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【キ43】一式戦闘機『隼』/中島その4
Nakajima Ki-43

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  1. 一式戦闘機各機種に関するスペック
  2. 九七式戦闘機の後継機 どのような経緯で決まったか
    1. エンジンにかかわる性能
    2. 攻撃力・防御力
    3. 航続距離
  3. 九七戦は超えられない 採用への道は狭まる一方
  4. キ43復活 ところが組織間で一悶着
  5. 一式戦闘機「隼」一型
    1. 武装
    2. 航続距離
  6. ぶっつけ本番の問題児 怖いが強い一式戦闘機
  7. 一式戦闘機「隼」二型
    1. 増槽の更新と設計変更
    2. 攻撃力・防御力
  8. 一式戦闘機「隼」三型
  9. 計画された「隼」派生型
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。


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一式戦闘機「隼」二型

繰り返しとなりますが、【一型】はプロトタイプの改良型にすぎず、従って【二型】は絶対に完成させなければならない、本来の【隼】の姿でした。
1941年6月26日の打ち合わせでは、武装の強化は当然として(各270発)、照準器の変更や風防の曇り改善、角型になった天蓋の再改善などが求められ、その後も【一型】で次々と明らかになる問題の根本的な解消が加わっていきます。[3-P123]
またエンジンの換装に関しては第二案の評価の段階から検討されていて、それも【二型】で結実しています。

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エンジン・コックピット

エンジンは二足過給機付きの1,150馬力「ハ115」に換装されました。
当初想定されていた「ハ105」は問題が多かったことは先述していますが、「ハ115」は二速過給機が追加された改良版で、こちらの方がもちろん性能は上です。
速度はこのエンジン換装で515km/h(環型潤滑油冷却器搭載時)となり、さらに排気管を推進式(機体に排気が沿うような形状)にしてからは536km/h(高度6,000m)、単排気管とした末期型では548km/h(高度6,000m)まで向上しました。[3-P134、P137]
エンジンを換装していないのに、515km/hから548km/hまで向上するのですから、摩擦がいかにエネルギーを殺しているかがよく分かる事例です。
実用中では南郷茂男大尉の日記の中に【二型】は軽く550km/hは出る」と記しており、快適な飛行ができたようです。

エンジンが変わったことにより機首形状も変わり、具体的にはエンジンの構造が昇流式から降流式になったことに合わせて空気取入口が上部へ移動、カウリングの肥大、潤滑油冷却の容量不足を補うためにカウリング下に小型の補助冷却器を設置するなど、ぱっと見で分かる変更点がいくつもあります。

ただ「ハ115」も同様に扱いが難しく、従来の環型潤滑油冷却器と「ハ115」では相性が悪く、中島製の機体は早くもデビュー直後の1943年3月には補助冷却器もなくして全く新しい蜂巣型冷却器に置き換わり、立川飛行機製も9月までには新冷却器に変更されています。[3-P48]
ちなみに蜂の巣というのは幾何学模様のことではなく、蜂の巣の入り口のような形という意味で、この冷却方式も【零戦】に倣ったものとなります。

コックピット周りでは、風防の断面が曲線になったほか、機体前部の形状変更に配慮して座席が若干高くなっています。
他に標準器がのぞき込む眼鏡式の八九式射撃照準器から光像式の一〇〇式射撃照準器(ドイツのRevi-2b射撃照準器を参考、三式が誕生するまで使われた)に変更され、これでわざわざ狙いをつける時に身体を前に押し出すという無理な姿勢を取らなくて済むようになりました。
ちなみに【三型】では三式射撃照準器に置き換わっています。

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増槽の更新と設計変更

太平洋戦争の開戦に伴い多くの機体が続々と戦場に現れるようになりますが、運用のネックになったのが共有性の低さです。
Aの機体にしか使えない部品が大量にあるのに、肝心のAはほとんどおらず、逆に部品不足でBが飛べない状態になっている、こんな馬鹿馬鹿しいことはありません。
陸軍は海軍に比べると量産性や規格統一で先を行っていましたが、【二型】量産の途中で増槽が各機体で統一されました。
増槽は慢性的に数が足りておらず、これではせっかくの長航続距離も看板倒れです。
またかさばる上に消耗品なので補給も一苦労でした。
増槽が足りないから片方だけ乗せて飛ばすことも普通で、あわよくば回収するために落下予定地まで予め計画されていました。[3-P50]

他の戦闘機と共有できるようになった増槽を「統一型」と称し、それに対して【隼】専用の増槽対応機を「専用型」と振り分けていました。[3-P49]
もちろん、どこに「専用型」が配備されてどこに「統一型」が配備されているか管理できないと、増槽の補給が無意味になるためです。
また同じ規格ではあるものの、増槽も木+合板製と竹+和紙製の2種類が存在しました。
それぞれ増槽には「木」「竹」とわかりやすくマークが刻まれています。[3-P68][3-P80]

「専用型」は必然的に古い機体にあたりますので、「統一型」対応の新機体が送り込まれると同時に、補給や管理の足かせとなる「専用型」は日本へ送還されるようになります。
1944年夏ごろには「専用型」は訓練や爆撃用(統一型懸架装置は250kg爆装可)に使う形で棲み分けが行われました。
ただ爆弾懸吊架を搭載した「専用型」の場合、25km/hも速度が落ちると飛行第六十四戦隊の上田厚志大尉の日誌にあり、かなりの空気抵抗があったことが想定されます。[3-P64][3-P126]

翼にも大きな変更が見られます。
翼の長さは両翼とも30cm減らされて10.84mとなりました(初期の一部の機体のみ変更なし。中島5154号機より実施)。[3-P128][4]
また中島5084号機からは昇降舵がそれぞれ110mm短縮され、その代わりに水平尾翼が大きくなっています。[3-P128]
これらはいずれも降下制限速度を上げるため、この変更により550km/hだった制限速度が600km/hにまで増加しました。

一方で全備重量が62kg増えて2,642kgとなったため、翼面荷重も124.6kg/㎡に増加。
これは【零戦】でもそうですが、エンジンの換装は高速化を狙うものですから、翼面荷重の増加は必然とも言えます。
同様に速度アップのためにプロペラも2枚から3枚に増えています(長さは2.9mから2.8mに変更)。

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攻撃力・防御力

速度と同じくらい求められていた武装強化については、設計上どうしても【隼】の機体ではできない相談でした。
主翼構造が3本主桁構造の【隼】は隙間の余裕がなく、7.7mmも収まらない翼に12.7mmや20mmが収まるはずもありません。

一方で防弾性については向上しており、【一型】の7.7mm機関銃対応型の自動防漏タンクは12.7mm機関砲対応型に更新され、さらに途中から座席後部にも防弾鋼板が貼られるようになりました。
防弾鋼板は12mm×3層で構成され、重量は48kgです。

新しい防漏タンクは鹵獲した【B17D】搭載のタンクが参考にされていますが、アメリカの内装式タンクは日本では造ることができなかったため、9mmのゴムを2mmの耐熱ゴムで挟んだ3層ゴムで覆う形となっています。
このタンクは【疾風】に搭載されているものと同じで、タンクの厚みが増したことで燃料搭載量は第一タンクが16ℓ、第二タンクが20ℓ減っています(旧型のタンクは主タンク・補助タンクと呼んでいます)。[3-P137]

後期型では加えて70mm防弾ガラスや自動消火装置も取り付けられるなど、かなり人命を守るための配慮がなされています。
実際にこの防弾性能は高評価であり、【零戦】が人命軽視の象徴として語られるのとは正反対です。
先に少し紹介済みですが、増槽の代わりに最大250kg爆弾を2発搭載することが可能で、戦争末期では飛行第三十一戦隊、飛行第六十五戦隊などが実際に爆弾を搭載して攻撃を行っていて、その爆弾も通常爆弾からクラスター爆弾、焼夷弾と様々です。
1945年2月11日に「ラムリーの戦い」【英P級駆逐艦 パスファインダー】【隼】の爆撃で大破させています。

試作機は1942年2月から5月までにかけて5機、さらに6月から8月にかけて3機造られ、量産1号機は11月に完成。
仮制式採用が1941年4月末ですから、すでに【一型】が飛行しているにもかかわらず試作機完成までに10ヶ月かかっていることからも変更点の多さが伺えます。
その後【二型】は1943年2月ごろから徐々に戦場に姿を現し、量産が進むにつれて【一型】から置き換えられていきました。

特に【二型】やのちの【三型】で敵が恐れたのは、格闘性能をより高めることができた加速力でした。
日本はついに高高度での高性能機を開発することはできませんでしたが、低空では抜群の加速力や運動能力を持っていて、特に低速からの加速力では馬力の差なんてお構いなしに、あっという間に敵機を引き離してしまうほどでした。
なので不意打ちに対処できる能力が高い上に、ともすればそこから一気に高い運動性を活かして後ろに回り込んだりもできてしまいます。

この性能に対して連合軍は、低速時に不用意に攻撃を仕掛けないこと、攻撃をするなら急降下性能が劣っているから高い高度から突っ込んで降下しながら逃げることと戦い方を説いています。
そして当然ながら格闘戦に持ち込まないこと、持ち込ませないこと。
こう見ると対処方法は【零戦】と全く同じなのがよくわかります。

【隼】はビルマなどでの対英戦闘では【疾風】が配備されるまで十二分に役割を果たし続け、【スピットファイア】各型や【P-51】【P-38】とも死闘を繰り広げています。
一方で太平洋戦争の最前線であるソロモン諸島などでも、アメリカの反抗が増す中でも【零戦】と共同でこれに立ち向かっています。
【零戦】が手を焼いていた【B-17】を、武装で劣る【隼】が撃墜した記録も複数あり、1942年末までは【隼】はよく戦っていました。

しかし数的劣勢は単に機体の数だけでなくパイロットの数にも影響し、こっちは寝る間も惜しんで出撃しているのに、向こうは交代制でしっかり休養を取れたりと、戦闘環境は日本の不利が鮮明になっていきました。
それに加えて昭和18年/1943年に入ると敵側も新型機を太平洋に送り込んできます。
新型機と言っても【二型】のように性能アップ版が多いのですが、性能の上がり方が日本とは段違いです。
もちろんいずれも【隼】よりも速度に優れ、【隼】は接近戦でない限りは常に不利な戦闘を強いられました。

【隼】がどれだけ強くても全体的な戦況の悪化はどうにもなりません。
それに爆撃機の護衛についた時は、急降下で攻撃を仕掛ける敵戦闘機を【隼】では捉えきれないので、【隼】が負けなくても護衛の爆撃機がどんどん火を噴くなど、かなり苦しい立場に立たされます。
他にも補給路が妨害されたり航空施設が破壊されたりと、戦闘その瞬間ではなく運用全体で【隼】は劣勢に立たされていきました。
対する連合軍は大量に戦闘機や爆撃機を送り込んでくるため、ここまでくると数の差イコール結果となってしまいます。

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一式戦闘機「隼」三型

1943年12月、【隼】は再びの強化辞令を受けます。
手っ取り早く速度を上げるために、エンジンは「ハ115」エンジンに水メタノール噴射装置を搭載した「ハ115-Ⅱ」とし、燃焼効率を上げて最大30km/hの速度アップを狙うというものでした。
日本は質のいいガソリンの入手手段に困っていたため(良い環境ではオクタン価100のガソリンが使えていた)、同じエンジンを使うならガソリンの燃焼効率を上げるしか方法がなかったのです。
空冷式のエンジンは液冷式に比べると冷却力が劣るため、メタノールをシリンダー内に噴射してエンジンルームの温度を下げようとしたわけです。
この水メタノール噴射式は【隼】だけでなく大戦後半の機体で多く見られます。
【隼】の場合は水メタノールタンクも燃料タンク同様に自動防漏タンクでした。

この改良によって馬力は1,300馬力にアップ。
【二型】を改造した【三型】試作機の試験飛行では、高度6,000mで568km/hを発揮し、改良の成果はバッチリでした。[1-P233]
単排気管と水メタノール噴射装置の組み合わせで最大速度は560km/hとなりましたが、水冷式のイギリス空軍や2,000馬力のアメリカ軍が発揮している600km/hという速度には敵わず、鈍足から劣速になったぐらいの違いではありました。[3-P138]

ですがこの水メタノール噴射装置はよく不具合を発生させており、また整備できる人員も少なかったことから、高評価を受ける一方で稼働率の低下を招いてしまいました。
【三型】が届いてもこの不具合を恐れて以下の単排気管の【二型】に乗ったという記録もあります。
実験の段階(気化器と翼車の両方式の実機実験)ですでに振動や油圧上昇、排気管の亀裂などの問題が発覚していて、解消に時間がかかっています。[3-P133]

エンジンに関する変更では、排気口が集合型から推進型を経て単排気型に変更されています。
単排気管というのは、星型エンジンの各シリンダーから発生する排気をひとまとめにせず、ある程度最短距離で個々のシリンダーに直接排気口を繋げて排気するものです。
なので排気管がカウリングの付け根部分から何本か飛び出しています。
これまではたくさんの機関を積んだ船の煙路が1本にまとめられて大きな煙突が立っていたのが、機関の数だけ小さい煙突が生えたようなものです。

これにはどのようなメリットがあるかというと、1本1本の排気が推進力となって速力が上がる、ということではなく、排気が機体にまとわりついて一種の膜のような役割を果たし、空気との摩擦を軽減させて結果的に速力アップにつながる、という役割のようです。
また各シリンダーから煙路をつなぐ必要もなくなったことから、カウリングの製作も多少楽になりました。

【三型】は全てこの単排気管式となったのですが、【二型】の最終期(およそ60機)からすでに単排気管は採用されているため、エンジン周辺の形状だけでは【二型】最終型と【三型】の判別は難しいです。[3-P128]
しかも初期の【三型】は生産遅れの関係から【二型】用の単排気管が使われているので、他の要素から判別するしかありません。[3-P61]
ただ、【二型】の推進式単排気管は現地に【三型】のカウルフラップや各部品を取り寄せて交換をしたケースも多く(400機ほど)、約60機は【二型】生産時からの数字、約400機は現地改良の数字と分けた方がいいのかもしれません。[4]
両者の明確な違いはメタノール噴射装置の有無なので、見分ける手段は風防後部に追加されたメタノール投入口の有無が一番はっきりします。[1-P234]
細かいながらもカウリングの違いはあるのですが、解像度をよくしない限りは簡単に見分けることができませんので、ぱっと見の判断は難しいと思います。
また【二型】の排気管は片側が2本まとめて1本+3本+2本の計6本、3型はまとまらず計7本であるため、少なくとも【三型】の初期型か量産型かの判別は容易だと思います。

【三型】は新たに3機の試作機が製造されましたが、中島は【疾風】の量産に手一杯だったので、【三型】の量産は立川飛行機が一手に担っています。
立川飛行機は昭和19年/1944年7月から【三型】の製造に携わり、終戦までに【二型、三型】合わせて約2,500機を製造しました。
これは6,000機近く製造されている【隼】の4割強になりますから、立川飛行機様々です。[1-P234]
またエンジンの「ハ115-Ⅱ」も川崎航空機が引き受けることになり、中島の色は図面にしか残っていません。
この時期は【疾風】がメインだったにもかかわらず、【隼】は量産性の高さとメンテナンスが簡単、【疾風】以外の戦闘機が抱える諸問題、そして決して弱くはない性能と、いろんな意味で便利だった【隼】は1945年に入っても【三型】の製造が続けられています。

1944年に入って、明らかに【隼】の性能は敵機に劣るようになってきても、【隼】はまだ活躍し続けます。
【零戦】もそうですが、抜本的な改修も受けていないにもかかわらずこの2つの戦闘機は、どれだけ航空優勢であっても油断のならない相手として連合軍を苦しめたのです。
特に【三型】に至ると防弾性能が高い上に、【零戦】よりも機銃口径が小さい以外の諸能力を上回っていましたから、舐めた動きをすると次の瞬間には撃墜されていることもあるのです。
パイロットたちも【三型】の性能と耐久性に救われたと口々に言い残していて、終戦時ですら現場に好まれていた旧式戦闘機と考えると、改良して現場に投入し続ける価値は確かにあったのでしょう。

しかし戦争全体の流れはどうあがいても押し戻せません。
1944年末にはついに【隼】も特攻機としても使われるようになってしまい、華々しい【隼】の活躍の時は終わろうとしていました。
それでも「沖縄戦」や本土防空などで一部活躍したほか、あの「占守島の戦い」でも【隼】は北海道絶対死守のために戦いに参加しています(配備数僅かで戦果そのものはありません)。

そして終戦してからも【隼】は異国の地での仕事がまだ残っていました。
現地に残された【隼】はその国の軍の航空機として配備され、例えば「第一次インドシナ戦争」ではフランスが、「インドネシア独立戦争」ではインドネシアが使用しています。
特に「インドネシア独立戦争」は対オランダ、対イギリス戦争で、イギリスは戦争が終わったのにまた【隼】と戦いをする羽目になっています。

【隼】は総生産数が5,751機と記録され、これは陸軍最多、帝国軍全体でも【零戦】に次いで2位の生産数です。
旧式でありながらも終戦まで奮戦した【隼】は、開戦とほぼ同時に誕生した戦闘機であるにもかかわらず、ついにアメリカ戦闘機に1対1で確実に負けるような機体になり下がることはなく、【零戦】に比べて強靭であることも含めて最後まで厄介な存在であり続けました。

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計画された「隼」派生型

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三型乙・四型構想

【隼】の歴史は【三型】で終わりを告げますが、その後には【三型乙】【四型】という研究もおこなわれていました。
まず【三型乙】と称されるものは、機関砲をついに「ホ5/二式20mm固定機関砲」に換装するという案でした。

当時は【キ87】【キ94】の開発が遅れる中、近いうちに日本を火の海にするであろう【B-29】の対策機を急いで用意しなければなりませんでした。
昭和19年/1944年6月、この手段として【三型】【キ46/一〇〇式司令部偵察機】らを改造して高高度戦闘機とする議題が上がっています。
【一〇〇式司令部偵察機(新司偵)】に関してはいわゆる【武装司偵】に該当するこの案ですが、逆に【新司偵】以外にはこの役目を追うのは荷が重すぎました。
いずれも10,000m前後の高度での飛行に適していないからです。

【三型乙】はこの対策として長年足を引っ張ってきた「ホ103」をようやく20mm機関砲に置き換える改造が決まります。
ここまでできなかった改造を強引に行っているため、機関砲と弾丸の重量、バルジの搭載、機関砲の長さによって機首部分が一気に重くなります。
なのにエンジンは「ハ115-Ⅱ」のままなので、圧倒的にパワー不足でした。
それでも試作機2機(1機は7884号機)を造っていて、特攻も始まる昭和20年に入ると不要になってしまい計画は頓挫しました。[3-P70]

続いて【四型】ですが、これは単純に【三型】よりも高性能の機体を目標に計画されたものです。
エンジンを三菱の「ハ112-Ⅱ」へ換装するのが【四型】の主要な変更点でした。
ここで同じ中島の「誉」にあたる「ハ45」を選ばなかった理由はやはり信頼性の低さでしょうか。

計画が進むにつれて、金属不足に対応するために後部胴体を木製にするという案も後に浮上しています。
木製の機体は実際に【キ106】が少数製造されたり、【キ115/剣】が木材を材料の一部に使用するなど、実機として存在しており当時の窮状がはっきりわかります。

そしてその窮状というものが【四型】の未来を閉ざしました。
1944年11月、もう本土決戦は時間の問題になってきたときに、試作機や計画機の一斉整理が始まりました。
時間がかかる計画なんて捨てて、早急に実現できる計画に集中させるためであり、これによりエンジン回りなど大掛かりな設計変更が必要になる【四型】は整理対象となってしまいました。[3-P135]

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艦上戦闘機【隼】

【隼】はもちろん陸上戦闘機なので艦載機運用はできませんが、船からの発艦を2度計画しています。
1つは革新的な輸送揚陸艦である【あきつ丸】をはじめとした上陸用舟艇からの発艦、もう1つが空母からの発艦です。

上陸用舟艇からの発艦に関しては開戦前の1941年8月に検討され、【隼】の他【九七式戦闘機】【キ36/九八式直接協同偵察機】です。
しかし本家の海軍に相談したところ、甲板面積も船も小さいから、ちょっとでも波が強いと船が揺れて無理だろうと言われてしまい、この計画は幻に終わってしまいます。[3-P130]

もう一方の空母運用ですが、これは本家本元の海軍が持つ空母から発艦するためのもので、実際に着艦フックを50機の【隼】に取り付けています。
ただこれも改造が完了したのが1944年9月ということで、飛行機が増えるのはありがたいけど機動部隊は死に体の時期でした。
またこの計画に海軍がどれだけ噛んでいたかもわからず、結局この後改造機がどうなったのかはわかっていません。[3-P130]

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参照資料

Wikipedia
ニコニコ大百科
[1]戦闘機「隼」 著:碇 義朗 光人社
[2]零戦と一式戦「隼」完全ガイド 著:本吉隆 野原茂 松田孝宏 伊吹秀明 こがしゅうと イカロス出版
[3]一式戦闘機「隼」航続力と格闘戦性能に秀でた対戦闘機戦のスペシャリスト 歴史群像太平洋戦史シリーズ52 学習研究社
[4]一式戦闘機「隼」研究所
[5]WW2航空機の性能:WarbirdPerformanceBlog