基準排水量 | 2,650t |
水中排水量 | 4,200t |
一番艦竣工日 | 伊号第三百五十一潜水艦 |
昭和20年/1945年1月28日 | |
同型艦 | 1隻竣工、1隻未成 |
全 長 | 111.00m |
最大幅 | 10.15m |
主 機 | 艦本式22号10型ディーゼル 2基2軸 |
最大速度 | 水上 15.8ノット |
水中 6.3ノット | |
航続距離 | 水上 14ノット:13,000海里 |
水中 3ノット:100海里 | |
馬 力 | 水上 3,700馬力 |
水中 1,200馬力 |
装 備 一 覧
備 砲 | 8cm連装迫撃砲 2基4門 |
25mm三連装機銃 1基3挺 | |
25mm連装機銃 2基4挺 | |
魚雷/その他兵装 | 艦首:53cm魚雷発射管 4門 |
搭載魚雷 4本 |
ハワイ作戦から沈没必定の輸送へ 潜補型
潜水艦は、索敵と雷撃が第一の任務として任されることが多く、続いて日本においては不本意ながらも輸送任務も徐々に増えるようになりました。
しかしこの「潜補型」は、他の潜水艦とは全く違い、水上艦でいう補給艦のような役割を持つものでした。
「潜補型」は、補給潜水艦と言い換えることができる潜水艦です。
補給する相手ですが、潜水艦程度の大きさで水上艦の補給をするのはさすがに量が少なすぎます。
「潜補型」が補給する相手は航空機(水上機、飛行艇)でした。
この構想は大正11年/1922年には持ち上がっていたようですが、「ワシントン海軍軍縮条約」の影響でこの時はすぐに消滅してしまいました。
この構想が復活したのは、「ロンドン海軍軍縮条約」からの脱退による対米戦争の危機感が増した昭和11年/1936年。
海軍はアメリカと戦争になったとしたら、とにかく奇襲で手痛い一発を与え、水上艦を引きずり出して艦隊決戦で決着をつけるという短期講和を構想の1つとして掲げていました。
その奇襲の標的としてハワイが初期段階から上がっていましたが、その攻撃方法の一つに、機動部隊だけではなく超航続距離を誇る飛行艇による攻撃補助も検討されていました。
実現しなかった第二次ハワイ攻撃である「K作戦」も同じですが、この時飛行艇はマーシャル諸島を出発し、途中で潜水艦から補給を受けてハワイへ向かうという構想がありました。
その補給艦として考えられたのが、「潜補型」です。
「潜補型」には大艇3機分の補給燃料と共に、弾薬や爆弾、食料が搭載され、交代用のパイロットも搭乗する予定でした。
ちなみに同構想で考えられた水上艦が、【二式飛行艇】用の水上機母艦である【秋津洲】です。
ただ、構想の大枠こそ昭和11年/1936年に持ち上がっていますが、実際に計画の詳細が詰められて起工されたのは昭和18年/1943年5月とずいぶん後です。
それは、結局この構想は実現の機会を見出せず、戦況の変化によって「マル5計画、マル追計画」合わせて6隻の建造計画がどんどん変更されたからです。
「マル5計画、マル追計画」は共に昭和16年/1941年に計画された軍備拡充計画ですが、特に「マル追計画」はほぼ潜水艦のみの建造計画で(唯一潜水艦ではない船は【標的艦 波勝】)、いかに当時の潜水艦戦力に不安があったかが伺えます。
この2つの計画で計6隻の「潜補型」の建造が決定しました。
しかし目まぐるしい戦況の変化に右往左往した海軍は、この計画通りの建造が果たしていま求めている潜水艦なのか判断がつかず、「潜補型」は計画のまま宙に浮いてしまいました。
そして昭和18年/1943年5月、ようやく一番艦【伊351】の起工が始まります。
しかしこの段階では、かつての主目的だった大艇補給の役割は早くも消滅し、代わりに軽質油輸送潜水艦として計画が変更されます。
続いて6隻の建造計画は「マル5計画」の3隻が削除され、「マル追計画」の3隻も1隻が中止、結局2隻しか起工されませんでした。
さらに二番艦【伊352】は建造中の昭和20年/1945年6月に空襲で沈没してしまい、最終的には6隻のうちの一番艦【伊351】しか世に出ることはありませんでした。
【伊351】の竣工は昭和20年/1945年1月。
水上機を搭載しない潜水艦の中では最も大型の輸送潜水艦が、この戦争末期にようやく誕生したのです。
「潜補型」は水中での連続航行時間が100時間という特性もあったのですが、魚雷は4本のみ、水上水中速度も低速で、正に補給艦、単独で動けばいい的でした。
果たして2回目の輸送任務に出撃した際、水上航行中に【伊351】は【米ガトー級潜水艦 ブルーフィッシュ】に雷撃されて沈没。
【伊351】は当初の計画通りに誕生できなかったばかりか、輸送任務も危険極まりない状況で強行せざるを得ませんでした。
後期型・航空機用補給潜水艦の設計と装備
このように、当初の壮大な計画のサポートを担うはずが蓋を開けてみればでかい的に成り下がった「潜補型」。
しかし戦争初期に設計が始まった本型は、様々な新装備と補給艦ならではの設計が施されている特別な潜水艦と言えます。
まず、潜水艦の燃料になる重油に加え、輸送する軽質油(ガソリンの元になる)のタンクが別に必要になります。
このタンクだけでも大型化の要因になるのですが、これをどんな構造にして積むかが本型の最重要ポイントといっても過言ではありません。
そもそも潜水艦にはタンクや弁がたくさんあります。
全て潜航や浮上する際に必要な機能で、これらのおかげで潜水艦は安定して潜行することができるのです。
それに加えての軽質油タンクは、容量もそうですが、補給、さらには被害時の引火を防ぐための配置がとても重要でした。
軽質油タンクは防弾鋼板で覆われ、メインタンク(空気や海水を入れて潜航浮上を行うためのタンク)と隣り合わせになっていて、潜水艦の燃料タンクに引火しないように配慮されました。
中央の耐圧部には内殻と軽質油タンクの間に補助タンクを設け、ここでも軽質油タンク同士が隣り合わせにならない構造になっています。
これらの配置により、万が一軽質油が漏れ出しても艦外に漏れるようになりました。
また、こうすることで航空機への補給もタンクからほぼ直接行え、軽質油を送り出すポンプ室も、引火の危険がないように内殻外に設置されました。
この構造で、軽質油は補給の段階まで全て内殻外を経由することになります。
この時も軽質油は必ず非耐圧部から中央の耐圧部を経由するという徹底ぶりでした。
補給する物資は燃料だけではなく、爆弾や弾薬も必要です。
250kg爆弾が60個、もしくは30個+九一式航空魚雷15本が搭載可能で、航空燃料は500ℓ、また弾薬などの火工品も4tほどの搭載が可能と言われています。
ただ表記がまちまちで、特に直接的な兵器に関しては中尉が必要です。
これらは全て内殻内に配置されています。
装備面では、帝国海軍が世界に先駆けて導入した2つの装備が光ります。
一つは「自動懸吊装置」、もう一つは「重油漏洩防止装置」です。
これらはともに友永英夫造船少佐(当時)が発明した世界初の技術で、潜水艦技術世界一のドイツですら導入していなかった画期的な装置です。
まず「自動懸吊装置」は、潜水艦の深度をほぼ自動で安定させることができるもので、これまでは排水ポンプを使ったり、傾いたら人や物の移動で平行になるようにしたりと、安定した航行は非常に大変でした。
それがこの装置を使えば、注水弁、排水弁が水圧に合わせて自動で開閉してくれて、なんと停止状態でも浮き沈みしないようになったのです。
今でこそ一般的な技術なのですが、これは潜水艦後進国だった日本が世界を驚かせた技術の最たるものと言えるでしょう。
もう一つの「重油漏洩防止装置」ですが、これは読んで字のごとく、重油の漏れ出しを防ぐ装置です。
潜水艦にとって、潜航時の水圧というものは最大の敵です。
潜水艦はこの水圧にどれだけ耐えれるかが重要で、しかし艦は耐えても水圧と内部の圧力の差によって押し出される重油の漏洩にはほとほと困っていました。
この悩みは世界共通のもので、重油の漏洩は海面に漏れ出すことで敵に存在を知らしめる危険な症状でした。
これを抑えることは生命を守る上でとても重要だったのです。
この問題に対して、「重油漏洩防止装置」はタンクの底にあらかじめ海水を入れておき、あとは燃料の消費量に合わせて海水を投入していきます(この行為は艦の重量を一定にするために必要な通常の作業です)。
その海水の投入量をポンプで調整し、外の水圧よりもタンクの内圧が必ず低圧になるようにするのがこの装置の役割です。
こうすれば、圧力の低いタンク内に高圧の水中から海水が流れ込むようになり、重油の漏洩はほぼ完全に防ぐことができるようになりました。
この2つの発明によって、友永少佐は「海軍技術有功章」を2度受賞した唯一の人物となっています。
そして当然、これらの技術は開戦後に設計、建造された潜水艦の多くに導入され、また旧型艦も随時施工が行われました。
その他、早期、大量の建造が必至であったため、特に溶接は外殻、中殻で幅広く取り入れられました。
ブロック工法も部分的にですが活用され、以後特に「波百一型、波二百一型」と【蛟龍】の建造にあたってはかなり積極的に導入されています。
結局戦中の設計・建造潜水艦はほとんどが活躍の機会を得ることができませんでしたが、単純に完成品を見る限りでは十分な成果をもって生まれてきた存在の1つといえるでしょう。
同 型 艦
伊号第三百五十一潜水艦 | 伊号第三百五十二潜水艦 (未成) | 仮称艦名第六五七号艦 |