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蒼龍【航空母艦】
Soryu【aircraft carrier】

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起工日昭和9年/1934年11月20日
進水日昭和10年/1935年12月23日
竣工日昭和12年/1937年12月29日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年6月5日
(ミッドウェー海戦)
建 造呉海軍工廠
基準排水量15,900t
公試排水量18,871t[1-P145]
全 長227.50m
垂線間幅21.30m
最大速度34.5ノット
公試最大速度34.898ノット[1-P145]
航続距離18ノット:7,680海里
馬 力152,000馬力

装 備 一 覧

昭和12年/1937年(竣工時)
搭載数艦上戦闘機/12機
艦上攻撃機/9機
艦上爆撃機/27機
艦上偵察機/9機
補用機/16機
格納庫・昇降機数格納庫:3ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
25mm連装機銃 14基28挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 8基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
飛行甲板長216.9×幅26.0
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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「友鶴事件」によって完成した空母 蒼龍

「ワシントン海軍軍縮条約」によって、【赤城】【加賀】が戦艦から空母へと改造されてからおよそ7年。
日本には当時、上記の2隻の他に【鳳翔】【龍驤】の計4隻が在籍していました。
条約で決められた保有制限の81,000tからこの4隻の総基準排水量を差し引くと12,630t。
そのうちの【鳳翔】は艦齢が16年に迫っており、廃艦を予定していました。
その分の8,370tを上乗せすると、およそ21,000tまで空母を建造することができる状態でした。

そんな中で建造が決定した【蒼龍】は、もう1隻の【飛龍】とともにそれぞれ約10,000tの、中型空母として建造計画が立てられます。
しかしこの1つ前の船が空母のいろはと「なんやかんやでちゃんと動く正規空母ができた」という実績を生み出した【龍驤】というのが問題でした。
【龍驤】はバランスこそ崩れていましたが、それを修正すれば中型空母の建造は可能という認識で、また電気溶接も【龍驤】同様採用されることになっていました。
ただ、電気溶接はまだまだ未熟な技術で、危険も伴いました。

さらに、海軍の要求もなかなか酷いもので、10,000t級の空母に搭載数100機という、【加賀】よりも遥かに多い搭載数を求めています(排水量2.5倍の【加賀】は新造時では60機、昭和10年/1935年の改装後でも72機でした)。
そして艦載機はできるだけ甲板上に並べ、カタパルトで一気に発艦させることも求められています。

また、依然としてアメリカの空母仕様がすでに完成している「レキシントン級」のような船が発展するのか、はたまた【赤城、加賀】のように主砲も搭載した空母になっていくのかがわかりかねたため、主砲の搭載も考えられていました。
最初の【蒼龍】案である「G6」案は、これは空母というよりかは長い飛行甲板を要した巡洋艦というものでした。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房

艦首側に20.3cm連装砲を3基搭載しているのがはっきりわかります。
しかもこれに加えて搭載機数は70機。
どこにどれだけの広さの格納庫を用意するつもりだったのか不明ですが、絶対納まりません。
エレベーターを2基、艦後尾に甲板係止してもどれだけ載せれるか、というところでしょう。
「G6」案はその後改善されていき、最終案「G8」では15.5cm三連装砲と20cm連装砲を1基ずつ搭載したものでしたが、初期段階だと【赤城、加賀】計画案と同じ20cm連装砲と20cm三連装砲各1基の予定でした。

ただ、設置箇所は艦首側の飛行甲板の下で、つまり仰角が全然とれません。
例えとれても甲板への爆風などの影響でほとんど上げることができないと思われます。
砲撃時の振動も甲板に伝わることが想像されますし、どこまで役に立ったのかは疑問です。
ともかく、海軍の無理のある要求をどんどん削いでいったものの、主砲5門、12.7cm連装高角砲8基、搭載数「G6」と同じく70機と、やはり今見返せば絶対無理がある設計案が採用されました。

「G8」案の模型

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房

その【蒼龍】の設計がひっくり返る出来事が、昭和9年/1934年3月12日に発生します。
「友鶴事件」です。
これは特に昭和5年/1930年締結の「ロンドン海軍軍縮条約」以降の艦艇の復原力計算に大きな誤りがあったことが判明した事件で、その翌年の「第四艦隊事件」と合わせて、多くの艦艇の設計と補強工事で海軍は大わらわとなりました。
【龍驤】なんてどう見ても復原力回復の必要がある設計でしたし、それをベースにするつもりだった【蒼龍】も当然設計を見直す必要が出てきました。
そして結果的に「友鶴事件」【蒼龍】を理想的な中型空母へと変貌させることになります。

昭和9年/1934年11月に起工した【蒼龍】は、ほぼ1年後の翌年12月に進水します。
しかし「第四艦隊事件」は進水前の9月に発生しており、電気溶接が使われている【蒼龍】は工事が中断されてしまいます。
進水式は予定が決まっているのでこれを延ばすことはできず、進水した後、なんと状態を確認するために艦首艦尾がサクッと切り落とされていました。[1-P102]

「第四艦隊事件」は強度不足が大問題となり、その原因の1つが電気溶接でした。
そして電気溶接は【大鯨】建造の際に大変頭を悩ませていて、もしかしたら【蒼龍】も見えないストレスがかかっていてふとした荒波で折れてしまうかもしれないという不安があったのです。
切断する前とした後で高さが変わっていると、そのストレスがかかっていることになりますが、幸い【蒼龍】の建造では電気溶接による問題は発生しておらず、やがて建造は溶接を用いながら再開されました。[1-P103]

再設計された【蒼龍】の姿に戻りますが、まず主砲が全部取り払われ、12.7cm連装高角砲も6基へと微減。
その代わりに25mm連装機銃が14基各所に散りばめられています。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

艦橋と煙突は甲板上に取り付けられることになっていましたが、艦橋は一気に小型化し、煙突も右舷側に弯曲煙突2つという設計に変わります。
全長も240mほどの計画が227.5mにまで短縮され、搭載数も70機から57機へ減少。
このようにトップヘビーの要素をできるだけ削減し、重心も可能な限り下げた設計となった【蒼龍】は、「朝潮型」同様少しやり過ぎた感はありましたが、非常に安定感があり、発着艦がやりやすい空母として再誕します。
特にその速力は眼を見張るものがあり、当初計画36ノットから減じたとはいえ、34.5ノット(公試においては34.898ノット[1-P145])は世界最高レベルの速度でした。

しかし、「ワシントン海軍軍縮条約」に則った排水量の枠内に収まったのかと言われると全く否で、【蒼龍】の基準排水量は15,900tまでに膨れ上がっていました。
これは削減された構造物や主砲の重量は船体の重心維持に割かれたことと、建造中に発生した「第四艦隊事件」による補強が影響しています。
という事はつまり、次の空母は5,000tぐらいで造らなければなりません。

ただ、そんな心配はなくなっています。
なぜなら昭和9年/1934年末に「ワシントン海軍軍縮条約」からの脱退を表明しており、昭和11年/1936年末には排水量や保有数などの足かせが外れることが決まっていたからです。
そのため、本来なら「蒼龍型航空母艦」の二番艦になるはずだった【飛龍】は、【蒼龍】を発展させた別物の空母として再設計されています。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

艤装工事中の【蒼龍】

【蒼龍】で不明確な要素としては、個艦識別文字が書かれていたかどうかがあげられます。
例えば【赤城】だと甲板には大きく「ア」と白文字が書かれていたりしますが、【蒼龍】にはそれが書かれていた、いないを断言できる要素が現時点ではないようです。
書かれていたとすれば、「サ」と思われます(旧仮名表記)。

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「艦上爆撃機の神様」がいる空母

【蒼龍】は後に建造される【飛龍、翔鶴、瑞鶴】と比べると1番小型で、搭載数も少なめですが、彼女には「艦上爆撃機の神様」という心強い存在がありました。
江草隆繁飛行隊長(当時少佐)、彼は実直で努力家で、そしてなによりもその脅威の命中率の高さから、そのような異名を持っていました。
「真珠湾攻撃」では【九九式艦上爆撃機】を巧みに操り、自身のおはこであった急降下爆撃でアメリカ軍を翻弄します。
「セイロン沖海戦」では彼の所属する南雲機動部隊が連合軍を蹴散らしています。
とりわけ江草隊は命中率80%以上というずば抜けた数字を引っさげて帰還し、帝国海軍の快進撃の中心人物でした。

しかし一方で、帝国海軍は日本に勝利をもたらし続けた彼の意見を軽視することが多く、結果的にそれは全て裏目に出てしまいます。

真珠湾攻撃前の【蒼龍】

「真珠湾攻撃」では、戦艦を5隻沈めるなど大成功を収めたかに見えますが、空母は実は1隻も沈めることができず、どころか発見すらできませんでした(実際に真珠湾沖には空母はいませんでした)。
結果的には無駄足となるところでしたが、ここで江草は空母を叩くために進軍すべきだと進言しています。

「真珠湾攻撃」の大成功の一方で、思わぬ苦戦を強いられていたのが「ウェーク島の戦い」です。
ここではいきなり【疾風】【如月】が沈没するなど、兵力は勝っているのに日本の犠牲だけが膨らんでいく状況でした。
しびれを切らした海軍は、連合艦隊より第二航空戦隊の【蒼龍、飛龍】らを派遣し、空襲をきっかけにようやく同島の制圧が完了しました。

昭和17年/1942年2月19日、【蒼龍】は一航戦、二航戦でオーストラリアのポートダーウィンを空襲。
全く戦闘の準備をしていなかったポートダーウィンへの空襲は大成功を収め、損害4機のみで多くの駆逐艦や航空機などを破壊することができました。
4月5日の「セイロン沖海戦」でも【蒼龍】は日本の空母建造の際に大いに参考にされた【英空母 ハーミーズ】の撃沈に貢献。
日本の快進撃を支えたのは紛れもなく【蒼龍】が所属する南雲機動部隊でした。

しかし、それを自信にするのではなく、驕りとしてしまったのが日本の最大の問題でした。
「ミッドウェー海戦」を目前に控えた際、江草はとにかく索敵の重要性を説き、偵察機を飛ばすように進言しましたが、やはりそれも取り入れてもらうことはかないませんでした。
それは結果的に敵襲来の発見を遅らせ、「ミッドウェー海戦」では最も早く、そして最も何もすることができずに沈没してしまいます。

旋回を続ける【蒼龍】

江草隊はついに出撃することなく、ただひたすらに【蒼龍】から脱出することしかできませんでした。
日本の艦艇は全体的にダメージ・コントロールに欠点があり、爆弾が艦内で炸裂すると、その衝撃が逃げることなく瞬く間に船体を襲います。
運悪く格納庫付近で爆発したため、艦載機や爆弾に次々誘爆、機関も停止し、被弾後わずか15分で、【蒼龍】はなすすべもなく退艦命令が出されます。
最後は艦尾が持ち上がるほど艦首側の沈下が激しくなり、爆発しながら沈んでいきました。

「江草隊がこの戦いでいつもどおりに働けていたら、アメリカ軍の進撃は確実に遅れていただろう」と言われています。
【蒼龍】江草隊は、それほどアメリカ軍を恐れさせた存在でした。

蒼龍の写真を見る

参照資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]鳶色の襟章 著:堀元美 原書房