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宗谷【雑用運送艦、砕氷艦】
Soya【icebreaker】

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※スペックは地領丸時代、運送艦時代が混在している可能性があります

起工日昭和11年/1936年10月31日
進水日昭和13年/1938年2月16日
竣工日昭和13年/1938年6月10日
退役日
(保存)
昭和53年/1978年10月2日
建 造川南工業
香焼島造船場
排水量3,800t
全 長82.3m
全 幅12.8m
最大速度12.1ノット
馬 力1,597馬力

太平洋戦争編

  1. 「灯台補給船編」はこちら
  2. 「第一次南極観測編」はこちら
  3. 「第二~四次南極観測編」はこちら
  4. 「第五、六次南極観測、巡視船編」はこちら
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雪風でもない、日向でもない 最強の船運を持つ宗谷

太平洋戦争を戦った日本の艦艇は、その大多数が戦中に沈没し、日米の圧倒的な力の差をこれでもかというぐらい見せつけられました。
その中で、第一線で戦い続け、そして戦争末期まで戦い続けた船は今でも「幸運艦」と称されます。

例えば【雪風】、例えば【瑞鶴】、例えば【羽黒】

【雪風】以外は沈没してしまいますが、戦争末期まで八面六臂の活躍を見せ、帝国海軍の心の拠り所として愛された艦です。
【雪風】【雪風】であることへの絶大な信頼感、【瑞鶴】「ミッドウェー海戦」後の第一航空戦隊を護り続けた矜持、【羽黒】はその身に魂を宿して最後まで戦いの場に出続けた執念。

一方で、残念ながら戦果は乏しかったものの、やはり幸運艦、つまり「船運」が高い船として頼られた存在があります。
その筆頭が【伊勢、日向】でしょう。

航空戦艦となった結果対空火器と輸送スペースが拡張、沈没覚悟の「北号作戦」は誰もが驚く欠損ゼロ、どころか損傷すら軽微と、制空権・制海権が奪われている中での奇跡の輸送作戦を実現。
最後は呉で浮き砲台となり、擱座するもののついに終戦まで戦い続けました。
特に【日向】は2度の艦内爆発と弾薬庫火災を耐え抜いています。
1回の爆発で沈没した【摂津、陸奥】がいる中でこの豪運ぶりは他の追随を許しません。

後者の「船運」、これは海で生きる人達にとってはある意味最も重要な要素です。
なにせ船運が悪いと死に直結します。
最もわかり易いのは【信濃】です。
彼女は性能云々ではなく、人員不足や誕生した時期など、ただただ運が悪かった、その一言に尽きるのです。

科学的根拠は一切ありません。
運がいいか悪いか、ただその一点のみ。

その「船運」が【雪風、日向】をも上回ると称されるのが、これから紹介する【宗谷】です。
【金剛】は沈没時の艦齢が34年弱と、軍艦に属し、かつ第一線で活躍した船としてはこれもまた異例中の異例の存在ですが、【宗谷】はそれを凌ぎなんと42年間役務に従事し続けました。
しかも、よくある「晩年は沿岸でひっそりと~」などではなく、解役の決定が下される直前まで任務を務めて、です。
しかも、戦後は常に船の寿命を削る極寒の地で、船に大きな負担を強いる砕氷という役目を負いながら、です。

そんな日本の戦中戦後を最もよく知る船、【宗谷】
彼女の一生は、波乱万丈、まさにドラマ、まさに映画、語っても語り尽くせないものです。
なんとか深く、わかりやすく、【宗谷】の名を汚さないようにご紹介できればと思います。
あと、太平洋戦争編だけでもかなり長いですが、五部構成となっております。

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ソ連向けに建造された宗谷 太平洋戦争はあくまで第一項

話は【宗谷】が誕生する随分前、大正11年/1922年から始まります。
【大泊】の項でもご紹介していますが、当時帝政ロシアは「ロシア革命」によって崩壊し、新たにソビエト連邦が成立しました。
帝政ロシアの全てはソ連に引き継がれましたが、その中に東清鉄道という、シベリア鉄道の極東路線と言ってもいい鉄路がありました。

時を進めて昭和7年/1932年、日本は満州国を成立させます。
そして東清鉄道は満州国内にもつながっていました。
ソ連は満州国を国と認めていませんでしたが、この東清鉄道は満州国とソ連で共同運営されることになります。
しかし双方この東清鉄道が抗争の火種になる危険性があることは察知しており、やがて東清鉄道は満州国(日本)へ売却する方向で話が進みました。

ただ、この売却問題は金銭面の折り合いがつかず難航します。
昭和10年/1935年にようやく「北満鉄道譲渡協定」(東清鉄道は満州国に売却されたことで北満鉄道と名を改めました)が締結され、日本は満州国の重要な交通網を手に入れることに成功しました。

一方ソ連は、この「北満鉄道譲渡協定」の中で1つ、日本にあるお願い事をしていました。
それは、耐氷構造貨物船、いわゆる砕氷貨物船の建造でした。
当時ソ連はこの砕氷船が不足していて、国内の建造はもとより、海外へも砕氷船の発注を行っていました。
ソ連は砕氷船の建造技術はなくても船の建造そのものには長けている日本に、自国の技師を派遣して性能の良い砕氷船を作らせることにしたのです。
発注は3隻、それぞれ「ボルシェビキ」【ボロチャエベツ】「コムソモーレツ」と名付けられました。

3隻は川南工業株式会社香焼島造船所にて建造され、【ボロチャエベツ】だけ昭和13年/1938年、他2隻は昭和12年/1937年に進水しました。
しかしこの3隻は「ロイド規約」という国際規約を満たすことができませんでした。
当時日本は「日華事変」のため、そしていずれ訪れるであろう対米戦争のために軍艦の建造ラッシュで、民間船建造の人材は乏しかったのです。
規約に合格した船の建造を依頼していたソ連はこの3隻の購入を拒否。
国際情勢も芳しくなかった日本は、ここでソ連とゴタゴタするのも避けたかったので、売却を諦め、3隻は国内に留まることになりました。
ちなみにこの時海軍は軍所属の砕氷艦が艦齢15年を超える【大泊】ただ1隻だけであることに懸念があり、ソナーも積んだ新しい3隻の砕氷船は非常に魅力的でした。
しかし上記のようにソ連への配慮のため、この時点での購入は諦めています。

ロシア語の3隻はそれぞれ「ボルシェビキ→天領丸」【ボロチャエベツ→地領丸】「コムソモーレツ→民領丸」と名前が変更され、民間船(チャーター船)として活躍をはじめました。
このうち【地領丸】がのちの【宗谷】です。

【地領丸】たちは他の民間企業にはなかなかない耐氷構造・砕氷性能・そしてイギリス製の高性能なソナーを装備していて、あちこちから引き合いがかかります。
人、食料、機材、あらゆるものを積んで中国や北方領土との往復を行い、ソナーによって濃霧からも無事脱出できたという経歴も持っています。

しかしいよいよ対米戦争が間近となり、当初ソ連への配慮のためにためらっていた海軍への売却の話が再浮上。
戦争となれば当時と話は別のため、本土決戦でない限り船舶輸送が絶対条件だった陸軍はこの話に飛びつきます。
特に中国とは現在進行形で戦闘中。
ソ連との戦争も考慮に入れるとなると、輸送船はあればあるだけほしい状況でした。
結局、最初は3隻とも海軍への売却だった話は【地領丸】1隻だけとなり、残り2隻は陸軍徴傭船として輸送を任されることになります。
つまり、軍属となったのはこの【地領丸】のみということです。

【地領丸】は海軍に売却され、その名を【宗谷】と改めます。
ちなみにこの【宗谷】、どうやら宗谷岬ではなく、宗谷岬と樺太海峡の間にある宗谷海峡が命名の由来だそうです。
さらにちなみに【伊良湖】は伊良湖岬ではなく伊良湖水道が命名の由来です。
特務艦は命名の基準が「岬、海峡」なのですが、こうやって2箇所ある場合はどちらが正解か、文献がないとわかりませんね。
一方で【大泊】は「岬、海峡」ではなく大泊港が由来であったり、結構バラバラです。

話を戻しまして、【宗谷】は雑用運送艦に分類されます。
大雑把に言えば、なんでも運ぶ船。
またソナーを装備していたため、輸送と同時に測量も行うことが期待されていました。

昭和15年/1940年6月、【宗谷】は早速北樺太への調査に向かいます。
夏が迫る時期でしたので流石に砕氷するほどの氷はなく、順調に調査を終えました。
10月11日には紀元二千六百年特別観艦式に拝観艦として参加し、翌月からはサイパン島へ向かいます。

南方です、砕氷艦なのに南方です。
残念ながら戦中の【宗谷】の活躍は、調べる限りでは北方海域のものは皆無。
輸送任務で訪れた東北、北海道や北方領土付近が最北です。
戦争の舞台が南方だったことから、【宗谷】の運用もまた、南方に限られてしまったのです。
【宗谷】は気象観測、測量などを行うためにサイパンやトラック島周辺を回り続けました。
巡航速度8.5ノットの鈍足艦ですが、測量のために測量艇も随伴し、また多数の測量機器に対応するために測量技師もたくさん乗り込んでいて、測量隊はかなりの大所帯でした。
測量機器の性能もよく、海図作成がすごく捗った様子です。

見た目は明らかに商船を改造したもので、8cm単装高角砲と25mm連装機銃が装備されましたが、正直かっこ悪く、海軍からのウケはよくありませんでした。
よく揺れる上に、耐氷構造だったからとにかく厚い、暑い、熱い。
ただ、帰還して持たさられた資料の価値はさすが【宗谷】と言わしめるもので、「見た目は悪いが技術は随一」 と言われるように、徐々にその存在感を示してきます。

やがて昭和16年/1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。
【宗谷】はいよいよ戦争真っ只中の南方海域に飛び込むことになります。
まず【宗谷】はトラック島へ向かい、そこから日本とトラック島、ラバウルへの往復と輸送、現地測量の日々が始まりました。
やることは輸送と測量でこれまでと変わりませんが、しかし安全な海上といつ空襲がくるかわからない戦時では危険度が全く異なります。
特に【宗谷】は当時最大速度でも12ノット?ほどですから、普通の輸送船とそう違いはありません。
襲われたらおしまいです。

機銃を徐々に増備しながら、観測、測量、輸送の毎日を送っていた【宗谷】ですが、太平洋戦争の大きな分水嶺、「ミッドウェー海戦」にも参加します。
恐らく輸送とミッドウェー島上陸後の測量に従事する予定だったのでしょう。
ただ、占領隊から飛び込んできた「赤城、加賀、蒼龍炎上中、飛龍奮戦」の報は、帝国海軍によって全く露ほども予想しなかった事態でした。
まさか、あの世界最強の機動部隊が、3隻も。
鈍足の【宗谷】がこの戦況でできることは何一つありません。
即ウェーク島への転進が決まり、幸い【宗谷】は被害をうけることなく「ミッドウェー海戦」を終えています。

続いての分水嶺「ガダルカナル島の戦い」では、「第一次ソロモン海戦」で結局達成できなかった輸送部隊の一員として参加。
以後もアイアンボトム・サウンドでの血みどろの戦いが繰り広げられる中、【宗谷】も必死に測量や掃海などを続けます。
そんな中、昭和18年/1943年1月28日、ついに【宗谷】にも魔手が忍び寄ってきました。
潜水艦(正体不明)からの魚雷です。
4本のうち1本が、右舷後方に直撃。
【宗谷】はたちまち沈下、と誰もが覚悟したのですが、なんとその魚雷は不発、【宗谷】は大した損害なく、この危機を逃れることができました。
しかもお返しとばかりに【第二十八駆潜艇】とともにこの潜水艦に爆雷を加えて撃破しています。

そして以後、【宗谷】は戦闘に巻き込まれることがあっても被害は軽微で乗り越える機会が目立つようになり、この鈍足で軽装の船に宿った、幸運艦の片鱗を見せるようになってきます。
空襲で損害軽微、潜水艦の雷撃を回避、資源不足の地へ燃料を補給してもらうために向かう羽目になるのを事前に止められる、そして進路を変えたトラック島で、【宗谷】の幸運艦ぶりは確立されたのです。

昭和19年/1944年2月17日、「トラック島空襲」が行われます。
当時日本の大拠点だったトラック島が大編成の機動部隊によって破壊の限りを尽くされたこの「トラック島空襲」では、さすがの【宗谷】も無傷ですまず、さらに回避行動中に座礁し身動きが取れなくなってしまいます。
翌日もしつこくやってくる航空隊によって9名の戦死者、艦長重症の被害を負った【宗谷】は、やむなく書類を焼却処分して放棄され、【宗谷】の運命はここで潰える、かと思われました。

19日、座礁してから2日後、海上には【宗谷】浮かんでいました。
なんと【宗谷】は満潮によって船体が持ち上げられ、自然離礁していたのです。
驚いた乗組員たちは再び【宗谷】に飛び乗り、喜びを分かち合いました。

しかし、現実はいいことばかりではありません。
船体はいたるところが機銃によって穴だらけ、血まみれの場所もあったり、甲板も破壊されていて、動きはするものの、使えはしない状態でした。
さらに「エニウェトクの戦い」に巻き込まれた測量隊はなんと全滅。
【宗谷】放棄と測量隊全滅の責任を追求された天谷嘉重艦長(当時大佐)は、残念ながら更迭後に自決しています。
離れると途端に運気を失うのも、幸運艦の性なのかもしれません。

一命をとりとめた【宗谷】ですが、上記の通り任務につける状態ではありません。
日本へ戻る最中にはボイラーの不調も訴えるようになり、【宗谷】は初めて大掛かりな修理を受けることになりました。
また、この時に測量機等々の器材が撤去され、輸送艦としての色が濃くなります。
機銃も増設され、【宗谷】は1ヶ月後の4月末に復帰。
5月7日には幌筵島への陸軍輸送に参加し、この時民間船時代を含めて初めて姉妹艦の【天領丸】とともに行動を取っています。

しかし「トラック島空襲」から日本へ帰投する際に発症したボイラー不調がなかなか治りきらず、【宗谷】はここから10ヶ月近く国内で修理と試運転の繰り返しとなってしまいます。
そしてこの間に、日本は「マリアナ沖海戦」、サイパン島陥落、「レイテ沖海戦」「多号作戦」と、数々の拠点と艦船、そして何よりも人命を失っていきました。

昭和20年/1945年2月、【宗谷】はようやく輸送任務に復帰しますが、しかし事態は逼迫しています。
もはや日本近海すらアメリカ潜水艦の住処となっていて、数多くの輸送船が沈められていきました。
そして6月24日、【宗谷】は護衛艦と【輸送船 神津丸、永観丸】とともに「第一六四二船団」を構成し、満州へと向かいます。

26日、船団に忍び寄ってくるのはやはりアメリカの潜水艦でした。
【バラオ級潜水艦 パーチー】は船団に向けて魚雷を発射、これによって【神津丸】は沈没、【永観丸】は沈没こそ免れましたが大破擱座してしまい、航行不能となります。
【宗谷】にも魚雷が襲いかかりましたが、幸運艦を舐めてはいけません、魚雷は【宗谷】の下をくぐり抜け、【宗谷】はまたしても潜水艦の襲撃を回避しています。
そして前回同様、護衛艦とともに【パーチー】に反撃の爆雷をお見舞いし、見事追い払っています。

被害は大きかったものの輸送を終えた【宗谷】は、帰投後に横須賀へ向かい入渠します。
8月2日、終戦間近です。
本土への空襲が頻発していた中、【宗谷】がいたドックも空襲を受けました。
その際こちらの反撃によって被害を負った敵機が、増槽を切り離して離脱したのですが、その増槽があろうことか【宗谷】の機関室に直撃。
増槽は燃料タンクですから、わずかでも火の手が上がればたちまち大爆発です。
しかもそれが、エンジンルームである機関室に落ちる。

しかしやはり【宗谷】の運は侮れません。
入居中ということで機関に火は入れられておらず、ガソリンが気化したものの、発火することはなく難を逃れたのです。

これでもかというぐらい幸運ぶりを発揮する【宗谷】ですが、終戦間近なのにエピソードにはまだ続きがあります。
3日、【宗谷】【標的艦 大浜】とともに女川へ向かい、6日には【大浜】を置いて今度は輸送のために単艦で八戸へ向かいました。
この八戸へ向かう最中、【宗谷】はアメリカの第37機動部隊に補足されてしまいます。
鈍足で護衛なしの【宗谷】の運命は今度こそ終わるのかと思ってしまいますが、突如現れ、乗員から「神の衣」と呼ばれた濃霧に飛び込むことで逃げ切ることに成功しました。
しかし神の衣に包まれなかった女川は、この後第37機動部隊の空襲にあってしまい、そこで【大浜】は着底してしまいます。

8日、【宗谷】は八戸を出港、その日のうちに室蘭へ入りました。
そこで、【宗谷】は終戦を迎えました。

【宗谷】の幸運艦ぶりは、この時期に生き残っている船が少ないのもあって海軍でも有名になっていました。
自力で戦う力が備わっている軍艦や駆逐艦ならまだしも、増備されたとは言え機銃と爆雷だけの鈍足艦がここまで戦いに巻き込まれながらも生還するとは。

復員船としての任務を終えた【宗谷】は、次の所属先である海上保安庁より新しい任務を与えられました。
次の舞台は、灯台です。

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