲットは軍需産業拠点、つまりは港湾であり、武器工場であり、そして航空機工場だったのです。
1・2号機はこの空襲を避けるために青森へ移送され、そこで試験が行われましたが、やがて2機とも空襲によって破壊されてしまいます。
3号機も中島の小泉飛行場で破壊されてしまい、残ったのは完成品第1号の4号機だけでした。
そして不幸なことに、唯一使える4号機が、【連山】の歴史のピリオドとなりました。
戦局の悪化と、とにかく今必要なのは敵地を攻撃する爆撃機ではなく日本に攻め入る航空機を落とす戦闘機であることから、【連山】は量産化を目指したにもかかわらず、量産目前で生産の中止が決定されてしまいます。
終戦後、生き残った試作4号機がアメリカに鹵獲されて若干の飛行記録がありますが、朝鮮戦争の勃発時に試作4号機も解体されてしまいます。
果たして【連山】が優秀な航空機だったのか、やはり四発機は荷が重かったのか、そこはなかなか評価に必要な情報が少ないのが事実です。