陸上攻撃機 『深山』/中島 G5N

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十三試陸上攻撃機「深山」
全 長31.015m
全 幅42.135m
全 高6.130m
主翼面積201.800㎡
自 重20,100kg
航続距離3,528km
発動機
馬力
空冷複列星型14気筒×4「火星一二型」(三菱)
1,380馬力×4
最大速度392km/h
武 装7.7mm機銃 4挺
20mm機関砲 2門
爆弾60kg24発、250kg12発、800kg4発、1500kg1発  いずれか
符 号G5N1
連 コードネームLiz(リズ)
製 造中島飛行機
設計者松村健一

その他の型式

十三試陸上攻撃機「深山」改
全 長31.015m
全 幅42.135m
全 高6.130m
主翼面積201.800㎡
自 重約24,000kg
航続距離4,190km
発動機
馬力
空冷複列星型18気筒×4「護一一型」(中島)
1,720馬力×4
最大速度420km/h
武 装7.7mm機銃 4挺
20mm機関砲 2門
爆弾60kg24発、250kg12発、800kg4発、1500kg1発  いずれか
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失敗作を参考にして作られた失敗作 初の四発機 深山

1930年代から世界各国の航空機は目覚ましい発展を遂げ、特に大型の航空機の開発が活発になってきました。
日本は「ロンドン海軍軍縮会議」によって保有に制限がかけられた空母の代替として、陸上から長航続距離を持って敵艦船などを攻撃するための、全く新しい陸上攻撃機の開発に取り組み始めます。
それが「九六式陸上攻撃機」であり、そしてその後に製造される「一式陸上攻撃機」です。
しかしその設計の段階で、日本はこれら2種類は中型陸上攻撃機とは別に、更に大型の、四発機である大型陸上攻撃機の配備も行うことを決定していました。

実は日本はこの「九六式陸攻」よりも前に大型の「九五式陸上攻撃機」を完成させていましたが、これは「九六式陸攻」同様双発機で、しかもその巨体を支えるエンジンが存在しませんでした。
やがて「九六式陸攻」が優秀な機体として誕生する目算がたったため、結局「九五式陸攻」は8機の製造に留まりました。

この失敗と、「九六式陸攻」が中型となる以上、大型機はやはり四発機ほどの規模でなければならないため、日本は航空機開発に先んじているアメリカからこっそりと技術を盗み出すことにしました。
昭和12年/1937年、軍としてはすでにアメリカとの睨み合いが始まっていたために表立った輸入はできなかったため、民間の大日本航空を隠れ蓑としてアメリカから「ダグラスDC-4E」を入手しました。
「DC-4E」は当時アメリカも開発途中の最新の航空機で、完成した1機を分解することで、アメリカの一級品の技術を日本の航空機に活かす算段でした。
「DC-4E」を元とした日本初の四発大型陸上攻撃機の開発は、中島飛行機に委ねられます。
試作機の名前は「十三試大型陸上攻撃機」となりました。

「DC-4E」は飛行試験と分解によって日本に様々な衝撃をもたらしました。
特に日本は四発機の製造は初めてだったので、この重量を安定的に支えている高圧油圧制御装置の採用が不可欠であることを痛感します。
中島はこの高圧油圧制御装置の開発と同時に、この「DC-4E」を陸上攻撃機へ転用するための設計を始めます。
エンジンは当時出力が最大だった中島の「護」以外に考えられず、燃料タンクや爆弾倉、機銃の設置など、重量は明らかに「DC-4E」よりも増大するため、低翼だった翼は中翼へ改変、また垂直尾翼は3枚から2枚へと減らされました。

いくらお手本があるとは言え、あまりにも大きなサイズであることと同時に、初の四発機であることから、開発にはずいぶん時間がかかりました。
試作機ができあがったのは昭和16年/1941年。
であるにも関わらず、心臓部のエンジンは「護」の製造が間に合わず、1号機、2号機には出力の足りない三菱の「火星」が代わりに組み込まれていました。
「護」が内蔵されるようになったのは試作3号機(「深山改」)からです。

ところが試作機が完成した「深山」の性能は、とても許容できるものではありませんでした。
まず「護」がスペック通りの出力を発揮できない、振動が大きすぎる、高圧油圧制御装置が故障続発、運動性が壊滅的、計画の2割増しの重量、この重さを支えるための部品が揃わない、そしてこの大きさで魚雷を叩き込む攻撃機であること。
大きさは「B-29」と同じぐらいなのに、「B-29」は超超高度飛行による爆撃、一方「深山」はある程度目標に接近してして魚雷を投下する運用方法でした。

さらに一番の問題は、この「DC-4E」そのものがアメリカでは完全にお蔵入りとなった失敗作だった点でした。
アメリカでもこの「DC-4E」はあまりにも重量過多、そしてやはりそれに見合ったエンジンと複雑過ぎる構造で、使い勝手が悪すぎたようです。
それを初めて四発機を製造する日本がお手本にするのですから、それは成功するわけ無いだろうということです。
「馬鹿鳥」という渾名が付けられた「深山」は、最終的に6年間も時間を費やしましたが、たった6機の製造で終わってしまいます。

後ほど、とても戦闘に使える機体ではなかったものの、この大きさだけで見れば若干の活用方法があるということで、「深山」は魚雷やエンジン、貨物運搬、また単に輸送機として使いまわされるようになりました。
最終的には2機だけが終戦を迎えています。