【海軍甲事件】とは、当時連合艦隊司令長官であった山本五十六大将が、アメリカの戦闘機【P-38 ライトニング】によって撃墜され、戦死した事件。
1943年4月7日より、日本は「い号作戦」を実施し、数度に渡ってソロモン諸島やポートモレスビーに空襲を行い、損害は多かったもののそこそこの戦果を収めて16日に終了した。
それに伴い、山本はブーゲンビル島を経由してショートランド島近くのバラレ島基地に赴き、作戦に参加した兵員を労うこととなった。
「い号作戦」時、山本は連合艦隊旗艦であった【武蔵】ではなく、「い号作戦」を直接指揮するためにラバウルにいた。
第三艦隊の小沢治三郎は反対したが、この予定は覆らなかった。
出発は4月18日6時とされた。
小沢はこの山本につく護衛である【零式艦上戦闘機】が6機であることは少なすぎると考え、先任参謀であった黒島亀人を通じて同行する参謀長宇垣纏に、護衛機をもっと増やすよう伝えて欲しいと頼んだが、結局護衛機が増えることはなかった。
(当時の稼働可能な【零戦】数はかなり少なく、山本が遠慮したものと思われる。ただ、過剰な護衛は敵に護衛対象が重要な人物であることを伝えるようなものなので、多ければいいというものではない)
この視察計画は各関係者に打電されたが、すでに日本海軍の暗号解読が進んでいたアメリカには筒抜けになっており、この情報はすぐさま太平洋艦隊司令長官であったチェスター・ミニッツ大将に報告された。
ミニッツは幕僚と会議を開き、この情報に基づいて山本殺害の可否を議論することになった。
愚将であれば生かしておくほうが自国にとって有利。
また、山本を退けた後に更に有能な人材が出てくる可能性があれば、やはり生かしておくべきである。
果たして山本は、そして日本の人材の程度は如何なるものか。
結論は「可」。
太平洋艦隊情報参謀のエドウィン・レイトンは、山本を優れた司令官であると同時に、日本の士気に多大な影響を及ぼす人物だと指摘。
また優秀な後任については、可能性があったのはすでに「ミッドウェー海戦」で戦死している山口多聞であるとし、山本を上回る司令長官が現れる可能性は低いことも伝えた。
ミニッツは最終的にフランクリン・ルーズベルト大統領と海軍長官であったフランク・ノックスに許可を得て、山本殺害を決定。
ノックスはこう口にした。
「ソロモン方面部隊は、たとえ全滅してでも山本機を撃墜せよ」
この作戦は「ヴェンジェンス(報復・復讐)作戦」と呼ばれた。
「真珠湾攻撃」を指揮した山本を何としても堕とせ。
ミニッツは南太平洋方面軍司令官であったウィリアム・ハルゼーに同作戦の実施を命令した。
山本が時間に正確であることを知っていたハルゼーは、航続距離の長い【P-38】で山本の搭乗する【一式陸上攻撃機】を迎え撃った。
果たして7時33分、目論見通り【P-38】14機の眼前には【一式陸攻】と【零戦】が現れた。
15分ほどの空戦の後、山本の搭乗した一番機は被弾、ジャングルに墜落した。
宇垣が乗った二番機も被弾し、海上に不時着している。
宇垣は一命をとりとめたが、山本は墜落現場で戦死した。
この時の山本の遺体の姿については様々な証言があり、どれが正しいかは即死かどうかも含めて不明。
(軍刀を持って着座したまま亡くなっていた、胸部と頭部に銃槍があった、銃槍は胸だけであった、など)
日本では即刻箝口令が敷かれ、約1ヶ月後の5月21日まで国民には知らされなかった。
山本の遺骨は5月17日に【武蔵】に乗せられてトラック島を出発。
6月5日に国葬が行われた。
一方アメリカでも、この事実には箝口令が敷かれており、撃墜の翌日となる4月19日には、単に【一式陸攻】2機の撃墜を放送したに留まった。
遺体の確認をしていないアメリカが山本殺害を叫べば、暗号が解読されていることを公表するに等しいためである。
山本戦死後の連合艦隊司令長官には、古賀峯一がついた。