起工日 | 昭和15年/1940年5月30日 |
進水日 | 昭和16年/1941年2月14日 |
竣工日 | 昭和16年/1941年12月5日 |
退役日 (除籍) | 昭和20年/1945年11月30日 |
建 造 | 川崎造船所 |
公試排水量 | 11,100t |
全 長 | 152.0m |
全 幅 | 19.0m |
最大速度 | 17.5ノット |
馬 力 | 8,300馬力 |
装 備 一 覧
昭和16年/1941年(竣工時) |
主 砲 | 45口径12cm連装高角砲 2基4門 |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼6基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 | |
補給物資 | 真水1,000t |
25,000人14日分の食料 |
高煙突が特徴の伊良湖 リタイヤは間宮よりも早く
大正13年/1924年に【間宮】が竣工して以降、給糧艦の役目は一手に【間宮】が担ってきました。
理由は当然、他に給糧艦が存在しないからです。
この問題は長らく議論されていましたが、戦力増強が優先されたためになかなか実現していませんでした。
ようやく要望が叶うのが昭和13年/1938年の「マル3計画」の追加艦艇としての建造許可。
2隻目の給糧艦は【伊良湖】と命名されました。
建造は【間宮】を担当した神戸川崎造船所となりました。
【伊良湖】は【間宮】のような大型艦にはならず、排水量も半分以下の5,000tで要求されました。
しかし他の要望として
・25,000人×20日分の食料搭載
・最高速度20ノット
という項目があり、これらをすべて満たすことは不可能でした。
結局妥協されて、
・排水量 公試8,000t
・最高速度18ノット
という数値に落ち着くことになります。
しかし話が再び拗れる事態が発生しました。
使用する燃料の問題です。
当初は他の艦艇同様石油を燃料としていたのですが、【間宮】建造時の時とは違い、今は燃料となる石油はできるだけ節約しなければならず、戦闘に直接関与しない艦艇については石炭を燃料とすることが決められたのです。
これにより、排水量が再び増加。
結局【間宮】とほとんど変わりのない11,100tとなってしまいました。
更に速度も0.5ノット減少した17.5ノットへ、また最も重要とも言える食料搭載量も、1週間減となる25,000人に対して14日分に留まってしまいました。
石炭使用の艦艇になったことで、設計にも変更が出ています。
石炭燃料の場合、排煙には煤が含まれます。
食料を積む【伊良湖】なのに、異物が食料に降りかかるようなことは避けねばなりません。
そのため、煤の危険を防ぐために煙突の直径がとても大きくなりました。
これは排煙を含む煙突内の空気の流れを遅くすることで、煤を滞留させて次々に空中へ飛び出さないようにするためです。
また、煙突の長さも非常に長くなり、水面から約28mにもなりました。
これは煤が出ても風で流されるようにするためです。
しかしこの対策には、敵艦から見つかりやすくなるという危険性が放置されたままでした。
設計面では他にも艦首形状が【間宮】と違います。
【間宮】の艦首は垂直となっているクリッパーバウですが、【伊良湖】の艦首はダブルカーブドバウです。
これは後期型の巡洋艦に多く採用された形状でした。
さて、肝心の食料についてですが、こちらは14日分に減ったとは言え、なんとかしてそれ以上の食材を積めるように努力がなされています。
例えば牛や豚肉などは19日、魚は18日ほどなど、当初の数字に限りなく近い搭載量を実現しています。
冷蔵庫も最新のものを装備し、冷凍庫や製氷機も設置されていました。
【間宮】で人気だった羊羹を始め、お菓子やラムネ製造も当然可能で、飲み物や酒保に出される食料も数多く生産することができました。
変わったものでは、漬物を作ることもできたそうです。
洗濯も1日で400着の衣類が洗える巨大な洗濯機を用意し、アイロン室(火熨斗(ひのし)室と言うそうです)も併設されていました。
そして【間宮】の裏の顔でもあった無線監視艦の役割もしっかり担っており、受信機を30基も搭載して監視にあたっていました。
またデリックに関しては、前部10t、後部20tに加え、2t用電動ジブクレーン8基も搭載しており、15tと20tが1基ずつだった【間宮】よりも柔軟な対応ができる装備でした。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
さて、【伊良湖】竣工に安堵する暇もなく、たった3日後にはいよいよ太平洋戦争が勃発します。
【伊良湖】も諸任務が次々と舞い込んできて、昭和17年/1942年1月から早速南方海域と日本の往復がスタートします。
特に重要拠点となっていたトラック島と呉や横須賀の往復は多く、【間宮】とは違うエリアを任されていました。
しかし昭和19年/1944年になってくると、どこの海域でも敵の襲撃が発生するほど日本は窮地に立たされることになり、南方海域にやってくる【伊良湖】にも遂にその魔手が伸びました。
ここまでなんとか無事に航海をしてきた【伊良湖】でしたが、1月20日、本土へ帰る途中のトラック島北方で【サーゴ級潜水艦 シードラゴン】の魚雷が直撃。
艦首に魚雷が直撃した【伊良湖】は、その艦首がじわじわと沈んでいき、あわや沈没というところまで追い込まれますが、なんとか踏みとどまることに成功。
幸い追撃はなく、【伊良湖】は救援に来た【涼風】らに護衛されてひとまずトラック島へ戻ります。
その後、2月14日に【伊良湖】は他の輸送船とともに「四二一三船団」を編成し、護衛艦とともに無事本土に帰投することができました。
当然すぐに修理に取り掛かることになりました。
被害は大きかったため、修理完了は8月になってしまいますが、復帰後は再び暗雲立ち込めるフィリピン方面へと出発します。
もはや最後の要所となってしまったフィリピン一帯は、いかに危険であってもそこに拠点がある限りは出向かなければならなかったのです。
そしてアメリカもまた、この最後の要所を陥落させるべく、着々と戦力を固めていました。
9月21日、危惧していたとおり、フィリピンのマニラがアメリカによる空襲にさらされることになります。
大規模な空襲相手に、ここまで旧式艦ながら大奮闘をしてきた【皐月】が沈没。
他にも多数の輸送船などが損傷、沈没する中、【伊良湖】は【皐月】の乗員を救助しつつ、なんとかコロンまで脱出することに成功します。
しかしアメリカの襲撃は執拗なもので、次から次へと空から爆弾が降り注いでくるのです。
24日、そのコロンにもアメリカ航空機が群がり、【伊良湖】は少ない機銃で応戦するものの大破。
同時に着底してしまった【伊良湖】は、その惨状から曳航できる船もおらず、最終的には放棄が決定されてしまいます。
3ヶ月後には【間宮】も沈没し、たった2隻の給糧艦の歴史は、日本の敗北が決定的となった「レイテ沖海戦」の前後でともに幕を下ろしたのです。