【南号作戦】とは、1945年1月から3月までの期間、日本~シンガポール間で行われた資源輸送作戦である。
南方海域の豊富な資源は日本の生命線であったが、日本の劣勢と並行して通商破壊活動を活発に行ないはじめた連合国の妨害によって欠乏状態が続いていた。
さらに1944年に入ると、日本の制圧範囲もみるみる縮小していき、日本は陸上への輸送も、日本への輸送も常に沈没の危機と隣り合わせになっていく。
やがて「レイテ沖海戦」や「レイテ島の戦い」によって日本の陸海軍が壊滅状態となると、南方海域の資源は軍隊の特攻同様、「特攻輸送」を行うようになる。
その作戦が【南号作戦】である。
日本は1945年1月の時点での石油備蓄量が100万キロリットルを割り込み、この【南号作戦】の護衛艦は国家存続のために是が非でもやり遂げなければならない作戦であった。
しかしこの時期は一等駆逐艦や軽巡洋艦なども数えるほどしか残っておらず、長い航海にもかかわらず輸送船の護衛には二等駆逐艦や海防艦、駆潜艇などを派遣するしかなった。
それでも護衛につける艦を増やしたり、輸送船に機銃を増設するなどし、船団の生存率を上げるべく努力をしている。
だが、制空権も制海権も失っている日本軍がこの作戦を成功させるには、それこそ【北号作戦】のように奇跡を願うしかなかったであろう。
度重なる空襲と潜水艦による雷撃によって、船団は次々と崩壊していくことになる。
機銃を増設したとは言え、数に物を言わせ、かつ頑丈なアメリカの航空機を追い払うのは容易ではない。
輸送船は速度も遅く防御力もないため、機銃でも穴だらけになり、至近弾でも致命的な被害となる。
さらに水中からは容赦なく魚雷が放たれ、輸送船も護衛艦もこの水空の二面攻撃に翻弄され続けた。
計11回【南号作戦】は実施されたが、30隻の輸送船出撃に対して、輸送に成功したのはたったの6隻であったと記録されている。
多くの艦艇が【南号作戦】中に撃沈され、やがてアメリカが沖縄に上陸したことで、作戦の成功率がより減少することから【南号作戦】は3月16日に中止された。