【キ67】四式重爆撃機『飛龍』/三菱

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四式重爆撃機甲型
全 長18.70m
全 幅22.50m
全 高7.70m
主翼面積65.9㎡
自 重8,649kg
航続距離3,800km
発動機
馬力
三菱「ハ104」空冷星型複列18気筒×2
2,000馬力×2
最大速度537km/h
武 装20mm機関砲 1門
12.7mm機銃 4門
50kg爆弾15発、250kg爆弾3発、
 500ないし800kg爆弾1発のいずれか
または魚雷1発
連 コードネームPeggy(ペギー)
製 造三菱重工業
設計者小沢久之丞
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度肝を抜いた運動性 しかし重爆としての価値薄く派生だらけの飛龍

太平洋戦争が開戦しているのに日本は昭和13年/1938年に制式採用された「キ21/九七式重爆撃機」が主力の状態でした。
当時は「キ49/一〇〇式重爆撃機『呑龍』」の設計が進んでいたところなのですが、やがて「呑龍」「九七式重爆二型」と大差ない上にエンジンも慢性的な不調を訴える問題児であることが発覚します。
「呑龍」もそこそこ配備されたとはいえ、最初に使用されたのは昭和18年/1943年です。
「呑龍」が開けた穴は大きく、三菱重工業は昭和14年/1939年から設計中の「キ67/四式重爆撃機『飛龍』」の完成をより一層急がなければならなくなりました。

陸軍の重爆撃機に対する思想は変わっておらず、「飛龍」には「戦闘機の護衛なしで行動でき、爆弾搭載数は少なくていいから高速なものを」というものが引き続き求められました。
ただ、これまでの重爆撃機と違うのは、運動性能を向上させてくれという新しい要求があったことです。
双発機はもちろん単発機より運動性能が落ちますが、それを許容して重厚、高攻撃力、強武装などの性能を高めるわけです。

「飛龍」で評価が高い点としてはその運動性能の高さで、むしろ高すぎるといってもいい代物でした。
なにせ双発機で宙返りができます。
爆弾を搭載していない状態ではアクロバティック飛行ができるほどの身軽さっぷりで、それでいて急降下爆撃もできる強度を備えていました。

さらに三菱は同時期に海軍向けに「一式陸上攻撃機」を設計、製造しており、この経験と海軍の要求から、「飛龍」には求められていなかった航続距離についても三菱が勝手にノルマを設定。
陸軍としては「呑龍」と同じぐらいの3,000kmでよかったらしいのですが、三菱はこれを3,800kmにまで引き上げ、そしてそれを実現して見せています。

武装は1挺減りましたが口径が大きくなって、20mm機関砲1門と12.7mm機銃4挺。
爆弾の搭載量は陸軍の要求に沿ったというか、沿ってしまったというか、最大850kg爆弾1発と「九七式重爆、呑龍」よりも低下しています。

搭載したエンジンは三菱の「ハ104」。
日本初の18気筒空冷エンジンで、馬力は2,000馬力にまで至りました。
速度は537km/h(試作時は510km/h)と出力の割には決して高速とは言えず、陸軍の要求550km/hには届いていませんが、しかし運動性能とこの航続距離は魅力的に映りました。

試作機が誕生したのは昭和17年/1942年12月で、27日に初飛行に成功しています。

「飛龍」
「キ84/四式戦闘機『疾風』」とともに「大東亜決戦機」と位置付けられ、重点生産機種として各地で量産体制が取られました。

ですが当時すでに戦いは太平洋戦争に移行しており、陸軍が戦っている中国、そして仮想敵としていたソ連に比べると圧倒的に比重が太平洋に傾いてしまいました。
護衛をつけずに高速で敵戦闘機を振り払うかなぎ倒し、反復攻撃で敵航空基地を撃滅させて制空権を奪い、陸空共同で戦端を切り開くというのが陸軍の爆撃機構想でした。
しかし「支那事変(日中戦争)」と太平洋戦争では、相手も、相手の力量も、物量も、戦場の地形も特性も何もかもが変わってきて、どれだけ「飛龍」がいい重爆だったとしても「支那事変」向けに設計された飛行機は太平洋戦争にはマッチしないのです。
具体的に言えば、戦闘機には勝てないし、爆弾搭載量は少ないし、反復攻撃もできないのです。
そもそも双発戦闘機ならまだしも、双発爆撃機にこのまでの運動性が必要なく、その分他に振り分けたほうがいいでしょという問題もあります(結果論ですけど)。

そこで陸軍は、思い切った行動に出ます。
なんと「飛龍」に魚雷を搭載させ、陸軍機が海軍機とともに敵艦船を雷撃するというのです。
陸軍では、陸軍雷撃隊が編成され、100機の魚雷懸吊装備をもった「飛龍」の製造も決定します。
幸いにも「飛龍」は雷撃の一連の動作に対応できる性能を持っており、また海軍も当時パイロットが物凄く減少していたことから、この共同作戦については障害はなく、「台湾沖航空戦」「フィリピンの戦い、菊水作戦」などで海軍機とともに何度もアメリカ艦船に攻撃を仕掛けています。
海軍指揮下で戦った陸軍雷撃隊を、海軍では「靖國部隊」と呼んでいたそうです(非公式)。

その他、「飛龍」は残念ながらオリジナルの機体のままだと戦える場所が少ないということで、どんどん派生型が出現、計画されます。
夜間雷撃の際の索敵レーダーを積んだもの、同じく夜間雷撃の際に海面からの高さを計測する高度計を搭載したもの、軍用グライダー曳航型、サイパン島爆撃のための航続距離延長型(計画)、「B-29」撃墜のために超大口径75mm機関砲を搭載した「キ109」、空対地・対艦ミサイルを搭載したもの、特攻用特殊爆弾「桜弾」搭載型の「桜弾機」、全木製機(計画)などなど、手広く展開しています。
ちなみに本家の爆撃機としては「サイパン島の戦い」「硫黄島の戦い、沖縄戦」など太平洋戦争の終盤で活躍しています。

ここまで派生型が豊富なのはそれほど機体の性能が良かった証拠だと言えますが、一方で評価が高い飛行機なのに早々に「キ48/九九式双発軽爆撃機」と共に特攻機に選定されます。
昭和19年/1944年の春にはすでに特攻についての方向性が見出されており、8月ごろから「九九式軽爆」「飛龍」は特攻機用の改造が行われました。

「桜弾機」が誕生したのは昭和20年/1945年4月ごろのようですが、搭載した「桜弾」は2.9tとべらぼうに重く、「桜弾機」の操縦は非常に困難だったそうです。
「桜弾機」は機体のコックピット後方から腫れあがったかのように膨らんでいて、そこに直径1.6mの「桜弾」が収まり、そのまま艦船に突っ込むという、普通の特攻機とは完全に一線を画するものでした。
「桜弾」については各々お調べいただきたいのですが、えげつない破壊力と殺傷能力を持っている、として設計されています。
「桜弾機」は製造数6機と言われていて、うち3機が出撃するも、鈍重な「桜弾機」が戦果を残したという記録は連合軍側には残っていません。

「飛龍」は635機が製造され、派生を含めると707機と言われています。
実は初飛行から速度が足りないことなどで改修などが行われた結果、生産が始まったのは昭和19年/1944年3月と1年以上後。
さらに制式採用に至っては同年8月と、重点生産機種に選定された割には製造が遅すぎるし、製造が始まってすぐに特攻機転用や雷撃装備搭載など、翻弄されっぱなしの機種でした。