四式戦闘機甲量産型 |
全 長 | 9.74m |
全 幅 | 11.24m |
全 高 | 3.39m |
主翼面積 | 21.0㎡ |
自 重 | 2,698kg |
航続距離 | 1,000km+戦闘行動30分 |
発動機 馬力 | 「ハ45-21」空冷星型複列18気筒(中島) 2,000馬力 |
最大速度 | 624km/h |
武 装 | 20mm機関砲 2門 12.7mm機関砲 2門 250kg爆弾もしくはタ弾2発 |
連 コードネーム | Frank(フランク) |
製 造 | 中島飛行機 |
設計者 | 小山 悌 |
日米とも高評価の疾風 泣き所のエンジンが活躍を妨げる
戦闘機の開発が活発になってきた中で、陸軍の戦闘機の歴史を引っ張った中島飛行機。
太平洋戦争開戦前後の陸軍戦闘機では、「キ27/九七式戦闘機」「キ43/一式戦闘機『隼』」「キ44/二式単座戦闘機『鍾馗』」の3機種が配備されているところでした。
ただ「隼」と「鍾馗」の配備は若干遅れており、海軍が「零式艦上戦闘機」がバンバン空母から飛んでいた一方で、陸軍はまだ「九七式戦闘機」が主力でした。
陸軍では昭和10年/1935年には欧米視察団による視察が行われ、航空機の本場の機体や兵器の開発事情、運用理念などが調査されました。
そしてこの調査結果などをもとにして、昭和12年/1937年、陸軍航空本部は昭和12年度陸軍航空兵器研究方針を策定し、機関銃搭載型と機関砲搭載型の2種類の高速重武装戦闘機の開発の道筋を造りました。
翌年には両者をより明確に差別化し、機関銃搭載型は従来の戦闘機に高速性能を加えたものである「軽単座戦闘機」、そして機関砲搭載型はこれまでの慣例を打ち破り、格闘性能を忍んででも高速性と重武装を重視する「重単座戦闘機」としました。
この「軽単座戦闘機」が「隼」、「重単座戦闘機」が「鍾馗」となります。
さらに高速長距離爆撃機を護衛するための双発戦闘機として「屠龍」も設計されており、開戦前の4年間は戦闘機の道筋が大きく開けるタイミングでした。
欧米に追い付け追い越せ、技術力を高め、戦闘機の各分野でも日本は決して後れを取らないという思いがあったことでしょう。
しかし何とか機体の設計力は突き放されないレベルで走り続けていましたが、使用する燃料は外地頼み、エンジン技術は圧倒的な溝を開けられていて、さらに開発速度も遅い。
こんな状態で「隼」の後継機、「鍾馗」の後継機、「屠龍」の後継機を造るのは時間の浪費でしかありません。
昭和15年/1940年の段階で、戦闘機をはじめとした次代の航空機開発はなんと20機種以上にも及んでおり、様々な可能性を模索していたといえば聞こえはいいですが、結果だけ見れば迷走していたわけです。
「隼、鍾馗」の後継の開発として、まず陸軍は昭和15年/1940年、川崎航空機に対して「軽単座戦闘機」の「キ61」、「重単座戦闘機」の「キ60」の開発を指示します。
ですが、「キ61」のことを「中戦」と称したように、もう「軽・重」で分ける必要性がなかったのがはっきりわかります。
こうなると「キ60」は「超重戦闘機」ぐらいでないと差別化できません。
実際に「キ60」は開発を進めた結果「キ61」に全て劣るという成績を残して消滅。
「キ61」はのちに「三式戦闘機『飛燕』」として誕生しています。
その「キ61」の開発中に太平洋戦争が勃発。
設計が完了し、続々と生産に入っていた「隼」と「鍾馗」でしたが、一方で中島はこれらの開発並びに改修で手いっぱいであり、なかなか次の戦闘機の開発指示に対してしっかりとした回答を用意することができませんでした。
なんとか「隼」と「鍾馗」の量産が始まった昭和16年/1941年の年の瀬である12月29日、すぐさま陸軍は中島に後継機の開発を指示。
のちに発覚する両者の弱点、すなわち「隼」の弱武装と低速、「鍾馗」の短航続距離と目標に届かなかった最高速度、そして稼働率の悪さ、これらをひっくるめた戦闘機「キ84」を開発するというのが、中島に与えられた使命でした。
「キ84」に要求された性能はちょっと間違ってない?と疑いそうなもので、
・最高速度680km/h
・5,000m到達時間4分30秒
・航続距離は「隼」以上
・「ホ5」20mm機関砲2門、「ホ103」12.7mm機関砲2門
・1年以内に試作機飛行
そして防空や襲撃機としても使えるようにという、言うなれば全ての機体を過去にする最強の戦闘襲撃機というものでした。
特に速度については「鍾馗」が最大615km/h、「飛燕」でも最大610km/hなわけですから、非常に高い頂なのです。
これを達するために陸軍が使用するエンジンとして指名したのが、中島が開発していた2,000馬力エンジン「ハ45」でした。
この時はまだ「ハ45」は完成していませんでしたが、当時最大の馬力が発揮できる見通しがあるエンジンはこれしかなかったので、「キ84」に「ハ45」が搭載されるのは必然とも言えるでしょう。
加えてのしかかってくるのは航続距離でした。
「隼」は低速長航続の機体でしたが、運動性能も航続距離も「隼」に負けるわけにはいかず、加えて180km/hも速度アップをしなければなりません。
重量は抑えたいけど、じゃあ燃料搭載量が減る。
となると燃料タンクを大きくしなければならず、ということは機体が大きくなって重量が増えます。
重量が増えるとそれを安定させる(翼面荷重を抑える)ために翼を大きくしなければなりません。
するとさらに重量が増えますから、速度が出ないという負のスパイラルに陥るわけです。
実際はこのほかにも、戦訓から防弾鋼板や防漏タンク、消火装置なども加えられて、計画では全備重量が2,700kgだったものが、自重だけでこの重さに達してしまいました。
このままではどんどん機体が重くなる、どこでこれを抑えることができるか。
そこで、中島は兼ねてより問題という声があった操縦桿の軽さに着目します。
日本の戦闘機は伝統的に操縦桿が軽く、指で少し傾ければすぐに機体がそれに応えてくれるほどのものでした。
これが「隼」や「零式艦上戦闘機」のような、格闘力の高い戦闘機を生み出す大きな要素でした。
ですが運動性能の高さは機体の強度と密接に関係しており、操縦桿が軽すぎると、機体が耐え切れないほどの無茶な動きができてしまうという危険性があったのです。
これによって空中分解を起こす事故も発生しております。
これを防ぐには機体の強度を高めるのが普通ですが、そうするとますます重くなります。
ならば、逆に操縦桿を重くして、これまでのような不必要なまでの軽快さをできなくしよう、という発想が生まれたのです。
こうすれば重量を抑えることができ、また空中分解の危険も低下させることができます。
これらの問題がある一方で、「キ84」は1日でも早く完成させて欲しいという、戦時中としては当然の要求がありました。
このため中島は極めて保守的な開発を意識し、できるだけこれまでのノウハウを昇華させる形で設計を進めています。
また機体の生産効率も配慮されており、生産速度は「隼」の2/3ほどに短縮された設計だったそうです。
保守的かつ純粋強化版として開発された「キ84」。
遂に目標の1年以内の完成とはなりませんでしたが、昭和18年/1943年3月、なんとか試作1号機が完成しました。
そして4月にテスト飛行が行われ、「キ84」の性能がお披露目となります。
デザインとしては特別なことを取り入れずこれまでの系譜を受け継いでおりますが、プロペラは4枚翅と「隼」などとは異なります。
これはもちろん680km/hという高速性を実現させるためのもので、プロペラは枚数・直径・形状の全てが速度に大きく影響します。
枚数が増えれば当然重量も増えますので、これまでの機体では3枚となっていたわけです。
関係者が固唾を飲んで見守る中、「キ84」のテスト飛行が行われます。
その結果を受けて、増加試作機の作成の判断の際に審査部の荒蒔義次少佐は人差し指を立てました。
通常はこの場合、およそ10機製作し、様々なテストへと段階を進めるわけで、周囲も「あ~、10機ね」と思ったそうです。
しかし、荒蒔少佐はこう言います。
「100機だ」
つまり、試験をしながら量産を進め、飛べるものはどんどん飛ばしていくというわけです。
当時はすでにガダルカナル島は失陥しており、連合軍の猛烈な反撃が日本を苦しめていました。
幸い「キ84」の飛行で大きな問題点はありませんでした。
速度こそ624km/hと目標には遠く及んでいませんが、「隼」よりもはるかに速く、「飛燕」のように運動性能が落ちるということもなく、「鍾馗」のように航続距離が短いということもない。
まさにこれまでの戦闘機の弱点を全て補うことができた、帝国陸軍最強の名に相応しい戦闘機。
制式採用は初飛行の翌年である昭和19年/1944年4月です。
しかしそんなのは無視してとりあえず造れるだけ造って、修正しながら量産を進めていくことが必要である、という判断だったのです。
暗い出来事が続く太平洋戦争、この「キ84/四式戦闘機『疾風』」をして起死回生の一撃を見舞う。
早期増産には、そのような意気込みが込められたことは間違いありません。
ところが、これに水を差したのはまたしてもエンジンでした。
帝国軍で航空エンジンに悩まされた機体は数知れず。
近々のところでは「飛燕」が水冷エンジン「ハ40」の製造・性能に非常に難があり、配備ができない、配備されても不調ばかりという状態が続いていました。
そして同様の事態が、「ハ45」でも残念ながら起こってしまったのです。
この影響で、増加試作機は100機の製造ができずに84機に留まっています。
まず「疾風」は2,000馬力の割に機体のサイズはかなり絞り込まれていまして、すなわちエンジンも18気筒2,000馬力を極力コンパクトにする構造となっていました。
ですがその構造があまりにも繊細複雑すぎて、量産どころか不具合のないエンジンを安定供給することすら困難でした。
このエンジンの問題は試作4~7号機の段階で露呈していましたが、そこの改善を待っていたら戦況的に間に合わないという判断も止むを得ないでしょう。
エンジンを複雑にさせた要因としては、高品質のガソリン燃料を入手できない事情もありました。
ガソリンにはオクタン価という、簡単に言えばガソリンの品質を表す数値があります。
通常なら100オクタンガソリンを使いたいのですが、戦況からそこまでの高品質、純度の高い精製をすることはできないという判断から、91オクタンガソリンに加えて、燃焼力を高めるために水エタノール噴射装置をエンジンに取り付けることにしたのです。
加えて熟練工が徐々に戦地に送り出されるようになり、代わって工場で働くのは、若くて経験もない勤労動員の学生ばかり。
いきなりエンジンのような精密機械の整備を任されても、そりゃ検査・検品なんてまともにできるわけがありません。
生産速度は遅く、また完成したエンジンも果たして問題があるのかないのかがわからない。
結局完成後は「飛燕」とまったく同じ道を歩んだ「疾風」は、機体の性能は「飛燕」以上なのに結局まともな稼働率を残せないという状態に陥りました。
また、現地で故障を起こした機体を整備できる人間が全然足りないというのも「飛燕」と同じ現象です。
飛べるだけ飛んで、ダメになったら直せない、直ったと思ってもまた壊れる。
「隼」が必死に飛び続けなければならなかったのは、この「疾風」と「飛燕」が原因と断言できます。
ただし「疾風」も「飛燕」も全く整備ができなかったかと言われると、そういうわけではありません。
「疾風」では例えば飛行第47戦隊が、「飛燕」では飛行第244戦隊がそれぞれ徹底した検査と整備技術の向上でこの稼働率を改善しています。
ですが整備ができる人間が各部隊にいるはずもなく、またそもそも整備士を現地で育てるためのマニュアルもないし、本土ですらその技術を持つ人間が少ないわけですから、多少各部隊のやる気の問題もあるとはいえ、工場でも戦地でも整備士不足が「疾風」の大きな足枷となったのは間違いありません。
飛行第47戦隊に所属していた整備指揮班長の刈谷正意中尉は、「ハ45」ではなく日本の整備士教育が問題だと断じていてます。
こんな状態の「疾風」ですが、陸軍が寄せる期待はかつてないもので、実際当時の日本の生産力でよくここまで造ったなと感心するほどの数を世に生み出しました。
採用は昭和19年/1944年ですが、総生産数は3,421機(?)というとんでもない数字で、これは「零戦」「隼」に次いで3位の数です。
しかも「零戦」も「隼」も生産は1941年からですから、3年のブランクが開いても3位に差し迫る数字です。
生産工程を短縮した意味はしっかり数字に表れているわけです。
そしてまともに使えればまぁ強い。
決してかつての「零戦」のように蜘蛛の子を散らす勢いの力はありませんでしたが、それでも「隼」の後継機としては十分な力を発揮します。
各部隊で「疾風」の評価にはバラツキがありますが、「飛燕」よりは速いし武装も強いし、軽快に動けるわけですから、マンツーマンでの戦いでは機体性能が劣るために勝てないということはかなり減ったようです(つまり腕次第)。
中国大陸では「P-51 マスタング」を一気撃墜し、「我が方被弾機一機もなく、赤子の手を捩じるが如し」と日記に綴っている、「疾風」や「鍾馗」を操った「赤鼻のエース」若松幸禧少佐が連合軍を脅かしていました。
数的不利の場合でも一方的にやられるケースは稀で、他にもアメリカのエースパイロットであるトーマス・マクガイア少佐の「P-38 ライトニング」を撃墜したりと真っ向戦いを挑み続けています。
ですが「隼」とは違って操縦桿を意図的に重くしたため、かつての格闘至上主義の戦闘機乗りにとってはこの重さが不評に繋がったりしています。
この速度を活かしてアメリカのように一撃離脱を仕掛けるのが効果的だったのですが、しかし振り切れるほどの優速でもないので、結局殴り合いに陥ることもままありました。
「疾風」が悪い稼働率の中でも奮闘する一方で、国内では量産に歯止めをかける出来事が起こり始めていました。
資材が足りなくなってきたのです。
占領地も輸送航路もどんどん連合軍に侵されてしまい、本土は資材・燃料不足が非常に問題となっていました。
そんな中で最も強い「疾風」が生産されなくなると本土防衛にとんでもない支障になりますから、陸軍は応急策を必死に考えます。
そこで検討されたのが、鋼製の「キ113」です。
「疾風」はジュラルミン製ですが、ジュラルミンが入手困難ならば鉄中心の素材である鋼で造ってしまえというわけです。
ですが、ジュラルミンの比重がだいたい2.8に対して、鋼の比重は7.8ですから激重です。
こんなの設計をちょちょっと変更する程度では収まりませんし、滅茶苦茶遅くなりますし、加工の手間から生産速度も低下しますよ、さらにこれらの材料も入手困難になりますよ、ということでボツ。
しかし金属を使ってるだけまだマシです。
なんということでしょう、国内で調達できる資材と言えば木、じゃあ木製の飛行機「キ106」を造れ、という発想にまで至ってしまいます。
しかもこの発想、窮地に追い込まれてからではなく、「疾風」生産中の昭和18年/1943年9月。
最悪のケースを想定してすでに陸軍と中島は木製「疾風」の設計を進めていたのです。
この「キ106」はちゃんと試作機が昭和19年/1944年9月に完成しています。
しかし木製もまた非常に重量が増えるという問題があり、当然その影響で性能も落ちます。
さらに強度も不足する、接着剤の接着度が高速飛行に耐えきれないということで、「キ106」を前線に出すという考えは頓挫します(いや計画の時から重いし強度も落ちるのわかるでしょ、木よ木)。
それでも軽量化を進めるということで計画が中止になったわけではありません。
これに代わって先ほどの「キ113」が出てくるわけですが、「キ113」がボツになるとまた「キ106」に出番がやってきます。
ちゃんと10機が完成品として誕生しており、そして量産に向けて工場でも準備が進んでいたのです。
なりふり構わずの奇策ですが、武装を極力軽くして、エンジンを「ハ45-23」(低圧燃料噴射方式)に変更したものを本気で実践に配備するつもりだったのです。
これでも600km/hの速度が出たという記録もあるのですから、被弾には当然弱いですが、飛べるといえばしっかり飛べたわけです。
そして最も実用的な派生型としては、エンジン換装型でした。
これは量産性が失われる危機感とは違い、稼働率の悪さを改善するための方策ですが、三菱重工業製の「ハ112」を「疾風」に組み込んで信頼性を高めようという狙いです。
似たようなことは海軍の「烈風」でも起こっております(最初「誉二二型」=「ハ45-22」でしたがエンジン不良で中止、でも三菱が自社の「ハ43-11型」を組み込んで生産準備中に終戦)。
これは満州飛行機製の「疾風」で取り組まれており、出力が「ハ45」より落ちるため翅を3枚へ変更、重量バランスを整えるために機首を少し伸ばして、「ホ5」20mm機関砲2門は撤去されました。
この改修はなかなかいい成果を残しており、最大速度こそ落ちましたが、エンジンの安定性は言わずもがな、軽量化にも成功しているため旋回性や離着陸性能はオリジナルよりも良くなっています。
しかし残念ながら、こちらも本格的な性能計測が始まろうとした瞬間にソ連侵攻が始まってしまい、泣く泣く機体や資料を処分してしまっています。
前述の通り、3,400機以上が生産された「疾風」。
エンジンに泣き、期待通りの働きはできませんでしたが、その性能の高さは陸軍もパイロットも多くが認めるものであり、「隼」と並んで陸軍戦闘機の顔と言える存在です。
そして連合軍からも「疾風」の評価は非常に高く、自国の戦闘機に総合力では決して引けを取らない「疾風」は短期間とはいえ脅威でした。
終戦間際には特攻や沖縄戦でも連合軍の進撃を阻むために出撃しています。
終戦後、アメリカに接収された「疾風」は140オクタンガソリンを燃料として飛行すると、689km/hという速度をマーク。
いかに燃料の質が性能に直結するかがわかります。
さらには上昇力や旋回性能も非常に優れており、同条件ならば格闘戦を非常に得意としていたイギリスの「スピットファイア」に並び立つと言われるほどの能力を秘めていました。
これほどの力がある機体を縦横無尽に飛ばすことができなかった、同じような反省点を同時期に抱えすぎたのは、日本の壊滅的敗北の一因と言えるでしょう。