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【伊二十一型潜水艦⇒121型】
【submarine I-21 class】

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基準排水量1,142t
水中排水量1,768t
一番艦竣工日伊号第二十一潜水艦
昭和2年/1927年3月31日
同型艦4隻
全 長85.20m
最大幅7.52m
主 機ラ式1号ディーゼル 2基2軸
最大速度水上 14.5ノット
水中 7.0ノット
航続距離水上 8ノット:10,500海里
水中 4.5ノット:40海里
馬 力水上 2,400馬力
水中 1,100馬力

装 備 一 覧

備 砲40口径14cm単装砲 1基1門
魚雷/その他兵装艦首:53cm魚雷発射管 4門
搭載魚雷 12本
機雷敷設筒 2本
八八式機雷 42個
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Uボートの技術を我が手に 日本潜水艦成長の先駆け 機雷潜

第一次世界大戦の戦利品として、日本は7隻のドイツ潜水艦の調査をすることができました。
ドイツの潜水艦「Uボート」といえば、第一次世界大戦開戦時は大した性能ではなかったものの、終わってみればたった4年の間に、戦時体制の中にあって奇跡的な飛躍を遂げた存在です。
当時の日本は潜水艦技術なんてほとんどなく、そんな中で世界一の技術力で建造された「Uボート」をタダで見分できるなんてこれ以上のことはありませんでした。

日本はこのチャンスに一気に潜水艦技術を向上させるべく、2つの行動をとります。
1つはドイツでは潜水艦の建造が禁止されたため、外国での活動に活路を見出していた、「Uボート」大躍進の立役者たるゲルマニア造船所主任設計者のハンス・テッヘル博士の招聘。
もう1つはドイツ最新の巡洋潜水艦である【U125】の現物と図面の入手でした。

世界最高の設計者と世界最高の潜水艦の現物と図面。
これらが同時期に手に入るなんて、日本の潜水艦の歴史においてこの時ほど未来が明るいときはなかったでしょう。
そして【U125】のほぼコピーではありますが、早速同じ機雷潜である「伊二十一型潜水艦」の設計、建造が始まったのです。

「伊二十一型潜水艦」【U125】の違いは魚雷と備砲が日本のものに変わっただけと言ってもよく、あとは暑い南洋での活動を考慮した冷却機の搭載のためのほんの少しだけ全長が伸びたぐらいでした。
しかし完コピレベルだった「伊二十一型潜水艦」【U125】の問題点に気づかず、完成品は操縦性に難があることが発覚しました。
【U125】は最新の潜水艦ではあったものの、テッヘル博士が在籍したゲルマニア造船所建造のものではなかったのです。
本来ならば6隻建造の予定だった「伊二十一型潜水艦」はこの問題によって4隻で建造が打ち切りとなってしまいます。
しかし一番艦の竣工が昭和2年/1927年ではあるものの、4隻全てが太平洋戦争に参加しています。

当初は「機雷潜」という役割通り機雷敷設を任務として行っていましたが、【伊124】(昭和13年/1938年6月に各艦艦名に100を追加)が昭和17年/1942年1月に【米水上機母艦 ラングレー】によって沈没。
その後は「ミッドウェー海戦」に合わせて、「伊三百五十一型」のような大艇補給潜水艦としての役割を持ってもらうために、急遽機雷庫をガソリンタンクに改造したのですが、結局この作戦は中止。
8月に【伊123】が撃沈させられた後、昭和18年/1943年からは残りの2隻は前線から撤退し、練習潜水艦として内地で活動をつづけました。
しかし昭和20年/1945年6月の終戦間際に【伊124】も沈没、最終的には【伊121】しかこの戦争を生き抜くことができませんでした。

同 型 艦

艦名は最終のもの

伊号第百二十一潜水艦伊号第百二十二潜水艦伊号第百二十三潜水艦
伊号第百二十四潜水艦