【東京大空襲】とは、1945年3月10日にアメリカによって行われた、東京空襲で最も被害が大きかった大空襲を指す。
1942年4月18日、当時まだ攻勢にあった日本にとって衝撃的な事態が起こる。
アメリカのジミー・ドーリットル中佐が作戦指揮を採り、【ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】から飛び立った【B-25】が東京を空襲したのだ。
通称「ドーリットル空襲」と呼ばれるこの空襲は、連戦連敗、そしてアメリカ近海でも日本の潜水艦によって輸送妨害を受けていたアメリカにとって、とても重要な空襲となった。
アメリカは太平洋戦争開戦直後から東京を中心とした日本への空襲作戦を練っており、この「ドーリットル空襲」のために海軍機ではなく陸軍機である【B-25】を採用し、空母から発艦させたのは画期的だった。
さらに戦争が進むと、日本は南方海域諸島を次々とアメリカに奪われていく。
アメリカは早速陸上航空基地を設営し、また【B-29】の完成も相まって、日本本土空襲の準備は着実に進んでいた。
一方それを阻止するはずの日本軍は「マリアナ沖海戦」や「サイパンの戦い」の敗北によって壊滅的打撃を受け、絶対国防圏を突破された責任を追求された東條英機内閣が1944年7月17日に総辞職している。
1944年末頃からアメリカは日本本土への空襲を実施。
しかし「戦時国際法」を忠実に守るためには、軍事に関係性のない施設や人間を意図的に攻撃しないように努力する必要がある。
それを実施するとなると、数千メートルの高さから精密に軍需施設などのターゲットを攻撃する難題が立ちふさがるのである。
事実、初期の本土空襲の戦果は非常に悪く、「ドーリットル空襲」以来の東京空襲では、爆弾投下数231発に対して目標命中率はわずか7%と散々な結果に終わっている。
この事態の打開を託されたのがカーチス・ルメイ少将である。
ルメイによって空襲による日本の被害は劇的に増え、逆に言えばアメリカ側の成果は確実に伸び続けた。
ルメイが行ったことは、【B-29】の本土空襲方法の転換と、無差別爆撃に対する決断である。
まず空襲での【B-29】の運用については、使用する爆弾が焼夷弾へ変更された。
火災を起こすことが目的である焼夷弾は、住宅を含む木造建造物が密集している東京、さらには地方都市には有効と考えられたからである。
これはしっかりとした研究に基づいた判断であり、アメリカは日本(とドイツ)の建造物を模した建物で実験を繰り返していた。
続いて高高度爆撃が売りである【B-29】を高度1,500~3,000mで飛行させることを決めた。
攻撃面のメリットはたくさんあり、高高度で発生しているジェット気流から逃れられるために燃費が向上して爆弾搭載数が上がる、命中率が上がる、爆弾の集中投下によって焼夷弾による火災の威力が上がる、などが挙げられる。
低空飛行では日本の迎撃機などによって妨害されるという危険性があったため、空襲は夜間に限定された。
だがその代わりに空襲に関係ないもの、例えば機銃やそれを撃つ機銃手などは下ろされることになり、とにかく空襲のために1つでも多く爆弾を積めるようにされた。
結果、丸裸の状態で空襲を行うことになった【B-29】だが、すでに日本の体力は底をつきかけていたため、被害は想定よりも少なかった。
【東京大空襲】で最も叫ばれる「民間人虐殺」については、ルメイの数々の発言を調べていただければわかるだろうが、一言で言えば「戦争を終わらせるための行為」である。
しかし彼はあくまで実施した時の指揮官であり、無差別爆撃の準備は彼が就任する以前から進められていたことを補足しておく。
強いて言うなら、アメリカ国の責任、アメリカ大統領の責任でこの空襲は行われた。
彼はアメリカ軍が準備していた作戦の成功率と成果を大きく伸ばした人物であり、過激で厳しく好戦的ではあったが、決して道徳性が欠落していたわけではない。
本人は「戦争に敗北すれば私は戦争犯罪人として裁かれただろう」と自覚している。
守るべきは敵国の人民に対する人道か、自国の国民の人命か、それを天秤にかけた結果なのである。
原爆投下も含め、「勝てば官軍負ければ賊軍」と言わざるをえない。
(余談かも知れないが、空襲の結果日本の軍需施設が壊滅したあともアメリカの攻撃は続いた。しかし戦闘機による機銃掃射も行われるようになる。その時に狙われたのはありとあらゆる建造物で、また目についた民間人も無差別に銃撃された。これは「臨機目標」と呼ばれ、当初は軍事施設が目標だったものの、パイロットの判断で他の目標を攻撃してもいいという事実上の無差別攻撃の容認だった。)
話が脱線したが、3月10日、日付が変わったまさにその時【B-29】が東京上空を埋め尽くし、一斉に爆弾が投下された。
焼夷弾投下に際して期待された集中投下による火災の威力の増加は、火災旋風となって効果を発揮し、さらにそれを強風(冬特有の空っ風)だった天候が煽った。
これは偶然ではなく、アメリカはこの日が強風であることが予測されたので3月10日を決行日としている。
また、被害を受けた41万平方メートルの地域は、1923年に発生した関東大震災の被害を研究した上で、おおよそ震災の被災地にあうエリアに空襲を行っている。
空襲によって想定される被害もデータによって予測を立てていたのである。
空襲による火災、延焼、火災旋風に加え、焼夷弾そのものの直撃(この時メインで使われたM69焼夷弾は小さな爆弾を集束させて上空で四散するタイプで、四散後に点火して火の玉となって地面に落ちる)による犠牲者も多数発生。
酸素が急速に奪われるために逃げ切れずに力尽きたり、鉄筋コンクリートの建造物に逃げるも、建物は無事でも中まで炎が入り込んで逃げ場を奪われたり、川が焼夷弾のガソリンによって燃える川となったり、とにかく火から逃れるために川に飛び込んだ結果、冬の川の水温によって凍死したり、炎の熱だけで服が発火したり、そしてそこかしこで飛び交う悲鳴、地獄以外の表現ができない光景が広がった。
火は1日がかかりでようやく消し止められた。
いや、燃え尽きたという表現が正しいかもしれない。
周りには何も残されていなかった。
被害の範囲は前述の通り約41平方メートル、死者数は調査元によって異なるが8万~10万人にのぼり、被災者は100万人を超えている。
この犠牲者の数は単独の空襲では世界史上最悪のものであり、町中には至る所に遺体が集められていた。
遺体の損傷も凄まじく、2割が身元不明者で、性別すら判別できないほど焼けただれてしまった遺体も無数にあった。
以下の言葉は適切だとは思わないが、遺体の処理・処分には相当時間がかかった。
一般的な人間なら50kg以上ある。
それを1人1人運ぶのはかなりの重労働である。
本来なら身元がわかるものを所持していないかを確認する必要があるし、また身元確認をするためにやってきた家族のためにも、遺体は安置できるようにしておきたい。
しかし遺体は放置しておくと瞬く間に腐ってしまい、そして感染症の発生の原因になりかねない。
焼け野原となった東京に遺体のためだけに適切な空間を用意できるわけがなく、遺体はとにかく迅速に「処分」するしかなかった。
そんな状況ゆえ、遺体の扱いもぞんざいであった(投げる、引きずる等)。
通常なら火葬場へ送るところだが、これだけの膨大な死者を全員短期間で弔うことなど不可能であった。
そのため「仮埋葬」と呼ばれる、公共の土地への土葬が行われることになった。
この中には民間の土地にも犠牲者が埋葬された可能性もある。
【東京大空襲】は日本の本土空襲の幕開けとなり、以後軍需施設がある都市を主目標とした無差別爆撃が各地で繰り返され、それは大阪や名古屋などの大都市からやがて地方都市へと拡大。
迎撃できる力も残っていない日本は空襲警報が鳴るたびに怯えながら防空壕に篭もる他なく、昼夜問わない空襲に国民の犠牲も増え続けていった。