占守型海防艦【占守】 |
起工日 | 昭和13年/1938年11月29日 |
進水日 | 昭和14年/1939年12月13日 |
竣工日 | 昭和15年/1940年6月30日 |
同型艦数 | 4隻 |
次 級 | 択捉型海防艦 |
基準排水量 | 860t |
全 長 | 78.0m |
全 幅 | 9.1m |
最大速度 | 19.7ノット |
馬 力 | 4,200馬力 |
装 備 一 覧
主 砲 | 45口径12cm単装砲 3基3門 |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
主 機 | 22号10型ディーゼル 2基2軸 |
その他 | 九四式爆雷投射機 1基 |
爆雷投下台 6基 | |
爆雷 18個 | |
掃海具 |
駆逐艦よりも偉い 護衛艦の魁 占守型海防艦
数多くの軍艦や駆逐艦を要し、世界第二位の海軍大国までに上り詰めたかつての日本。
しかし日本が保有していた船はこれだけに留まりません。
例えば潜水艦。
これは日本だけではなくアメリカも、そして何と言ってもドイツのUボートなど、各国が膨大な数を建造し、通商破壊や奇襲などで大いに活躍しています。
また魚雷艇も、占領地近海の警護やさほど遠方にまで出ることがない時の護衛として重宝されてきました。
そして海防艦。
読んで字のごとく、「海上を防衛する艦」です。
海防艦は護衛艦の一種になりますが、海防艦を「建造」し始めたのは実は結構あとの話で、純正海防艦が誕生したのは昭和15年/1940年の「占守型海防艦」が最初になります。
海防艦の役割は、この「占守型」誕生の前後で大きく異なります。
まず、「海防艦」という名称が使われるようになったのは明治31年/1898年3月で、「海軍軍艦及水雷艇分類標準」と言うものが制定されます。
海防艦は軍艦の中に「海防艦3級等」として規定されました(やがて等級は廃止されます)。
この時の海防艦は、大雑把に言うと「一線を退いたがまだまだ働けるベテラン」のための役職のようなもので、いわゆる旧式艦艇の多くが分類されました。
艦隊行動は最新式に随伴できないが、近海沿岸の不穏分子を排除する力は持っている船を海防艦として活用したのです。
この海防艦には戦艦も入り、前分類に関わらず一括して「海防艦」扱いでした。
しばらくはこの扱いが続いた海防艦でしたが、昭和に入ると北方海域ではソ連と日本での漁船の小競り合いが目立つようになり、漁業権の争いが表面化してきました。
日本はこの争いで漁船の護衛として駆逐艦を派遣していましたが、駆逐艦は漁船護衛の船ではありませんから、あまりにも過剰なものでした。
コストは当然かかりますし、この頃の日本は別に船に余裕があったわけではありません。
加えて耐寒対策が取られていない駆逐艦がオホーツク海などに出向くと、その後のメンテナンスにも慎重にならざるを得ません。
端的に言うと割に合わないのです。
一方、世界では軍縮の風が吹いており、「ワシントン海軍軍縮条約」に引き続き、「ロンドン海軍軍縮条約」が締結され、より各国の軍艦保有数に制限がかけられることになります。
ここでは空母も言及された他、駆逐艦も細かく制限されました。
この背景には日本の「特型駆逐艦」の登場があったのですが、その影響でいわゆる艦隊型駆逐艦の量産ができなくなっただけではなく、「駆逐艦」籍の船そのものにも制限がかけられたのです。
北方に出ていた駆逐艦も当然、旧型ですが駆逐艦籍です。
制限がある中、漁船を守るためだけに貴重な枠を使ってしまう訳にはいきませんでした。
この2つの関係があり、「ロンドン海軍軍縮条約」に抵触しない護衛艦が必要となってきたのです。
艦艇保有無制限の条件は、「排水量2,000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦」(海防艦の場合はこの条件をクリアすればいいですが、特務艦はもっとゆるい制約です)で、これをクリアする海防艦の建造をすすめることになります。
しかし予算取りには時間がかかりました。
昭和6年/1931年の「マル1計画」でも、昭和9年/1934年の「マル2計画」でも承認は下りず、昭和12年/1937年の「マル3計画」でようやく新型海防艦の建造が認められました。
この900tクラスの海防艦が、「占守型海防艦」となります。
「占守型」ですが、この時はまだ「海軍軍艦及水雷艇類別標準」が存在していたため、海防艦はまだ軍艦でした。
さらに「占守型」の用途から、紛争海域での交渉も想定されたためにこの軍艦扱いは解かれることはありませんでした。
菊の御紋を艦首に輝かせることになる「占守型海防艦」ですが、この設計は従来の艦政本部ではなく、設立されて間もない三菱艦船設計課に任されることになりました。
意気込んだ三菱は寒冷地方での運用であることを念頭に置いた設計を行い、舷側を高くし、艦首楼も長くしています。
また解氷装置、暖房設備の充実、食糧を長期間保存できるように冷蔵庫を設置したり、荒れた海域の航行が想定されることから船体の強度や復原力も高く設計されました。
武装は旧型駆逐艦で多く採用されていた12cm単装砲3門を流用、また機銃は25mm連装機銃が2基だけでした。
このように三菱は「占守型」を北方海域従事用の艦艇として高性能な船に仕上げることに成功します。
ただ、海軍は海防艦を今後の量産がきくように簡易設計を求めていたので、このあたりで両者の思惑のズレが発生していたことは否めません。
この修正は次級の「択捉型海防艦」、ではなく、その次の次の「日振型海防艦」で施されることになります。
ともかく、北方海域での役割は十二分に果たすことができる「占守型海防艦」は昭和15年/1940年に無事【占守】が誕生し、以後【国後、石垣、八丈】が続々と竣工しました。
ただ、昭和15年/1940年といえば開戦の前年で、世間や海軍自体の目も戦力となる軍艦や駆逐艦に向いており、
この「占守型」はまず認知度すら低い状態でした。
そもそもものすごく小さいです。
これは【特型駆逐艦 吹雪】と、「占守型海防艦」の比較です。
【吹雪】
基準排水量 | 全 長 | 全 幅 | 速 度 | 馬 力 |
1,680t | 118.52m | 10.36m | 38.0ノット | 50,000馬力 |
「占守型海防艦」
基準排水量 | 全 長 | 全 幅 | 速 度 | 馬 力 |
860t | 78.0m | 9.1m | 19.7ノット | 4,500馬力 |
加えて少数で任務も全く違うため、艦隊で戦う人たちが普段から目にする船でもありませんでした。
港で見かけても、「何だあの船は?」という認識を持つ軍人は多かったことでしょう。
事実、軍艦である「海防艦」は駆逐艦や魚雷艇・掃海艇等よりも等級としては上のため、まみえることがあれば敬礼をするのが当然なのですが、よく欠礼されたそうです。
【国後】は幌筵島に入港の際、すでに在泊中だった【子日】より「貴艦ハナニユエ本艦ニ敬礼サレザルヤ」と言われました。
【子日】は入港してきた船の正体が【占守型海防艦 国後】であることがわかっておらず、小さな武装艦が駆逐艦に敬礼なしに入港してきたと思ったのです。
それに対して【国後】は「ワレ国後ナリ」と返信すると、相手が軍艦であることを知った【子日】の艦長が慌てて【国後】に謝罪に行った、というエピソードがあります。
ちなみに軍艦籍にいることができたのは昭和17年/1942年7月までで、それ以降海防艦が菊花紋章をつけることはありませんでした。
開戦後は、【占守】だけが南遣艦隊に所属して残り3隻は予定通り大湊や幌筵を拠点として活躍。
しかし戦況が悪化すると【石垣】も南方に駆り出され、【石垣】は昭和19年/1944年5月31日、船団護衛中に【米ガトー級潜水艦 ヘリング】の雷撃によって撃沈されます。
【占守】も昭和19年/1944年の「多号作戦」中に雷撃によって艦首を失い大破しますが、なんとか修復の末戦列に復帰しています。
【国後】は有名な「キスカ島撤退作戦」に参加するものの、視界が完全に遮断された濃霧の中で【阿武隈】と衝突した経歴を持ちます。
【八丈】は終戦間際の5月まで大きな損傷なく活躍してきましたが、昭和20年/1945年5月、幌筵停泊中に空襲によって中破、入渠するものの間もなく終戦し、またキールが弯曲していたためそのまま解体されることになりました。
ちなみに【占守】と【国後】は終戦後も復員船として働くのですが、【国後】はこの復員船従事中に座礁してしまい、あえなく放棄され、後に解体。
結局一番艦の【占守】が賠償艦として渡ったソ連での艦歴も含め、最も長く働き続けることになりました。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
『占守型海防艦 一覧』
【占守】しむしゅ
【国後】くなしり
【八丈】はちじょう
【石垣】いしがき