零戦シリーズ | 零戦と戦った戦闘機達 |
零戦+防弾性-Xのif考察 | 零戦と防弾性の葛藤 |
太平洋戦争では最終的に悲惨な結末を迎えた日本でしたが、開戦当初は連合軍を圧倒する、上層部ですら想定していないほどの勝ちっぷりを見せつけていました。
しかしある時を境にこの立場は一気に逆転し、日本はあらゆる面で劣勢に立たされました。
いずれも戦争の在り方を激変された航空機の存在が要因でした。
そしてその航空機の大黒柱となったのが、大日本帝国海軍が開発させた【零式艦上戦闘機】です。
対となる陸軍の「一式戦闘機『隼』」とともに、太平洋戦争全期間を通して働き続け、今でも日本の戦闘機の代名詞としてその名が色褪せることはありません。
海の兵器としては【大和】、陸の兵器としては【九七式中戦車 チハ】がいずれも大日本帝国軍の代表格になるでしょうが、いずれも輝かしい実績があるとは言えません。
しかし【零式艦上戦闘機】と【一式戦闘機『隼』】は、日本の酸いも甘いも全て知る存在です。
中でも【零式艦上戦闘機】は使い勝手の良さと後継機開発の遅れという相反する理由から異常な数の派生型を擁する特殊な存在でした。
これまでの公開から、【零式艦上戦闘機】について、誕生までの経緯と開発、そして【零式艦上戦闘機】主要及び各派生型の性能、特徴、その他もろもろで内容を大幅強化いたしました。
- もっと遠く、もっと軽やかに、そしてもっと速く(当社比)
- イ.エンジン、プロペラ
- ロ.軽量化
- ハ.機体の設計
- 十二試艦上戦闘機 初飛行と改良
- 奥山益美が遺した、進化しすぎた十二試艦戦の盲点
- 2人目の犠牲者を胸に、ここに零式艦上戦闘機成る
もっと遠く、もっと軽やかに、そしてもっと速く(当社比)
まず【零式艦上戦闘機】、最も浸透している略称は【ゼロ戦】でしょう。
日本独特の暦の数え方である「皇紀」(神武天皇即位の年を元年とする暦)、この皇紀2600年の節目に制式採用されたのがこの【零式艦上戦闘機】です。
ちなみに同年陸軍では偵察機が制式採用されていますが、陸軍のほうは「一〇〇式司令部偵察機」と、名前の付け方が異なっています。
連合軍は【零式艦上戦闘機】のコードネームを「Zeke」としていましたが、少なくとも現場では「Zero」や「Zero Fighter」と呼んでおり、世界的に見れば【零式艦上戦闘機】は【ゼロ戦】と略すのが多数派です。
しかし本機の読みは「れいしき艦上戦闘機」のため、単純に略せば【レイ戦】となります。
そのため国内では【ゼロ戦】の他に【レイ戦】とも呼ばれていて、どちらも間違っていません。
ゼロが英語読みであるからという敵性語云々については一部の民間人や団体が訴えていただけで、特に戦争に直接関与している軍から英語が消滅したら全く機能しなくなります。
メートル法が浸透した中でいきなり尺貫法に戻せるわけもないですし、それだと開発コードである「A6M2」なども全部振りなおしです、やってられません。
【零戦】の呼称がいつから浸透したのかという点についてですが、運用する軍内部では【零戦】に限らず長い武装は略称で呼ぶものです。
特に「零式」とつく機体は海軍で大量に発生しています。
【零戦】を筆頭に、【零式水上偵察機】【零式小型水上機】【零式水上観測機】【零式輸送機】と、制式採用された「零式」は海軍機で5種類もあるのです。
「零式」だけではどれを指すのかもちろんわかりませんので、【零戦】とか【零水】のように略すようになるのは自然の流れでした。
この【零戦】ですが、もちろん【零戦】の前には別の戦闘機がおりまして、【九六式艦上戦闘機】が昭和10年/1935年2月に初飛行に成功しております。
海軍機としては初めて全金属製低翼単葉機を採用した機体で、また空気抵抗を減らすために、一般的だった張り線+薄翼から張り線を採用しない厚翼を取り入れるなど、革新性という面では【零戦】を上回っています。
【九六式艦戦】は複葉機の【九五式艦上戦闘機】に代わる存在で、単葉機開発が欧米に比べて遅れていた日本にとっては陸海共に単葉機の導入が急がれていました(陸軍の【九五式戦闘機】も複葉機)。
【九六式艦戦】は【九五式艦戦】よりも50km/hも最高速度が速く、運動性能も抜群で、安定感に優れていた複葉機をそれ以外の要素で圧倒しました。
この【九六式艦戦】の設計責任者が、のちに【零戦】の設計にも携わる堀越二郎技師でした。
以下の「昭和十一年度 航空機種及性能標準」は、【零戦】を指すものではなく、「海軍は艦上戦闘機にこういう性能が必要だと考えている」という表です。
なので【零戦】の根底にはこの考えがあるわけです。
この表は結構重要で、用途と特性、増槽の巡航6時間から読み解くと、「艦上戦闘機とは長時間艦隊や基地周辺を飛行、偵察、防衛できる戦闘機である」ということがわかります。
つまりこの時は、長距離爆撃などの護衛につくなんて一切考えれていません。
空母にしろ陸上にしろ、役目はほとんど局地戦闘機ですし、その大量の燃料もずーっと上空を守るためです。
昭和十一年度 航空機種及性能標準(艦上戦闘機) |
用 途 | 1. 敵攻撃機の阻止撃攘 2. 敵観測機の掃討 |
特 性 | 速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること |
航続力 | 正規満載時全力1時間 |
機関銃 | 7.7mm×2 700発 |
機関砲 | 20mm×2 60発 |
通信力 | 電信300浬、電話30浬 |
実用高度 | 3,000m乃至5,000m |
その他 | 1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内 2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること 3. 促進可能なること 4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること |
そして【九六式艦戦】をさらにグレードアップさせるという要求が、翌年の昭和12年/1937年に再び堀越技師所属の三菱とライバルである中島飛行機に持ち込まれました。
【九六式艦戦】は高性能ではあったのですが、初の単葉機ということもあって何でもスーパー強くしろという要求ではありませんでした。
ですが【九六式艦戦】で成功したことにより、ついに全部スーパー強くしろ要求が三菱に突き付けられたのです。
性能標準では具体的な速度までは出ていませんが、このあと昭和12年/1937年10月にはある程度の性能要求も含む「十二試艦上戦闘機計画要求書」が提示されました。
これが堀越技師が「ないものねだり」と言い切った、短所、つまり妥協要素がない新しい艦上戦闘機の性能です。
ただ、こちらの要求書が堀越技師と彼の右腕だった曾根嘉年技師の記録、そして「零戦秘録」の資料でちょっと違いがあるようですので、全部載せます。
スマホの人は横向け推奨。
堀越著書:堀越二郎・奥宮正武共著【零戦】、堀越二郎著「零戦 その誕生と栄光の記録」
曾根資料:杉田親美著「三菱海軍戦闘機設計の真実 : 曽根嘉年技師の秘蔵レポート」
零戦秘録:原勝洋編 「零戦秘録 零式艦上戦闘機取扱説明書」
十二試艦上戦闘機計画要求書 |
要 目 | 堀越(10月5日) | 曾根(12-10メモ書き) | 零戦秘録 |
用 途 | 掩護戦闘機として敵軽戦闘機よりも優秀なる空戦性能を備え、迎撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの | 攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃討に適する艦上戦闘機を得るに在り | 攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり |
大きさ | 全幅12m以内 | 全幅12.000m 全長10.000m 全高3.700m | 全幅12.0メートル 全長10.0メートル 全高3.7メートル以内成るべく小なること |
装備発動機 | 三菱瑞星一三型か三菱金星四六型を使用のこと | 昭和12年9月末迄審査終了の発動機 | |
最大速力 | 高度4,000mで270ノット(500km/h)以上 | 高度3,000~5,000mで270ノット(500km/h)以上 | 高度4,000メートルに於いて270ノット以上(高力馬力にて) |
上昇力 | 高度3,000mまで3分30秒以内 | 高度3,000mまで3分30秒以内 5,000mまで5分30秒以内 | 3,000m迄3分30秒以内 5,000メートル迄5分30秒以内 |
航続力 | 正規状態:高度3,000mで公称馬力で1.2乃至1.5時間 過荷重状態:落下増槽込み高度3000mで公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上 | 正規満載:高力馬力1.2時間以上 過荷:高力馬力1.5時間以上、巡航滞空6時間以上 | 正規満載に於いて高力馬力1.2時間 過荷重状態に於いて高力馬力1.5時間、巡航速対空6時間以上 尚計画上余裕ある場合は極力最高速の向上を計るものとす |
離陸滑走距離 | 向かい風の風速12m/秒で70m以下。無風時(概ね陸上からの離陸)はこの2.5倍内外 | 合成風力12m/秒で70m以下 | 合成風力毎秒12メートルに於いて70メートル以内 |
着陸速度 | 58ノット(107km/h)以下 | 58ノット(107km/h)以下 | 58ノット以下 |
滑走降下率 | 3.5m/秒乃至4m/秒 | 毎秒3.5ないし4.5メートル | |
空戦性能 | 九六式二号一型艦上戦闘機に劣らぬこと | ||
銃 装 | 20mm機銃 2挺 7.7mm機銃 2挺 | 「プロペラ」回転圏外に翼上20mm固定機銃二挺を装備すると共に、胴体附近迄に7.7mm機銃二挺を装備したる単座機 | 20ミリ固定機銃、数量2、重量44.50キログラム(プロペラ回転圏外翼上装備) 7.7ミリ固定機銃、数量2、重量24.60キログラム(胴体付近に装備)(抜粋) |
爆 装 | 60kg又は30kg爆弾 2発 | ||
無線機 | 九六式空一号無線電話機 ク式三号無線帰投装置 | 九六式空一号無線電話機と電動直流発電機空1号、数量各1、重量20.0キログラム(抜粋) | |
その他 | 酸素吸入装置、消火装置など | 試製長波送信機、八九式2型改1落下傘、消火装置(抜粋) | |
強 度 | A状態(急引起しの後期):荷重倍数7.0 安全率1.8 B状態(急引起しの初期):荷重倍数7.0 安全率1.8 C状態(急降下制限速度にて):荷重倍数2.0 安全率1.8 D状態(背面飛行よりの引起し):荷重倍率3.5 安全率1.8 |
この条件が三菱と中島に対する正式な要求書となりました。
三者の記録は過不足がありますがおおむね一致しています。
ただエンジンに関しては明確な違いがあります。
「零戦 その誕生と栄光の記録」では「十二試艦上戦闘機計画要求書」はかなり読みやすく書き換えられているので、ちょーっとここで「金星」と「瑞星」のどっちかって書いているのは疑わしいです。
しかしそれよりももっと大事な違いがあります。
それは一番最初の「用途」で、堀越著書では掩護戦闘機として云々とありますが、曾根資料ではその表記はなく、前年の性能標準のままです。
【零戦】の在り方を決定づけた重要な要素がここで食い違っているのはいったいどういうことでしょうか。
この謎は翌年1月17日に開催された「十二試艦戦官民合同研究会」にて明らかにされます。
資料全文を書くとさすがに長文なので、肝心な部分だけ抜粋します。
十二試艦戦計画要求補足事項
1.目的:攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃討に適すること(同時に戦闘機との空戦に於いて優越する艦上戦闘機なるを要す)
4.性能:(2)要求速力及び上昇力を略々(ほぼほぼ)満足せば航続力の向上を計ること。
つまりここにきて初めて敵戦闘機を倒すための能力と、航続距離はできるだけ伸ばしてほしいということが要求されたわけです。
そして同時にここから速度>航続距離という優先順位もはっきりします。
恐らく堀越技師の著書ではこの2つの要求をまとめて表しているのでしょう。
堀越技師はこの補足を含めた要求に対して「この要求書は、当時の航空界の常識では、とても考えられないことを要求していた。もし、こんな戦闘機が、ほんとうに実現するのなら、それはたしかに、世界のレベルをはるかに抜く戦闘機になるだろう。しかし、それは全くむしのよい要求だとも思われた。」と述べており、つまりこの要求がもし達成されれば、それは間違いなく世界最強の戦闘機に他ならないということです。
ただ、この要求の前、具体的には昭和11年/1936年5月に海軍は三菱と中島に対してヒアリングを行っていて、海軍が居丈高に何も言わせねぇと要求書を押し付けてきたわけではありません、無茶は言ってますが。
中島は【九六式艦戦】で三菱に敗北したものの【九七式戦闘機】では勝利、そしてこの【零戦】は双方全金属単葉機の経験を得てから初めての対決となったのですが、この海軍の要求に対して中島は開発を途中で断念してしまいます。
逆に三菱は少し前から進んでいた「十一試艦上爆撃機(九九式艦上爆撃機)」の試作を中止してこっちに集中することにしました。
海軍の要求は、簡単に言うと
1.航続距離(対空時間)をめっちゃ伸ばして(燃費向上、燃料タンク増強)
2.上昇力高めて(出力向上)
3.速度上げて(出力向上)
4.運動性能は【九六式艦戦】より落ちちゃダメ(重量増を極限、操作性の向上)
というものです。
これらはいずれも他の要素を阻害する要求で、
・高速化を求めればエンジンが大型化し、主翼も広くなるため運動性能や空気抵抗、航続距離に影響が出る(そもそも日本のエンジン開発は歴史も浅く馬力に限界がある)
・航続距離を伸ばすためには抵抗を少なくして燃料を多く搭載できるようにする必要がある。そのためには機体の大型化により最高速度や運動性の犠牲が伴う。また抵抗を減らすために主翼が細長くなり高速性を阻害する
・運動性を高めるには機体を小型化し、翼面荷重を減らす必要があるが、そうするとエンジンサイズや搭載燃料を制約し、加えて空気抵抗が増えるので最高速度や航続距離が落ちる
など、あちら立てればこちらが立たぬという事態になるわけです。
特に昭和11年の性能標準ではなかった「掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え」という目的、すなわち長大な航続距離が強烈な足かせとなりました。
これがなければ【零戦】の活躍はなかったでしょうが、これがなければ【零戦】設計に多少の余裕があったこともまた事実です。
まず掩護戦闘機と迎撃戦闘機は役割が異なります。
掩護戦闘機は護衛ですから、守護対象の航空機が別に存在し、その大半が爆撃機や攻撃機です。
後述することにも関連しますが、この敵を直接攻撃する機体と同じ航続距離は必須です。
一方で迎撃機は攻めてきた敵を倒すのが仕事ですから、航続距離は大した事がなくてもいいわけです。
なので迎撃機(局地戦闘機)は運動性や最大速度、上昇力にリソースを割いて、航続距離は捨ててもいい項目でした。
ですがこの要求だと、最強の迎撃機の航続距離を伸ばせと言っているようなものなので、度外視されていた項目を最高レベルまで引き揚げるとなるとそりゃ大変なわけです。
あまり話題になりませんが、この全体的な【十二試艦戦】の要求は、果たして何を未来に見てなされたのでしょうか。
確かにこの性能、「日華事変」にはマッチしましたし、どころか太平洋戦争でも特に前半において大半の性能は有利に働きました。
しかし一方で世界の潮流はエンジン出力の大幅な増加であり、日本で言えば空冷エンジンの大型化は避けられませんでした。
防弾性はまだしも世界の戦闘機の歴史や最新開発機を見ても、流れは高速化、そして機銃数の増加でした。
果たしてこの要求はこの潮流に追いつこうとして出されたものか、はたまたこの流れには乗らず独自の特色でこれらに対抗するという決意のもとで出されたのか。
そして対中戦を意識したものか、対米戦を意識したものか。
蛇足でしたが、艦船では世界でも三本の指に入った日本ですが、車輌はひよっこ、航空機も独り立ちはできましたが【九六式艦戦】でも格闘性能だけは高いものの世界がビックリするほどではない状態で、世界の航空機開発にこれ以上溝を開けられてはならないという危機感から、要求はどうしても過剰になってしまったのです。
事実、日本では【九六式艦戦】は次世代への入り口となった革新的な戦闘機でしたが、同時期に初飛行を果たしたアメリカ海軍の【F3F フライングバレル】には相手が複葉機であるにもかかわらず最高速度で劣っており(【九六式艦戦】406km/hに対して【F3F】425km/h)、武装も航続距離も同じく敗北。
ですが作る側からしたら、次の戦闘機は何でもできるスーパーマンにしてほしいという要求だったので、嘆息しか出ないわけです。
堀越技師は設計1年、試作6ヶ月、1年で試験と改造、最後の6ヶ月で量産体制の構築という、足掛け3年の事業だと計算してこの超難題に取り組みました。
ひとまず三菱はこの要求を持ち帰り研究を進めましたが、この跳躍的な要求の裏には、日本が陥っていた新たな問題が大きく関わっていました。
この計画要求書が出される数ヶ月前、7月から「日華事変」が勃発しました。
そしてこの「日華事変」前から、爆撃機の性能が向上し、武装した爆撃機に対しては身軽な戦闘機であっても対抗できないのではないか、という「戦闘機無用論」が世界で議論され始めていて、日本も理由は様々あるものの戦闘機の重要性が低下していました。
その中で【九六式陸上攻撃機】は航続距離の短い護衛の【九六式艦戦】を就けずに渡洋爆撃を実施します。
その後も【九六式陸攻】による単独の爆撃や、空母から護衛を付けずに【九四式艦上爆撃機】【九二式艦上攻撃機】で空襲を実施しましたが、ところがどっこい「戦闘機無用論」なんて机上の空論で、そこそこ丈夫で速いし大丈夫だと思っていた【九六式陸攻】がかなりの被害を出してしまいました。
中国が保有するソ連製の【I-15】【I-16】は最新ではありませんでしたが数はちゃんと用意されていて、練度の差はあれど護衛がないのであれば別に防弾にリソースを割いていない爆撃機ぐらい難なく落とせるわけです。
艦爆艦攻ももちろん護衛がない中で敵戦闘機に突っ込むわけですから無事で済むわけがありません。
これにより「戦闘機無用論」は勢いを失い、一方で【九六式艦戦】に足りない航続距離を強化した新しい戦闘機で長距離移動をする陸攻を護衛する必要に迫られたのです。
ただこの航続距離要求と【九六式陸攻】の被害増大はタイミングこそほぼ同時期ですが、戦闘機の航続距離はもっと前からいずれ増やさねばならんと話し合われていたので、たまたま状況と要求がマッチしただけとも言われます。
昭和13年/1938年4月13日、すでに要求書が提示されてから半年が経過しており、「十二試艦戦計画説明審議会」の場で堀越技師は「格闘力」「速度」「航続距離」のうち優先すべきものを1つ上げてほしいとお願いします。
曾根技師の資料を加味して考えると、海軍としては少なくとも速度>航続距離であることははっきりしていました。
それでもあえて問うたのは、やはりもともとが相当難しい要求のため実戦経験者の意見で踏ん切りをつけたいという思いがあったのかもしれません。
航空廠実験部の柴田武雄少佐は、現地での経験から航続距離の延長を強く訴えます。
結局足が短ければ戦闘機も護衛の役目を果たせないのが現実で、そしてこの航続距離不足によりどれだけの仲間と機体を失ったかは身を持って知っている、どれだけ格闘性能が高くても宝の持ち腐れであるという主張です。
柴田少佐は【九六式艦戦】以上の格闘性能はパイロットの腕で補うとし、腕ではどうにもならない航続距離や速力アップを【零戦】に求めました。
一方で第二連合航空隊航空参謀の源田実少佐は、すべてを強化してほしいがあえて1つとなると格闘性能だ、他は我慢しなければならないと訴えます。
これで双方要求する内容が真っ二つになってしまい、堀越技師は頭を抱えます。
別に2人がいがみ合っていたわけではありません、むしろ2人は同期でお互いに切磋琢磨し合い、戦闘機乗りの双翼とも言える存在でした。
そんな2人でも意見が綺麗に分かれるということは、【九六式艦戦】は過去最高の出来であったものの、戦訓や今後の展望を鑑みるとすべてがあと一歩足りない性能だったことがわかります。
ただ別の視点を入れてみると、この2人の言葉はいずれも「日華事変」対応機であり、果たしてこれが「新型艦載機」としてもっと広い視野で述べたものかと言われるとNOになるでしょう。
今になって振り返ってみれば柴田少佐の言葉のほうが戦闘機の行く末を捉えていたのですが、残念ながらこれは機体の設計を行う面々に訴えてもどうこうできるものではなく、エンジン開発の問題でしたし、速度重視の設計になっていても「金星」より「栄」のほうがトータル面で勝っていたので限界は一緒だったでしょう。
この他前線部隊の第十二航空隊から「空戦最重視、航続距離は短くてもいい、重たくて初速が遅く、精度の悪い20mm機銃は要らないから機銃の数を増やしてほしい」という要求もありましたが、ここまで整えてきた設計に自信を持ちつつあった堀越技師は海軍を説得。
海軍も機銃の件はともかく航続距離の短縮は以ての外だったので、今の設計を維持完成させることで同意を取り付けました。
幸か不幸か【零戦】が終戦まで戦い続けることができたのはこの20mm機銃の存在もかなり大きいので、ここで20mm機銃を降ろさなかったのは正解でした。
多機銃化はアメリカやイギリスが採用しているので現場の声は戦況とマッチしていたかもしれませんが、馬力の乏しい日本の戦闘機が機銃まで貧弱にすると【隼】のように後々苦しい戦いになったことでしょう。
昭和14年/1939年3月16日、相当な難産となった【十二試艦戦】の試作1号機が完成します。
この【零戦】のたまごについて、大きく「エンジン」「軽量化」「設計」の3項目について説明いたします。
エンジン、プロペラ
ここからは制式採用された機体として【零戦】を指す場合を除いて【十二試艦戦】と呼称します。
日本の技術力で世界の進化スピードについていくことができていなかったエンジン開発ですが、当然航空機だけでなく車輌に搭載するエンジンの性能も貧相なものでした。
この点は結局最後の最後まで解消されず、離昇2,000馬力の「誉」は安定感に欠け、「ハ43」は量産前に戦争が終結し、運用実績が豊富な高馬力エンジンは「金星六二型」の離昇1,500馬力が最大でした。
堀越技師は「ないものねだり」と口にはしましたが、彼が【十二試艦戦】を作り上げる上で最も重要だと考えたのはエンジンとプロペラでした。
つまり設計側ではなく搭載するマシンがこの機体の実現可能不可能を分けると考えていました。
ということは、超難関ではあるもののエンジンとプロペラがちゃんと揃えばこの要求は不可能なことではないという自信を持っていました。
さて、【九六式艦戦】は搭載エンジンが競合相手である中島の「寿」でしたが、最多生産となった四号に搭載されている「寿四一型」が650馬力でした。
一方でチラッと出てきた【F3F】は最新機が950馬力のエンジンを積んでいて、やはり性能の差がありました。
最大速度500km/hとなりますと、エンジンの出力は妥協する余地がありません。
とはいえ実はこの最大時速500km/hという数字、中島が辞退する前に280ノット(518km/h)で見積を出しています。
世界最高レベルのを速度をなんていわれたそれこそ無茶です、580km/hぐらいはいります、当時のエンジンじゃ絶対無理。
もちろん「栄」を搭載することが前提になっていますが、この500km/hという数字は、優先度は航続距離よりも高く簡単には届かないけど、ちゃんと実現可能な範囲の速度だったことがわかります。
当時の三菱には「瑞星」と「金星」があり、どちらのエンジンにするか検討したみたいな書かれ方の資料もありますが、すでに書きましたがちょっとこれは怪しい。
海軍の中では「瑞星」と「栄」の比較検討を行っていたので、選択権が三菱にあった可能性は低そうです。
ひとまず選択肢があったとして、最大出力は「瑞星」より「金星」のほうが上回っていました。
しかし「金星」はでかいという問題がありました。
三菱製の【九六式陸攻】には「金星」が使われていますが、これは当然機体がでかいから搭載できるのであって、艦上戦闘機という運用と求められた性質上、この「金星」を【十二試艦戦】に搭載するのは設計に大きな影響をもたらすことははっきりしていました。
空冷エンジンはエンジンを冷やすために直径を大きくせざるを得ませんが、そうなると機体のサイズも大きくなり、空気抵抗も重量も大きくなり、それを支える部材の数も増えるなど、エンジン本体の重量の何倍もの差が生まれます。
抵抗が大きすぎるとせっかくの馬力増も相殺されるので、本当に無駄にでかくなるだけになります。
「金星」を搭載したら機体の重量は3,000kg程度になると想定され、【九六式艦戦】の1,600kgに比べて倍近くなります。
これでは機体の運動性もパイロットの操作性も明らかに落ちてしまいます。
一方「瑞星」ですが、これはもともと戦闘機などの小型機の為に設計されたエンジンでしたから、【十二試艦戦】向けのエンジンとも言えます。
最大出力は当然「金星」には劣るものの、概算では「瑞星」搭載機の重量は2,300kgと、【九六式艦戦】と比較して700kg増、逆に「金星」搭載に比べても700kg減と、見事に中間になっています。
「金星」を搭載するよりもバランスに秀でるため、【十二試艦戦】の設計は「瑞星」を搭載することで決定しました。
馬力不足は設計で補うという決意の表れとも言えますが、この判断が成功だったか失敗だったかは今でも議論の種になっています。
「瑞星一三型」は離昇780馬力を発揮する一般的な空冷星型エンジンで、【九六式艦戦四号】の「寿四一型」が空冷星型9気筒に対し、「瑞星一三型」は複列星型14気筒と、シリンダーの数が多くなっています。
そして星が2列並ぶわけですから当然全長は単気筒のエンジンよりも長くなるわけです。
空冷エンジンは構造が単純で、乱暴に言えば気筒が増えれば増えるほど馬力が出ます。
二重から4列、14気筒や18気筒といった感じで星型エンジンは進化をしていきました。
【富嶽】の元となる【Z機】の設計案では空冷4列星型36気筒の「ハ五〇六型」というエンジンの計画も立っていますし、三菱も【富嶽】用として星型「ハ五〇」という二重星型22気筒というエンジンを実際に完成させています(現存)。
話が逸れましたが、エンジンの出力を無駄なく発揮させるために、プロペラには可変ピッチプロペラを採用するように海軍から指示がありました。
可変ピッチプロペラとは、車のギアシフト(マニュアル車の1速、2速など)と同じ役割を持つもので、速度に合わせてプロペラの角度の浅い深いを自動で調節する機能を持ったプロペラです。
これまでの固定ピッチプロペラだと、プロペラの角度は最大速度発揮時に合わせて作られているため、逆に言えば最大速度じゃないときのプロペラ設計とエンジン出力はかみ合いません。
それぞれの速度に合わせたプロペラ角度をつくり出すことでエネルギーの浪費や不足を防ぐための機能で、激しい運動や頻繁な速度の増減がある戦闘機にとっては必須と言ってもいいプロペラです。
手動で変更させることももちろんできますが、それは理論上可能なだけであって戦闘などコンマ何秒の戦いの中では全く現実的ではありません。
これはアメリカのハミルトン・スタンダード社製の製品を住友金属工業がライセンス生産したものです。
そしてすでに【九七式艦上攻撃機】でも採用されていた技術だったので、採用の障害もありません。
こうして設計陣の手が及ばないエンジンとプロペラにはちゃんと目途が立ちました。
ちなみにこの可変ピッチプロペラ、日本はこれで技術を学び、純粋な日本産プロペラを量産することができないまま終戦を迎えてしまいました。
フランスやドイツからの技術を取り入れたりしたものの、フランスのラチエ式プロペラが数例あるだけ、結局日本国として開発したプロペラは誕生せず、終戦後に住友金属工業がハミルトン社にライセンス料を払うと言ったら「1ドルでいいぜ」と請求書が届いた、なんて話もあります。
この1ドルについてはいろんな解釈がありますが、どちらにしてもプロペラ1つとってみても日本の海外技術依存度の高さがうかがえます。