
九七式軽爆撃機 |
全 長 | 10.34m |
全 幅 | 14.55m |
全 高 | 3.65m |
主翼面積 | 30.6㎡ |
自 重 | 2,230kg |
航続距離 | 1,700km |
発動機 馬力 | 中島「ハ5」空冷星型複列14気筒 850馬力 |
最大速度 | 423km/h |
武 装 | 7.7mm機銃 2挺 最大450kg爆弾 |
連 コードネーム | Ann(アン) |
製 造 | 三菱重工業 |
設計者 |
堅実さと新しさを 進化した軽爆撃機は星条旗に飲み込まれる
1930年代前半、陸軍には当時「キ3/九三式単発軽爆撃機」と「キ2/九三式双発軽爆撃機」の2機種が軽爆撃機として存在していました。
「九三式双爆」はドイツの「ユンカースK37双発軽爆撃機」をほとんど丸々コピーした機体でしたが、元がよかったため陸軍もおおむね満足していました。
しかし「九三式単発軽爆」は旧式の複葉機でかつエンジン回りのトラブルが多発。
製造数は「九三式単発軽爆」のほうが多いのですが、陸軍としては重爆の補助となる軽爆の戦力不足を嘆いていました。
そんな中、陸軍は昭和10年/1935年に軽爆の位置づけを「主として敵飛行場にある飛行機並びに大なる威力を要せざる諸施設の破壊に用うる」爆撃機とし、かみ砕けば「敵飛行機と、ちょっとした爆撃で壊れそうな施設を壊す爆撃機」ということです。
まさに軽爆撃機という呼び名に相応しいわけですが、これに伴って旧式化している爆撃機の後継機種の誕生を望みます。
このコンペに参加したのが、立川飛行機の「キ29」、三菱重工業の「キ30」、中島飛行機の「キ31」、川崎航空機の「キ32」の4社4機種です。
このうち「キ29、キ31」が基礎設計審査の段階で脱落となり、そして最終的には「キ30」が「九七式軽爆撃機」として採用されることになりました。
ちなみに液冷エンジンを搭載する「キ32」も、その後の「支那事変(日中戦争)」勃発による軽爆撃機需要の急騰によって製造が決定され、「九八式軽爆撃機」として誕生しています。
さらにちなみに、エンジン不良を引き起こしている「九三式単発軽爆」もまた、川崎の液冷エンジンでの設計機です。
「九七式軽爆」は、同時期に陸軍に提出することになっていた、速度最重視の「キ15/九七式司令部偵察機」の設計をうまく取り入れ、外見は類似点が多数見られます。
「九七式司偵」は最高速度480km/h(二型は510km/h)という当時としては破格の快速であり、その設計は当然流用するに値するわけです。
胴体内爆弾倉を抱え、可変ピッチプロペラを採用し、丈夫な機体は爆弾を軽くすれば急降下爆撃も可能とするもので(行う機会そのものが多くないですが)、「キ15」の流用という手堅さと軽爆撃機としての新しい試みを加えた軽爆でした。
試作1号機は昭和12年/1937年2月に完成。
試作機審査中に日本は「支那事変」に突入したため、その時点で大きな問題のなかった「九七式軽爆」は新たに16機の増加試作機が用意されることになり、審査が急がれました。
それでも制式採用されたのは昭和13年/1938年6月とそこそこ時間はかかっていて、実はこの僅か2ヶ月後に「九八式軽爆」も制式採用されてます。
陸軍が慌てていたのが非常にわかりやすいです。
制式採用前の3月から徐々に実戦配備されていった「九七式軽爆」ですが、元の「九三式単発軽爆」に比べると雲泥の差で、現場では安定していて故障も少ない「九七式軽爆」は大変ありがたい存在となりました。
ですが、使っていくうちにちょっとずつ問題が出てくるようになります。
まず胴体内爆弾倉は小型の軽爆のスペースを多くとります。
この影響でコックピットの前席と後席の距離が開いてしまい、前後での緊密な連絡が取れなくなってしまいました。
単発爆撃機は基本2人乗りですが、特に爆弾投下のタイミングなどは2人の物理的・精神的距離感が非常に重要になってきます。
そこで障害が出るというのは爆撃機としては見逃せない問題点でした。
また、軽爆撃にしては少し大型で、特に幅は「九三式単発軽爆」に比べると約1.5mも大きくなっています。
速度は423km/hと、260km/hの複葉機である「九三式単発軽爆」とは比べるまでもないのですが、その代わり運動性が思ったほどよくないという声があり、使いやすいけど注文は付けたい、結局は及第点という評価になってしまう機体のようです。
あと、三菱にとっても1つ不満がありました。
エンジンが自社のものではない点です。
エンジンは中島の「ハ5」が採用されています。
これは同時期に陸軍が開発を指示していた「キ21/九七式重爆撃機」とまったく同じ事態で、「九七式重爆」もまた、三菱の機体に中島のエンジン「ハ5」を搭載しているのです。
もっとも「九七式重爆」では双発が原因なのか「ハ5」がなかなか不機嫌で、最終的に三菱がのちに開発したエンジン「ハ101」を搭載するという対処が取られています。
「九七式軽爆」はずっと「ハ5」のままですが、こちらでは「ハ5」に悪影響をもたらすことはなかったようです。
「九七式軽爆」は、基本的に空戦では優勢だった「支那事変」では戦闘機の護衛もあってしっかりを任務を果たしています。
しかし中国への後方支援が活発化した上に太平洋戦争勃発による対米戦が繰り広げられるようになると、「九七式軽爆」の活躍の場は途端に縮小していきます。
もともと運動性能が問題と指摘されている「九七式軽爆」が戦闘機に捕まると、全然勝ち目がないのです。
それを防ぐのが護衛の戦闘機なわけですが、特に制空権が拮抗、そしてアメリカに渡るようになると「九七式軽爆」はいい獲物になり下がってしまいます。
同時に軽爆撃機の力そのものも対米戦では完全に無力となっていき、「九七式軽爆」は戦場から姿を消していきました。
最後には特攻機にも使われたりしていますが、特攻機の中でも殊更鈍重だった本機の戦果は幾許もなかったと思われます。
「九七式軽爆」は三菱で636機、立川でおよそ50機生産されたと記録されています。