【キ48】九九式双発軽爆撃機/川崎

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九九式双発軽爆撃機二型甲
全 長12.75m
全 幅17.47m
全 高3.80m
主翼面積40.0㎡
自 重4,550kg
航続距離2,400km
発動機
馬力
中島「ハ115」空冷星型複列14気筒×2
1,150馬力×2
最大速度505km/h
武 装7.7mm機銃 1挺
7.92mm機銃 2挺
500kg爆弾1発
連 コードネームLily(リリー)
製 造川崎航空機
設計者土井 武夫
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戦闘機なみの性能を持つ爆撃機 後継が続かず終戦まで厳しい戦い

陸軍は「キ3/九三式単発軽爆撃機」の後継機種として、三菱「キ30/九七式軽爆撃機」、そして急遽「キ32/九八式軽爆撃機」を開発してそれぞれ「支那事変(日中戦争)」へ投入していました。
しかしこの時、陸軍が保有していた旧式軽爆撃機は「九三式単発軽爆」だけではありませんでした。
もう1つの爆撃機として、「キ2/九三式双発軽爆撃機」が存在していました。
「九三式軽爆」が水冷エンジンでずいぶん悩まされた機体である一方で、「九三式双発軽爆」はドイツの「ユンカース K37」を元として三菱が製造した双発機なのですが、当時としては安全で性能も良く、現場からも評価されていました。

とは言うものの、当時の航空機の進化速度はとてつもないもので、1年サボれば一気に旧式化してしまうほど。
昭和8年/1933年11月から運用が始まったのですが、それから約4年後に「支那事変」が勃発しました。
当初から「九三式双発軽爆」は世界基準だと平々凡々な機体でしたが、この間にもっと差を広げられていました。
昭和11年/1936年に「九三式双発軽爆」はエンジン換装をはじめとした大改造が施され、何とか差を縮めることには成功していました。
ですが戦争が始まってしまった今、4年も前の機体では中国はともかくソ連との戦いには力不足なのが明白でした。

ということで、陸軍は急いで新しい双発爆撃機の開発を指示。
時間がなかったためにこの開発は川崎航空機に任されました。

この「キ48」ですが、軽爆と重爆の役割を併せ持ったような性能が求められました。
本機は爆撃機ですから、軽とはいえ爆弾を目標へ向けて投下し、ダメージを与えるのが仕事です。
そしてその爆弾は高威力のほうがいいに決まっています。
軽爆撃機ですから高威力なものは重爆撃機に任せるというのはいいのですが、それでも普通は搭載できる爆弾の威力が高くなるようにするものです。
ところが本機は、軽爆の「敵基地の飛行機とすぐに壊せそうな設備を破壊」という役割と、重爆の「航続距離が短く、攻撃力が弱くても反復攻撃することが前提」という2つの役割をくっつけており、「何度も往復して軽い爆弾をどんどん落とす」という意図の下で製造されることになりました。
そのため敵戦闘機を振り切れる速度と運動性が求められています。

エンジンは川崎がこだわってきた水冷・液冷エンジンは陸軍に使用を止められており、陸軍は中島飛行機の「ハ5」を推奨。
川崎としては液冷が使えないのは悔しい思いでしたでしょうが、「九三式、九八式」と連続でエンジン不良を引き起こしているこのエンジンを信用できないというのは当然でした。

ですが一方で、川崎はこの「ハ5」というエンジンに疑問を持っていて、事実三菱が製造した「キ21/九七式重爆撃機」に使われている「ハ5改」はよく不調を訴えており、後で三菱が自社製の「ハ101」へ換装しています。
そこで川崎はこの「ハ5」ではなく、この後継にあたり開発されたばかりの「ハ25」をエンジンにすることにしました。
これが「キ48」を成功に導く大きな決断だったことは間違いありません。
このエンジン置き換えによって、速度は480km/hという戦闘機並みにまで上昇。
高速爆撃機というのが陸軍の要求だった中で、この速度は陸軍を唸らせる速度でした。

機体は引込脚、胴体内爆弾倉、全金属性と「九三式双発軽爆」とは似ても似つかない最新型の機体は、爆弾倉の関係で前部から胴体の中心までが太く、爆弾倉の後ろからペコンとへこんでいる変わった形をしていました。
そのへこみ部分に下部機銃を設置していて、機体の高さに対して多少ではありますが射角が広がりました。

そして速度と共に求められた運動性ですが、これも双発なのにすこぶる良好でした。
軽快に動くのに頑丈で、急降下爆撃をしても機体が持つというほどのもので、のちのちダイブブレーキを搭載して本気で急降下爆撃をするための型も登場します。
また構想として、南方進出の際は本機の武装を強化して戦闘機に流用するという案も持ち上がりました。
逆ならともかく、爆撃機を戦闘機にしてしまうということは、それだけこの機体が戦闘機じみた性能を持った爆撃機だという裏付けになります。

搭載できる爆弾の重さこそたった400kgでしたが、それを除けば使いやすいし速いし故障も少ないしと非常に評価の高い機体となりました。
同時期に同じく川崎で設計されていたものの、こちらは失敗に終わっていた「キ45」にもこの「キ48」のノウハウをふんだんに注ぎ込み、「キ45改」、すなわち「二式複座戦闘機『屠龍』」の誕生に大きく貢献しています。
そして「キ48」は昭和15年/1940年5月、「九九式双発軽爆撃機」として制式採用され、ただちに量産が始まりました。

採用から1ヶ月後には早くもエンジン換装型の「二型」の試作が始まりましたが、これは肝心の換装するエンジン「ハ115」の生産が遅れた影響で、採用されたのは昭和18年/1943年2月と3年近く後でした。
それでも速度はさらに向上して505km/hとなりました。
また、ドイツの「Ju87A ユンカース」を輸入して急降下爆撃の威力に興味を持っていた陸軍は、この「二型」を急降下爆撃が可能な機体へ進化させることを求めました。

前述の通り、意図せずして本機は急降下爆撃が可能なほど頑丈ではありましたが、しかし急降下爆撃にはその重圧に耐えきれる機体だけでなく、一気に機体を持ち上げる必要もあります。
そのダイブブレーキが当時はまだ開発中だったため、ダイブブレーキが搭載されていない機体が「二型甲」、搭載されている機体が「二型乙」となりました。
ただ、当初は海軍のように垂直急降下爆撃を目指していたのですが、調べてみればドイツではだいたい50度ぐらい緩降下爆撃だったということで、そこまで大掛かりなブレーキにする必要がなくなりました。

「二型」はエンジンの換装によって馬力が向上したため、爆弾も500kgまで搭載できるようになり、たちまち陸軍の主力軽爆撃機として中国戦地で活躍していきました。
現地でも大変好評な機体で、エンジンが不機嫌な「九八式軽爆」に比べると非常に稼働率も高くて次々に作戦に参加しました。
特に夜間の爆撃の際はその機動性を活かして護衛なしでの攻撃も行われています。

ですが戦場がやがて中国ではなく、海を挟んだ諸島になった影響からは本機も逃れることができませんでした。
近くの基地から何回も往復して攻撃を重ねるというのが本機の役割でしたが、飛行場が全ての島にあるわけではありません。
その島に飛行場がなければ、一番近い島から海を越えて長距離出撃をせねばならず、そうなると反復攻撃の回数も威力も完全に低下しました。
特に重機でパッパと滑走路を修繕したり、どんどん輸送で機体を補充してくるアメリカに対しては、軽爆撃機の爆弾一発ぐらいでは戦況に大きな影響を与えることができなくなっていきました。
双発なのに搭載できる爆弾は単発と同じ、そして敵機の戦闘機はどんどん後継機種がやってきて、高速爆撃機としての「九九式双発軽爆」はごく短命に終わってしまいます。

事実上、爆撃は「九七式重爆」にほぼ一任されることになり、特に速くなく、特に攻撃力も高くなく、防御力は弱い「九九式双発軽爆」は連合軍の戦闘機にとっていい獲物になり下がってしまいました。
軽爆撃機が激減した戦場では、本機をベースに大幅な設計修正を行って登場した『屠龍』が爆装して補完されました。
「九九式双発軽爆」自身も苦しい戦況の中でも攻撃を続けたり、夜間強行爆撃のための改造(増槽、人員削減など)が為されたり、特攻に使用されたりと、機体そのものがよかっただけに前線から下げるということがなかなかできませんでした。

いくら『屠龍』が役割を兼務してくれたと言っても、『屠龍』はあくまで戦闘機ですから、戦闘機が根こそぎ爆撃機になってしまってはたまったものではありません。
どれだけ苦しくても、日本の軽爆最強だった「九九式双発軽爆」は戦い続けるしかなかったのです。
「イ号一型乙無線誘導弾」を扱う機体としても本機は採用される予定でしたが、誘導弾の実験佳境の段階で本土空襲の被害によって製造は中止。
誘導弾搭載用の機体は150機ほど揃っていたそうです。

戦争中後期では大変苦しい戦いを強いられた「九九式双発軽爆」ですが、「九八式軽爆撃機」の倍以上の計1,977機が製造されました。