
「月光」一一型 |
全 長 | 12.130m |
全 幅 | 16.980m |
全 高 | 4.562m |
主翼面積 | 40.000㎡ |
重 量 | 4,562kg |
航続距離 | 2,547km |
発動機 馬力 | 空冷複列星型14気筒×2「栄二一型」(中島) 980馬力×2 |
最大速度 | 507km/h |
武 装 | 20mm斜銃 2挺×2(上・下) |
符 号 | J1N1-S |
連 コードネーム | Irving(アーヴィング) |
製 造 | 中島飛行機 |
設計者 | 中村勝治/大野和男 |
三度目の正直 月夜の隠密行動 月光
昭和12年/1937年、日本は「支那事変(日中戦争)」において渡洋爆撃を敢行しました。
これは航続距離の長さが特徴の日本の航空機で、中国本土から離れている台湾から直接航空機を飛ばして攻撃するというもので、まさか台湾から飛んできているとは思わない中国軍は慌てふためきました。
ちょうど世界では大型爆撃機の性能は戦闘機を振り切るという風潮があり(戦闘機無用論)、この渡洋爆撃に際しても、使用された「九六式陸上攻撃機」に追随できる戦闘機がなかったことから、「九六式陸攻」単独での攻撃でした。
ところが予想に反して「九六式陸攻」は中国軍の旧式戦闘機にすら撃墜される有様で、攻撃の成果大なり、しかし被害もまた大なりと、戦闘機無用論が幻想にすぎないことを痛感します。
この看過できない被害を食い止めるため、日本は翌年にこの陸上攻撃機を護衛する戦闘機として「十三試双発陸上戦闘機」の開発を中島飛行機に指示しました。
この「十三試双発陸戦」には、航法装置や通信装置も搭載されることになりました。
「十三試双発陸戦」の要求は当時三菱が開発中だった「十二試艦上戦闘機」(のちの「零式艦上戦闘機」)とそれほど違いはありませんでした。
ところがその違うというのがかなりの難題です。
なにせ今度は双発機ですから、エンジンが2つになる分出力は上がりますが、大型になるため運動性能は低下します。
速度の要求が「十二試艦戦」の500km/hとあまり変わらない519km/hなのは、今回の目的が陸攻の護衛であることから航続距離を優先したためです。
当時はエンジンの出力がそれほどいいものではなかったので、速度と航続距離を両立させるよりも、航続距離を優先させた結果です。
最大の難関は運動性能でした。
やがて完成する「零戦」の運動性能・格闘力は随一のもので、それを双発機で再現するのは至難の業でした。
全長は1.3倍、全幅は1.4倍の大きさになり、プロペラが2つになるためバランス維持がより重要となる「十三試双発陸戦」を「零戦」にする。
この課題に中島は立ち向かうのですが、なかなかうまくいきません。
昭和16年/1941年、試行錯誤の末に試作第一号機が完成します。
しかし速度・航続距離が要求を満たす一方、この運動性能についてはどうしても必要水準まで持っていくことができませんでした。
後部にとりつけられていた遠隔操作式の7.7mm機銃の性能も芳しくなく、また「零戦」が単独でものすごい活躍をしていたこともあり、結局「十三試双発陸戦」の開発はここで頓挫してしまいました。
しかし一方で、日本は偵察機の役割を持てる航空機がいないことに悩んでいました。
昔は「九七式艦上攻撃機」など旧式の航空機が偵察を行っていたのですが、もう古い機体ですので撃墜の危険性がかつてより高まっています。
陸上偵察機も陸軍の「九七式司令部偵察機」をほぼ転用した「九八式陸上偵察機」以降の開発が止まっており、海軍はこの「十三試双発陸戦」を今度は陸上偵察機に転用することにしました。
速度と航続距離は前述の通り要求を満たしており、また武装も20mm機銃一挺、7.7mm機銃が機首に二挺、後部に旋回機銃が一挺と、陸上偵察機としては重武装、また強度も高いため、流用するにはもってこいでした。
昭和17年/1942年7月、5号機から7号機までの改造を経て、無事「十三試双発陸戦」は「二式陸上偵察機」として制式採用されました。
製造は4月から始まっており、7月には試作機にカメラを搭載した3機が早速ラバウルに進出。
期待された強行偵察によって成果を残し、その後各地に配備されるようになっていきました。
ところがその「二式陸偵」の活躍の機会はわずかしかありませんでした。
最初こそ偵察機の役割を果たしていましたが、偵察機に必要なのはぶっちぎりの速さでした。
航続距離はあっても、「二式陸偵」の速度は別に速い部類ではありません。
運動性能もよくないし、双発で大型なので的も大きい。
アメリカの勢力が増大すると、すぐに敵機に対抗できなくなりました。
結局「二式艦上偵察機」や陸軍で大変重宝・活躍した「一〇〇式司令部偵察機」が偵察の役割を引き継ぐことになり、「二式陸偵」はまたも出番を失うことになってしまいました。
お払い箱になりかけていた「二式陸偵」。
これに待ったをかけ、再び活躍の場を与えたのは、現場の声でした。
第二五一海軍航空隊の司令だった小園安名大佐は、海軍からの忠告を無視してこの「二式陸偵」に自ら考案した「斜銃」を装備させます。
「斜銃」とは「機軸に対して上方または下方に30度前後の仰角を付けて装備された20mm機銃」のことで、多くは胴体に上方30度ほどの仰角を付けた機銃のことを指します。
通常装備の機銃は機体の下もしくは胴体のプロペラの前後などに付いていますが、これでは同高度か下の航空機しか狙えません。
しかしこの「斜銃」だと、敵の死角に回り込める上に下から丸見えの胴体に向けて射撃することができます。
小園大佐は「二式陸偵」にこの「斜銃」を装備させ、再び戦闘機として脚光が浴びるように改造しました。
口径は20mm機銃と大型で、下からぶち抜けば致命傷は確実なもの。
この改造戦闘機の次の活躍の場は、夜間でした。
夜間戦闘機に改造された「二式陸偵」は、昭和18年/1943年5月に二五一空が配備されたラバウルへともに向かいます。
このラバウルでは「B-17」の夜間爆撃が頻発しており、日本の被害は増大の一途でした。
そこに颯爽と現れた、「斜銃」を構える「二式陸偵」、なんと「B-17」の下に回り込み、「斜銃」を用いてあっさりと2機を撃墜。
夜間で視界が極端に狭くなる中、しかも「B-17」の射程外、死角からの攻撃は抜群の効果を発揮し、その後も次々と敵を落としていった「二式陸偵」は、ようやく本格的に活躍をはじめました。
この戦果を受けた海軍はすぐさまこの改造を許可し、また「斜銃」を装備した「二式陸偵」を「夜間戦闘機 月光」として新しい名前を与えることとしました。
「月光」はまさに月光に浮かび上がる黒い敵機を下から密かに撃墜する、その名に相応しい役割を持つことができました。
「斜銃」は最初は上向き、下向きともに装備されていましたが、下向きの「斜銃」の有用性は殆どなかったため、後期型では搭載されていません。
この「月光」の活躍はラバウルの夜間爆撃の被害を確実に減少させ、また大型の「月光」には他の装備も搭載できる余裕があったことから、レーダーも搭載されるようになりました。
しかしこのレーダーの性能はお世辞にも良いものとは言えず、闇夜に紛れる敵機を探すのは結局肉眼に頼る他ありませんでした。
「B-17」に加えて「B-29」も爆撃に参加するようになってからも「月光」は活躍を続けますが、「B-29」の強みは何と言っても高高度性能です。
敵戦闘機の性能がガタンと落ちる、もしくは到達すらできない10,000mの高さから爆弾を投下する「B-29」に対しては、「月光」も手を焼くことになり、撃墜数も減少していきました。
ただ、命中率の観点から必ずしも高高度爆撃のみが行われたわけではなく、中低空飛行の「B-29」には引き続き効果的な攻撃を繰り広げていました。
やがて「月光」はこの高高度爆撃によって効率の悪くなった「B-29」撃墜よりも、夜間偵察や夜間襲撃などへ活動の場を移すことになりました。
レーダーもこの頃には水上用レーダーへ交換されていたそうです。
さらにアメリカも戦局が有利になってきたことから、日が昇っている時間帯の爆撃も増加。
これに対しては「月光」の役割はかなり少なく、昼間は他の戦闘機に任せる他ありませんでした。
このように、紆余曲折を経て現場の要望によってようやく日の目、いや月の光を得ることになった「月光」。
すでに日本は敗北への道を辿っているところで、予想しなかった活路を歩んだ「月光」は477機が製造されました。