【海軍乙事件】とは、当時連合艦隊司令長官であった古賀峯一大将が、パラオからダバオへ移動中に低気圧に遭遇して行方不明、殉職した事件である。
また同時に、日本の戦争後期の重要な作戦計画書などがアメリカの手に渡った事件でもある。
1944年2月17日、トラック島を連合軍による大空襲が襲い、連合艦隊はトラック島を脱出してパラオに拠点をおいていた。
しかしそのパラオも3月30日に大空襲を受け、連合艦隊司令部は再び拠点を移動させることを検討。
次の退避先はダバオ、その後サイパンへの移動が挙げられた。
出発は当初4月1日の予定だったが、3月31日17時半ごろ、偵察機より空母2隻がパラオに向かっているという報告があり、出発は即刻行われることになった。
ダバオに向けて、古賀搭乗の【二式飛行艇】一番機と連合艦隊参謀長の福留繋中将搭乗の【二式飛行艇】二番機が出発。
しかし天候は荒れに荒れており、一番機二番機ともにこの低気圧に翻弄された。
悪天候の際は、海上を這って低空飛行をするか、雲上まで抜けきってしまうかの二通りの方法が推奨されていたが、一番機と二番機は受けた教育が異なり、ここで完全にはぐれてしまう。
古賀搭乗の一番機は海面を飛行した。
しかしこの後、一番機は完全に行方をくらませ、そして遂に見つかることがなく、搭乗員7名全員は殉職したとされた。
戦死ではなく殉職とされたのは、当時の海軍大臣であった嶋田繋太郎が古賀の行動を「敵前逃亡である」と非難したためだった。
古賀については終戦後も「戦死へなおすことはできないか」という依頼が続いたものの、実現することはなかった。
古賀殉職後の連合艦隊司令長官には、豊田副武大将がついた。
しかし、【海軍乙事件】は古賀殉職だけではない。
二番機の行方を追ってみよう。
同じく低気圧によってまともな飛行ができなくなった二番機は、ダバオを逸れてセブ島沖に不時着し、福留をはじめとした乗員9人は泳いでセブ島に上陸した。
しかし上陸した福留らを待ち構えていたのはフィリピンのゲリラ部隊であった。
当時フィリピンは日本とアメリカのどちら側についていた、と明確には言えないものの、概ね親米であった。
福留らはゲリラの捕虜として連行されてしまう。
日本のセブ島の守備隊はこの事実を知って、ゲリラに対して福留らの解放を要求。
ゲリラは日本軍の攻撃中止を条件に解放要求を飲み、福留らは無事に解放された。
日本は捕虜になることが軍人として、更には日本人としてこの上ない恥であると教え込まれており、この教えが玉砕であったり沖縄の民間人の集団自決などにつながる。
その中で参謀長で中将である福留が捕虜になったということは、到底公表できるものではなかった。
隠蔽体質が蔓延していた海軍では、捕虜になったという事実をもみ消し、また左遷させることもなく、逆に福留に第二航空艦隊司令長官の席を与えるという、考えられない行動に出る。
栄転させることで、福留はなんら屈辱を受けるようなことはなかったと示したのである。
しかし福留と海軍の罪はこれだけではない。
福留は連合艦隊司令部の人間であったことから、日本の重要な機密文書を多数所持していた。
当然敵の手に渡ってしまえば、日本の情報は丸裸になってしまう。
事実、この文書にはアメリカのマリアナやトラックへの襲撃を想定した新しい作戦である「新Z作戦」の要綱や、暗号書、信号書が含まれていた。
その日本の国家存亡に関わる情報を、破棄することなくゲリラに奪われてしまったのだ。
捕まる前に川に捨てたそうだが、通常このような書類は跡形もなく消すために燃やすものである。
(たとえライターやマッチを持っていたとしても、海を泳いだので使うことはできなかっただろうが)
親米であったゲリラは早速この書類をアメリカに渡し、これによってアメリカはより優位な立場で日本に攻め込むことができるようになった。
事実、アメリカは6月に勃発する「マリアナ沖海戦」において、この文書が大いに役立ったことを語っている。
一方、書類を奪われた後に解放された福留はというと、書類を奪われたことは一切伝えず、二番機とともに失われたとしたのである。
果たして海軍がこの福留の言葉をどこまで信じたのかは不明であるが、その後の福留の処遇から見ても、例え事実を知ったところで、隠蔽に走ったと思わざるをえない。
福留は当時この事実を一切認めなかったが、戦後アメリカの情報も含めた戦史編纂が始まると、この事実が明るみに出た。