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局地戦闘機 『震電』/九州
Kyushu J7W

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十八試局地戦闘機震電
全 長 9.760m
全 幅 11.114m
全 高 3.920m
主翼面積 20.500㎡
自 重 3,525kg
飛行時間 巡航2時間+全力30分
発動機
馬力
空冷複列星型18気筒「ハ43 四二型」(三菱)
1,660馬力
最大速度 750km/h
武 装 30mm機関砲 4門(胴体)
30kgまたは60kg爆弾 4発
符 号 J7W1
連 コードネーム
製 造 九州飛行機
設計者 鶴野正敬
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日本の革命機は一介の大尉の発想から 完成目前だった震電

昭和18年/1943年、太平洋戦争が開戦してから1年以上経過するにも関わらず、日本の戦闘機は未だに【零式艦上戦闘機】が主力であり、さらに後継機【烈風】の開発は行っていたもののその投入の目処は以前立たないままでした。
海軍航空技術廠鶴野正敬大尉は、現状打破のための革命的な機体を開発する必要があると独自で研究を重ねていました。
その革命的な機体とは、「前翼型飛行機」
これまで当然のように、プロペラががついているのが前で水平尾翼がついているのが後ろという認識だった飛行機ですが、この鶴野大尉が構想を立てたのはこれをひっくり返すという驚きの発想でした。

通常の航空機はコックピットの下辺りまで、つまり機体の前部に色んな要素が詰め込まれています。
プロペラ、エンジン、操縦席、爆弾や魚雷、燃料タンク。
一方後ろはと言うと、バランスをとるための胴体と水平尾翼のみ。
後ろのスペースはバランス以外の活用はなされていませんでした。

鶴野大尉はここに目をつけます。
後ろのスペースを有効活用すれば機体はもっと小型にできるし、そうすれば空気抵抗も重量も軽減できて、速度も上がり小回りも効く。
【零戦】どころか世界の戦闘機を過去のものにできる。
鶴野大尉の野望は、とてつもなく壮大な機体を生み出す可能性を秘めていました。

そしてこの野望は何も夢物語ではありませんでした。
機体の構造は別として、まずプロペラを後ろにつける推進式は飛行機誕生時からあちこちで採用されていた手法でした。
技術の向上によって、特に軍用機では牽引式のメリットが高まったために採用されるケースは極稀になりましたが、日本でも【閃電】が研究されたように、推進式の潜在能力はまだ世界では測りかねている状況でした。
そしてそれは世界も気づいていて、しかし前翼型の研究はどこの国でも苦戦を強いられ、諦めてしまったのです。

当然日本でもこのような世界の頓挫を例に上げ、前翼型の開発に否定的な意見が出ました。
しかし【烈風】は果たしていつになったら【零戦】に置き換わるのか不透明、そしてこの時期は【強風】から「紫電・紫電改」が誕生しつつあったものの、あくまで【紫電】はつなぎという認識もあり、やはり本格的な後継機の配備は不可欠でした。
鶴野大尉の構造の説明も説得力があるものだったようで、最終的には大多数の賛成を得て【震電】は誕生の足がかりを掴みます。

機体の絞り込みなどの空気抵抗の軽減を進めた結果、昭和18年/1943年8月に風洞実験を始め、滑空実験などの試験を順調にクリアした【震電】は、昭和19年/1944年2月に試作機の製造が決定。
滑空実験には実験用のグライダーに鶴野大尉自らが搭乗しました。
製造には九州飛行機が協力することになり、ここで要求性能の詰めが行われたあと、早速試作機の製造が始まりました。

【震電】の最大の目的は、日本に数多の爆弾を投下した超空の要塞【B-29】の撃墜にほかなりません。
【B-29】は四発機で上空10,000m超を快適に飛行する超大型爆撃機です。
これを落とすには、強力な武装、敵護衛機を凌駕する速度が必定です。
最高速度は400ノット(740km/h)を目標とし、鶴野大尉は風呂場でいつも「400ノット!400ノット!」と掛け声をかけながら背中を流していたと言われています。

小型化はすでに完了してるため、あとはこの速度を出す上で欠かせないエンジンの採用です。
中島飛行機の「誉」の不安定さは如何ともしがたい中、中島に遅れを取っていた三菱がようやく「ハ43」を完成させたので、【震電】にはこの2,100馬力の「ハ43-42型」が採用されました。
このエンジンはプロペラに近い後ろの胴体やコックピットの下につくのか、と思いきや、エンジンは翼の上に収まる構造になっていて、そこから延長軸を通してプロペラを回していたそうです。
このエンジンは空冷式だったため、空気の取り込み口が翼の付け根に大きく開けられています。
しかしこれだけでも冷却は間に合わなかったため、強制冷却ファンや排気路を通じることで冷却性能を補っています。

武装は強力な30mm機銃を4門前部胴体内に用意し、【B-29】でも確実に致命傷が与えられるようになっていました。
【B-29】には護衛の戦闘機としてよく【P-51 マスタング】が就いていましたが、【震電】はこれよりも速い速度が出せることがすでにわかっています。
戦法としては、10,000m超を飛行する【B-29】を更に高い高度12,000m以上の高さから一気に降下して襲撃。
追いかけてくる【P-51】を振り切ったあと、今度は正面から襲いかかるという手法でした。
(高度12,000mからの急降下って、当時の日本のコックピット環境でパイロットは耐えれるのでしょうか?)

プロペラは当初6枚羽だったのですが、構造の複雑さから量産に不向きとのことで、量産型では羽の面積を1.5倍にして4枚羽になることが決まっていました。
量産性の向上という面では、主脚は【彩雲】のものを、前脚は【景雲】のものを、また厚板を採用してリベット打ちの工数を【零戦】の1/2以下までに抑えるなど、随所に合理性を高めた設計が施されています。
また機銃もユニット式だったため、戦況や新開発によって武装を変える必要が出てきても改修が容易にできるようになっていました。

推進式独特の構造はやはり後ろにプロペラがある点が挙げられますが、この構造は飛行中に何か機体から離れたときにプロペラに接触する危険性があります。
例えばパイロット。
操縦不能や炎上によって脱出しなければならないとき、パイロットは当然パラシュートを背負って緊急脱出を行います。
しかし最高速度は700km/h以上です、単にボタンを押して脱出したら、押した瞬間に後ろから突っ込んでくるプロペラによってパイロットは切り刻まれます。
そうならないために、なんと機体の中にはプロペラを破壊するボタンが別で用意されることになっていました。
また機銃掃射によって発生する薬莢などもプロペラにあたってしまうため、それを収納するスペースも用意されていました。

今までの飛行機とは一線を画す異形の革命機は、昭和19年/1944年4月から本格的に作業が始まります。
九州飛行機は九州中から人という人をかき集め、製図や工場ラインの整備、部品調達など急ピッチで製造の準備に取り掛かります。
戦中にあって、いくら主要メーカーより時間があるとはいえ、通常1年半かかる製図を半年で書き上げてしまい、更にそこから量産性を高めるために調整を行いました。

しかし12月の本土空襲によって、【震電】搭載予定の「ハ43-42型」を製造していた三菱名古屋工場が完全に破壊されてしまいます。
三菱はこの頃同じく「ハ43-42型」を独自に搭載させた【烈風】の量産化に向けて動いていたところで、この空襲はとてつもなく痛い被害でした。

翌年からは工場が多い九州でも空襲が増え始め、九州飛行機も工場を疎開させ、夜中に牛車で部品を運搬するなど、苦しい環境の中必死に製造にあたります。
そしてついに6月、待望の試作1号機が誕生。
しかし7月の飛行試験では鶴野大尉が操縦桿を握ったのですが、機首を上げすぎたためにプロペラが地面に接触してしまい破損。
プロペラは至急2号機用に用意されていたものと取り替えられ、8月3日に再び飛行試験を実施します。
これは見事成功し、鶴野大尉【震電】がついに海軍待望の次世代戦闘機として羽ばたくと万感の思いだったに違いありません。

しかし6日、8日の飛行試験ではエンジンに不調が発生し、三菱に事態を報告。
三菱からの回答は、ありませんでした。
太平洋戦争の終戦、日本の敗北が決まったからです。
世界中のどこの国もなし得なかった前翼型の戦闘機【震電】は、海軍史上でも戦中開発機体としては珍しく順調だったにも関わらず、誕生目前にして道は閉ざされてしまいました。

夢のない話ではありますが、当時の日本で【震電】の製造が完了し、量産化して戦場に赴いたとしても、当時の戦況や日本の資源の問題などから、果たしてどれだけ活躍できたかと言われ得ると、あまり評価が高くないのが現状です。
「誉」と違い「ハ43-42型」は現場の評価もよく、設計時に問題となったエンジンの冷却もなんとかなったようですが、逆にオイルの温度が下がりきらないという事態が発生。
プロペラをかばうための長い降着装置(脚3本)や、かなり重たい30mm機銃(3mもあります)を始めとした特殊構造ゆえの新装備や新構造。
それ故、機体の大きさは小さくできましたが、意外と重量は落ちきっていないこと。
また飛行可能時間は2時間+30分(装備で結構な差が出る)となっていますが、燃費はかなり悪かったらしく、数字通り飛び続ける事は無理だったでしょう。
プロペラが地面に近づくために荒れ地の離発着は接触の危険性があり、整備された環境下での使用に限られそうなこと。
【震電】は量産されるようになったとしても、まだまだ乗り越える壁はあったと想定されます。
しかし同時期に開発されていた【秋水】に比べれば、まだ随分と実現性の高い機体だったでしょう。
速度面に関してはそれこそ爆発的な速度を発揮できたことは(燃料の性質次第ですが)想像に固くなく、日本の未来を託された革命機の1つであったことは間違いありません。

ちなみに「陸上攻撃機 橘花」同様、ジェットエンジンを搭載した【震電改】という構想があったという話もありますが、【震電改】は本当に噂程度の話であって、実際に飛行に成功した【橘花】とは全然状況が違うため、お間違いなく。

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