※全て計画値 案多数あり
※計画値 戦略爆撃機富嶽 |
全 長 | 46.00m |
全 幅 | 63.00m |
全 高 | 8.80m |
主翼面積 | 330.00㎡ |
自 重 | 42,000kg |
航続距離 | 18,520km~ |
発動機 馬力 | 空冷4列星型18気筒2基串型×6発「ハ219型」(中島) 2,050馬力×6 |
最大速度 | 601.9km/h |
武 装 | 20mm機関砲 4門 爆弾総重量 20t |
符 号 | 未成 |
連 コードネーム | 未成 |
製 造 | 計画のみ |
設計者 | 中島飛行機 |
アメリカを焼き尽くせ 圧倒的なスケールの超大型爆撃機 富嶽
昭和17年/1942年9月、「ミッドウェー海戦」で慢心により4隻の貴重な空母を失った日本に、1つの朗報が入ってきました。
【伊29】に搭載された【零式小型水上機】が、計画通りアメリカ西海岸オレゴン州の森林に計2回の爆撃を行いました。
被害はほとんどありませんでしたが、この結果は日本に様々な可能性をもたらしました。
その中の一つに、中島飛行機創設者の中島知久平が訴えた「必勝防空計画」というものがありました。
中島は開戦直後から「アメリカとの戦争は、技術力と資源量の差から、長期化すれば必ず負ける」と考えていました。
そんな中、中島は自身の事務所で傍受していた無線から国家機密事項だった「ミッドウェー海戦」の大敗を、誰あろうアメリカからのラジオ放送によって知ることになります。
ちなみに「ミッドウェー海戦」の大本営発表は、
「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母1隻、重巡洋艦1隻沈没、空母1隻大破、未帰還機35機」
大嘘です。
実際は
「空母ヨークタウン撃沈、駆逐艦ハンマン撃沈、敵飛行機150機ほどを撃墜。味方の損害は空母4隻、重巡洋艦1隻沈没、重巡洋艦・駆逐艦各1隻損害、喪失機約300機」
世界規模でも類をみない、大規模機動部隊同士の戦いに敗れたことから、時代はもはや大艦巨砲主義ではなく、空母と航空機による航空戦であると確信。
また中島はアメリカで超大型爆撃機を開発していることも察知しており、このままでは日本はアメリカの空襲に晒されると危機感をつのらせます。
そこで中島は独自でこれに対抗できる、もしくは先行してアメリカに直接攻撃を加える壮大な計画を社内でぶちあげます。
それが「必勝防空計画」です。
迎撃態勢を整える一方で、こちらもアメリカ本土空襲をできる超大型爆撃機を配備する、というもので、この計画内で製造が計画されたのが【Z機】という機体です。
最終兵器という意味合いから、アルファベットの最後の文字である「Z」が選ばれたと言われています。
【Z機】は中島が掴んでいたアメリカで開発中の【B-29】よりも巨大なもので、またその計画も地球規模と言ってもいい、空前絶後の大計画でした。
曰く、日本を飛び立ち、給油なくアメリカを爆撃し、ドイツもしくはドイツ占領地へ着陸、給油後、同ルートを引き返して再びアメリカを攻撃して帰還するか、ソ連を爆撃して日本へ帰還する。
世界一周をして敵地を攻撃するというものだったのです。
すでにジェット気流の存在は日本でも知られていて、しかもその気流は日本からアメリカへと流れています。
ジェット気流の流れる高度10,000mを飛行すれば、燃費の面でもこの大飛行は可能だと考えたのです。
全 長 | 45.00m |
全 幅 | 65.00m |
全 高 | |
主翼面積 | 350.00㎡ |
自 重 | 67,030kg |
航続距離 | 16,000km |
発動機 馬力 | 空冷4列星型36気筒×6発「ハ506型」(中島) 5,000馬力×6 |
最大速度 | 680.0km/h |
搭載爆弾総量 | 20,000kg |
全 長 | 30.18m |
全 幅 | 43.04m |
全 高 | 8.47m |
主翼面積 | 159.79㎡ |
全備重量 | 32,040kg |
航続距離 | 6,600km |
発動機 馬力 | ライト「R-3350-79」 2,200馬力×4 |
最大速度 | 576.0km/h |
搭載爆弾総量 | 10,000kg |
このように、【B-29】よりも遥かに巨大で、さらに世界でも未だ類を見ない6発機、常用高度は10,000m、そしてさらには雷撃機、輸送機としての運用に加え、近年機銃を山ほど装備した掃射機も計画されていたという資料が発見されています。
ただ、これでも終戦の翌年に完成した【B-36】より少し小さいサイズで、戦争が長引けば日本は中島が計画した【Z機】や【富嶽】クラスの航空機によってさらなる焦土化が進んでいたかもしれません。
アメリカと戦争をするというのは、こういうことなのです。
今でこそ夢物語と言え、空想に思いを馳せるわけですが、これを航空機メーカーの双璧の一角を担った中島飛行機創始者が、本気で、国を巻き込んで訴えているのです。
戦争がいかに壮絶で、非常識の塊だったことかがわかります。
中島の構想は、彼が国会議員でもあったことからやがて政治家達を巻き込んでいくことになります。
しかし周囲はこの馬鹿げているとも言える桁外れの構想に消極的で、すでに社内では泊まり込みをさせてまで本格的な設計が始まっているにもかかわらず、実現への道は閉ざさたままでした。
そこで中島は昭和18年/1943年8月、東條英機首相を始めとした、軍関係に絶大な影響を持つ面々を説得し、上から【Z機】開発を実現させるべく、98ページから成る「必勝戦策」という資料を用意。
「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ 」とし、【B-29】を迎撃する準備よりも、【B-29】が飛び立つ飛行場や根っこである軍需産業に痛撃を与えなければならないと訴えます。
最初は東條首相らも消極的だったものの、日本の劣勢は明らかな中、枢軸国のイタリアが降伏。
現実離れした【Z機】に最後の期待を寄せる事になり、昭和19年/1944年2月に陸海軍共同、そして軍需省が加わった計画委員会によって【Z機】の開発が承認されました。
この時、具体的な要求についても話し合われ、名称も【試製富嶽】と決定。
ここで初めて【富嶽】という言葉が誕生します。
日本の象徴「富士山」を表す【富嶽】は、この太平洋戦争最大の計画にはふさわしいでしょう。
当時海軍も陸軍も同様の構想は持っていましたが、当然ですが規模が大きすぎて開発の踏ん切りがなかなかつきませんでした。
そんな中に舞い込んできた【富嶽】の開発計画は陸海軍にとっても朗報で、お互いが計画していた大型爆撃機の開発は中断・中止され、【富嶽】一本で勝負することになりました。
しかし軍の承認を得たからと言って、こんな化け物レベルの代物の開発に時間がかかるのは当然でした。
最大160tにもなる機体を支える脚部を始めとした降着装置、プロペラの強度や構造、高度10,000mの環境を耐え抜く気密室などの研究、同じく高高度の酸素濃度低下を補填する排気タービンの開発などなど。
そして日本の航空機開発とは切っても切れない、搭載するエンジンの出力とその冷却。
日本と欧米の技術力の差として、レーダーと並んで最も広がっていたと言ってもいいエンジンについては困難を極めました。
「ハ219」を2つ串形に配置して1列に並べ、2基をまとめて1基として運用し、1基あたりの換算で計画の5,000馬力を実現できないかと考えていましたが、そもそも「ハ419」は開発に成功したばかりで、それを全く想定されていなかった構造で使えるようにするには、もちろん時間が足りません。
冷却設備も当然全く環境が整わず、結局通常通りの各プロペラに1基、つまり「ハ219」単独の2,450馬力となってしまいます。
アメリカの【B-36】でもレシプロ6基だけでは出力不足だったため、開発が完了したばかりのジェットエンジンを4基追加搭載しているのですから、レシプロだけでこの構造はやはり無理があったのでしょう。
この馬力半減は大きな影響を与えました。
馬力半減は単純に考えても重量倍増と同じことですから、重量を削減しなければなりません。
最大20tの爆弾を搭載する予定だった【富嶽】ですが、これが最大5tと1/4まで激減。
総搭載量も15tとなりました。
速度も680km/hから600km/hにまで落ちてしまい、計画案が大きすぎたとは言え、戦力ダウンは明らかでした。
軽量化を目指したいのは山々ですが、【富嶽】は大きすぎるためにとにかく丈夫にしなければ、攻撃云々の前に自身が持ちません。
離陸時には翼の先端が1m以上たわむという結果もあったようで、対策として翼に超々ジュラルミンの外皮を貼って、なんとか強度をあげようとしました。
しかしいわゆる防御力については機体開発が進まなかったためにほとんど触れられませんでした。
また、軽量化にはタイヤまで注目され、なんと離陸後にタイヤを落とすという発想が生まれます。
タイヤ1個の重量は1トンで計画されたのですが、最初は1脚につきタイヤ2個、そして離陸後にそれぞれタイヤを1つ落としてしまおうというのです。
降りるときは燃料もかなり消費しているし、当然爆弾も投下後ですから、離陸時に比べて重量は60tぐらいまで減っています。
それならタイヤ1つでも支えることができるという見込みでした。
(ドイツから帰る時はどうするつもりだったのでしょうか?やっぱりドイツで別に作ってもらうしかないんでしょうか。)
様々なアイディアをもって、ようやく機体のデザインは出来上がりました。
しかし中身については問題しか目に入らず、【富嶽】は高すぎる頂の麓であがき続けていました。
そして本格始動から半年後の7月、日本にとって再びの悪夢が訪れます。
6月の「マリアナ沖海戦」でまたもや3隻の空母を失い、そして7月には絶対国防圏としていたサイパン島が陥落したのです。
サイパン島が落ちたということは、ここを基地としてアメリカからの空襲がより盛んに行われることを意味しています。
つまり、「防衛よりも攻撃を」という旗印の下計画された【富嶽】ですが、完成する前に防衛へ全力を注がなければならない事態となってしまったのです。
絶対国防圏喪失により、東條内閣は責任を取り総辞職。
次に選ばれた小磯國昭内閣は、当然ながら空襲に対応するための迎撃態勢強化を最優先とします。
つまり、攻撃機よりも局地戦闘機、【富嶽】よりも「対B-29戦闘機」ということです。
当時「対B-29戦闘機」の開発も難航していましたし、この判断は当然でしょう。
この結果、【富嶽】の開発は中止が決定。
頂上にあるアメリカの姿を微塵も見ることなく、登頂は断念されました。
日本最大の長距離爆撃機計画であることから【富嶽】は有名ですが、実は本格的な開発時期はたった半年程度です。
計画では、昭和20年/1945年6月までに400機を完成させる予定でした。
当時の日本では絶対に達成し得ない計画です。
中島は海軍所属の軍人でしたが、ヨーロッパで航空機の研究状況を見て「日本は軍艦で米英と争うよりも航空機を充実させなければならない」と、軍を辞めて中島飛行機を設立。
開戦前は戦争反対派、しかし開戦後は早期に航空機配備の充実を訴えるなど、時流を確実に見据えていた人物です。
そして終戦も目前に控えた頃、終戦後は飛行機ではなく自動車の時代になることを予言。
中島飛行機は今、富士重工業を経てSUBARUとして世界で活躍する自動車メーカーとなっています。
最後に、【富嶽】より全体的に1割ほど大きな【B-36】と、日本を焼き尽くした【B-29】が一緒に写った写真を用意しました。
【富嶽】が完成したとしてのおおよその大きさの違いを想像していただければと思います。