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『一等輸送艦(第一号型輸送艦)』(特務艦特型)
【No.1-class landing ship】

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基準排水量1,500t
一番艦竣工日【第一号輸送艦】
昭和19年/1944年5月10日
同型艦数21隻竣工、1隻未成
水線長94.0m
全 幅10.20m
最大速度22.0ノット
航続距離18ノット:3,700海里
馬 力9,500馬力

装 備 一 覧

主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
機 銃25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 4基4挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 2基
艦本式ギアード・タービン 1基1軸
電探・ソナー22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基(1945年以降残存艦増備)
九三式水中探信儀 1基
九三式水中聴音機 1基
その他爆雷 18個
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強行輸送任務必至 高速輸送艦は誕生が遅いという最大の失態

大艦巨砲主義からの脱却をすることができなかった帝国海軍。
それと同時に脱却するのが大幅に遅れたことがあります。
それは輸送軽視でした。

陸軍はそこまで軽視はしていませんでしたが、しかし陸軍の輸送には大きな障害、海があります。
どれだけ陸軍が精強で向かうところ敵なしの無敵の部隊であっても、兵站がなければ継続した戦闘は不可能です。
そのために要所要所で補給拠点とそこへの物資輸送ルートを確保していくのです。
ですが現地ですべての補給物資を確保できる保証はどこにもありません。
特に兵士や弾薬、兵器などはほとんどが日本から輸送されるわけですから、本土戦でない限りは海上輸送は必須なのです。

それは海軍も同様で、海軍陸戦隊はもちろん、海上で戦う船の補給などももちろん輸送が必要です。
ですが「砲撃と雷撃で敵艦隊をぶん殴って大勝利を収めるのが海軍 他は取るに足らない任務」という風潮が根強い海軍にとって、輸送ないし輸送妨害は、必要ではあっても重要ではなかったのです。

その象徴的な出来事が「第一次ソロモン海戦」「サマール沖海戦」です。
「第一次ソロモン海戦」は本来敵の上陸部隊を態勢が整う前に攻撃して出鼻をくじく作戦でしたが、その手前の警戒隊をボロボロにした後は輸送船団を無視し、空襲を恐れて撤退しています。
「サマール沖海戦」では「敵艦隊が出てきたら輸送船団よりも艦隊を優先していい」という約束を取り付けており、この国家存亡の危機においてもまだ水上戦で戦果を挙げることが最重要とされていました。

さて、このように輸送の優先順位をとことん下にしていた海軍ですが、莫大な人命を失ってからようやく輸送対策に乗り出します。
「ガダルカナル島の戦い」で、日本は度重なる通商破壊によって陸軍への輸送が途絶。
鈍足の輸送船を乏しい対空装備の駆逐艦で守るも両者ともに被害を受け、挙句輸送も満足にできない。
止む無く輸送量の大幅減を受け入れた駆逐艦だけの輸送、鼠輸送と、潜水艦によるモグラ輸送で場を凌ごうとしますが、速度は速くても空襲に対抗できる能力が足りない鼠輸送は大した効果もなく、また敵艦雷撃のための潜水艦も駆逐艦以上に搭載量が少ないうえに、陸近くで哨戒機、哨戒艇などに発見されるリスクも高く、つまりは何の解決にもなりませんでした。

ここでようやく、ようやく海軍は高速で空襲、潜水艦にもある程度対抗できる輸送艦の建造を決意しました。
時は昭和18年/1943年夏。
すでにガダルカナル島奪還には失敗し、南方諸島の制空権、制海権はアメリカの手に落ちていました。

計画されたのは二種類の輸送艦です。
1つは「二等輸送艦(SB挺)」、そしてもう1つがこれから紹介する「特務艦特型(特々)」、一般的に「一等輸送艦」と呼ばれる輸送艦です。
この2つの輸送艦の責任者である造船部作業主任には西島亮二造船中佐が就きます。
【大和】の建造に絶大な貢献をした彼の能力は、短工期量産が求められる今回の仕事にはうってつけでした。

当時海軍の艦船では輸送を意識した艦艇はごく僅かで、だいたいは輸送船、また水上機母艦などが輸送を兼任したり、旧式の駆逐艦が哨戒艇へと転じた際に【大発動艇】などの搭載が可能なように改造されている程度でした。
もちろん輸送船の自衛装備なんてゼロじゃない程度で、基本的に輸送船は護衛を受けて目的地へ向かう船でした。
ですが今回の輸送艦は戦場を強行突破するためのもので、これまでの輸送とは全く異なる運用のための船でした。

「一等輸送艦」【大発】4隻、補給物資250~300tほどの搭載能力を持ち、【大発】の代わりには「特二式内火艇」を7両搭載することも可能でした。
さらに全長13mの【中発動艇】1隻や甲標的の搭載も可能で、これらの舟艇は艦後部に設置されたスロープからそのまま海に泛水(へんすい=船艇を水上に発進させること)させてスムーズに揚陸できるような設計になっています。
「一等輸送艦」の便利なところは、それを停止せずに行えたことでした。
もちろん戻ってきた舟艇の回収用にデリックも3基搭載されています。

【第二号輸送艦】 艦尾が下がってそのまま発進できる形状なのがわかる

一等輸送艦の艦尾 このスロープに大発などを載せて泛水させる

重要な速度は最大22ノット。
一般的な輸送船の速度は10ノット前後のため、まずこれまでの倍以上の速度が発揮できました。
装備はこれまで護衛艦としてついていた駆逐艦にも勝り(元が弱いので)、22号対水上電探1基、機銃も25mmが15挺とそれなりに強化されています。(計画含めて時期によりかなり変化が大きい)
単装機銃は一部がスロープ付近に設置されていたため、これらは移動式になっていて、場合によっては【大発】に搭載することも想定されています。

「一等輸送艦」は対潜装備のほうがより強化されていて、九三式水中聴音機二型と九三式水中探信儀改一が1基ずつ、また攻撃用の二式爆雷も乱発はできませんが18個が竣工時から搭載されていました。[1-P382]
残念ながら聴音機、探信儀の性能は必ずしも良好ではありませんでしたが、併用することでそれなりの効果は発揮していたいようです。

「一等輸送艦」の功績にはブロック工法の全体的な採用があります。
西島中佐が管理した「大和型」の建造では、防御や強度に影響のない一部の個所でブロック工法が採用されたことはありましたが、船全体をブロック工法で建造したのはこの「一等輸送艦」「二等輸送艦」が最初といわれています。
この技術はのちの量産型海防艦や波号潜水艦、小型舟艇などで積極的に採用され、遅きに失したものの、日本の建造技術に大きく貢献した工法でした。

またブロック工法による最適なブロックの分割、作業の合理化単純化を見極めるために、実寸大の模型を「二等輸送艦」と合わせて製作されています。
民間の造船所でも難なく造れる設計であり手順でなければとても量産なんてできないので、この模型を使って今でいうマニュアルを作成するわけです。
「一等輸送艦」の模型は呉海軍工廠内に建設されたそうです。[2-P367]
第一号完成は昭和19年/1944年5月とかなり遅いのですが、起工から6ヶ月で完成しており、その後はだいたい3~4ヶ月という短工期で竣工を成し遂げています。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

出典:『続・鳶色の襟章』

しかし1944年となると遠方の制空権はほぼアメリカが占めており、また日本の航空機も数が少ないことから、辛うじて守れている制海権にもしょっちゅう航空機が飛んできては空襲を繰り返していました。
そのため「一等輸送艦」は護衛の海防艦らとともに、どこに輸送に向かってもこの空襲と隠密行動中の潜水艦の危機に晒されることになります。
覚悟していたこととはいえ、想像以上に沈没の危険性が高い海域に連れ出されることになるのです。
いくら対空機銃が一時よりも増備されたとはいえ、空襲と雷撃を常に警戒し、そしてそれを無事に突破するのは奇跡的なものでした。

21隻竣工のうち、1年3ヶ月のうちに16隻が沈没しています。
「一等輸送艦」には学徒出陣の予備少尉なども大した訓練を受けないまま乗組員として参加されていたりと、人手を搔き集める必要がある、しかし任務は決死のものばかりと、戦争末期の日本がいかに悲惨な状況であったかを象徴する船とも言えます。

生還した6隻の「一等輸送艦」のうち、1隻は終戦後に座礁して沈没しています。
残り5隻は復員船として活躍し、さらに4隻は食糧不足の日本を救うための捕鯨任務についています。

参照資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]続・鳶色の襟章 著:堀元美 原書房