九九式軍偵察機 |
全 長 | 9.21m |
全 幅 | 12.10m |
全 高 | 2.73m |
主翼面積 | 24.0㎡ |
自 重 | 1,873kg |
航続距離 | 1,060km |
発動機 馬力 | 「ハ26-Ⅱ」空冷星型複列14気筒(三菱) 940馬力 |
最大速度 | 424km/h |
武 装 | 7.7mm機銃 3挺 200kg爆弾1発 |
連 コードネーム | Sonia(ソニア) |
製 造 | 三菱 |
設計者 | 大木 喬之助 |
陸上部隊を蹴散らせ 日本初の襲撃機は安定性能で大戦を駆け抜ける
陸軍にあって海軍にはない航空機の類別に、「襲撃機」というものがあります。
襲撃機は大変歴史の短い存在で、太平洋戦線開戦の僅か3年前に新しく誕生したカテゴリーになります。
襲撃機構想は陸軍にとっての仮想敵であるソ連の「シュトゥルマヴィーク」から誕生し、「シュトゥルマヴィーク」を日本語訳した「襲撃機」という言葉をそのまま当てはめています。
襲撃機のターゲットは軽爆撃機同様飛行場の航空機ですが、その他に襲撃機には敵機攻撃用ではない機銃が備わっていました。
その目標とは敵兵士そのもの。
襲撃機は歩兵砲兵などの陸上部隊に機銃掃射を浴びせるのが大きな任務となりました。
航空機の天敵はもちろん航空機で、それに比べて陸上部隊は、追撃を受ける危険がないだけ戦闘機よりはずっと攻撃力が落ちます。
ましてや低空で飛んできて発見が遅くなれば攻撃態勢を整える暇もありません。
襲撃機はそれを狙い、爆撃の時はもちろん高度を上げて、そして陸上部隊の直接攻撃の際はできるだけ低空を飛行して銃弾を浴びせて飛び去るという戦いのために生み出されることになりました。
「陸軍」というように、主力はあくまで歩兵砲兵。
戦車ですら(当時は)歩兵を守る存在ですから、これらをどうやって安全に効果的に攻撃するかというのは大変重要な問題でした。
その襲撃機第一号となったのが【キ51/九九式襲撃機】です。
三菱が1938年1月に内示を受け、早速設計が始まりました。
襲撃機は軽爆撃機と一部任務が重なっていますが、飛行する高度が限られています。
また急降下爆撃をすることもないため、軽爆撃機とは異なる設計となりました。
その最たるものが防弾性です。
奇襲を仕掛けることができれば一番ですが、高い位置から爆弾を落とす爆撃とは違い、ひとたび見つかれば陸上部隊の高射砲や機銃で十分狙える高さを飛行することになるのが襲撃機です。
つまり、敵陣に近づくということはそれだけ被害を受ける可能性も高まるため、できるだけ防御を固める必要があったのです。
陸上部隊からの攻撃が想定されることから、装甲は特に機体下部に集中しました。
エンジン下部、操縦席下部、胴体下部などに6mmの防弾鋼板を取り付けて、一般的な機銃では貫かれないように設計されています。
また陸軍で初めて防弾タンクも採用するなど、人命・機体の寿命を重視した造りとなっています。
武装においては両翼に7.7mm機銃を1挺ずつ、後部座席に1挺の計3挺が備えられていました。
しかし戦いが劣勢になっていくにつれて威力不足が顕著となったため、昭和18年/1943年11月からは12.7mm機関砲へと変更されています。
設計から試作へと進んでいる時に、陸軍から新しい方針が定められました。
その内容は、襲撃機と軍偵察機を同一機種に統一するというものでした。
軍偵察機と襲撃機に求められる、軽い爆弾を搭載し、高速で軽快であることは一致しており、ベース設計を同じとし、一部だけ組み替える形でできるだけ同じラインで製造できるようにしたのです。
機種の集約・統一は特に戦時中においては重要なことですので、この考え方は正しかったと思います。
これにより、【キ51】は【九九式襲撃機/軍偵察機】いずれでも【キ51】と呼ばれて製造が進みました。
軍偵察機としても運用されることになったため、機体の設計も少し変化が表れています。
例えば風防・天蓋が大きく設定されていて、これはもちろん視界を広げるためです。
また副操縦装置などを取り外して、小窓から写真を撮れるスペースも確保しています。
この撮影スペースを用意するため、止む無く爆弾は両翼に取り付けられることになりました。
翼の下に付けるというのはバランスの問題もありますが、両翼最大100kgずつしか積めないので大丈夫だったのでしょう。
試験中に発覚した問題も解決させることができた【九九式襲撃機/軍偵察機】は、昭和15年/1940年5月に無事に制式採用が決定。
機体設計には中島飛行機が開発した【キ27/九七式戦闘機】を大きく参考にされていたためにトラブルもほとんどなく、最高速度は【キ30/九七式軽爆撃機】とほぼ同じ424km/h。
高性能とまでは言えなくても任務に沿った十分な能力を持った航空機として誕生しました。
実は昭和15年/1940年は皇紀で数えると2600年の大きな節目でした。
しかしこの年に誕生した兵器をどのように表すか、陸軍ではまだ定まっていませんでした。
海軍では「零式」、そして陸軍では「一〇〇式」となりますが、結局【九九式襲撃機/軍偵察機】は制式採用の段階までにこの部分を決めきることができず、止む無く前年の「九九」を採用しているという裏話があります。
旧式の象徴とも言える固定脚の【九九式襲撃機/軍偵察機】ですが、例えば低空飛行の際は離発着が安全に行えるメリットがありました。
また低空飛行の性能も現地の評価高く、そのまま敵戦闘機を撃墜した例もあるそうです。
扱いやすく、これまでの機体に比べると遥かに充実している防弾性、故障の少なさなど、みんながストレスを感じることなく扱える機体として大変重宝されました。
もちろん偵察、そして要人輸送機や連絡機などの任務も行っています。
しかし何年も最前線で使える機体ではないことは認めざるを得ません。
対米戦闘が劣勢となっていくと、前述の機銃強化はじめ本来の性能では戦いが一層厳しくなっていきました。
それでも「日華事変」ではその信頼性の高さが引退を遠ざけ、終戦まで苦しみながらも着実に戦果を残しつつ戦い続けました。
ですが太平洋戦争においては陸上の航空機基地が各島にあるわけではないことから、海を越えた出撃も後を絶たなくなり、航続距離の短い本機は戦える場所も減っていきました。
やがては特攻機にも使われるようになり、搭載爆弾を50kg上積みしてその尊い命をいたずらに散らしていきました。
一方で対潜哨戒機としての任務も担うようになっていき、実は太平洋戦争で最後にアメリカ艦隊を撃沈させたのはこの【九九式襲撃機】だったりします。
昭和20年/1945年8月6日もしくは7日、哨戒中の【九九式襲撃機】は【米バラオ級潜水艦 ブルヘッド】が浮上航行しているのを発見。
直ちに接近して60kg爆弾を投下、うち2発が直撃して、撃沈確実となりました。
【九九式襲撃機/軍偵察機】は三菱製造分が1,460~70機、さらに立川陸軍航空工廠でも多く製造され、少なくとも2,000機が製造されました。
汎用性が高く、信頼の厚い機体は、役割そのものは地味でも静かなベストセラー機として多くの戦地で飛び続けました。