熊野【最上型重巡洋艦 四番艦】

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①昭和12年/1937年(竣工時)
②昭和14年/1939年(改装完了後)

起工日昭和9年/1934年4月5日
進水日昭和11年/1936年10月15日
竣工日昭和12年/1937年10月31日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月25日
(サンタクロース沖)
建 造川崎造船所
基準排水量① 8,500t
② 12,000t
全 長① 200.60m

水線下幅① 20.20m

最大速度① 35.0ノット
② 34.7ノット
航続距離① 14ノット:8,000海里
② 14ノット:8,000海里
馬 力① 152,000馬力
② 152,432馬力

装 備 一 覧

昭和12年/1937年(竣工時)
主 砲60口径15.5cm三連装砲 5基15門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 4基8挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油8基
艦本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 3機
昭和14年/1939年(改装)
主 砲50口径20.3cm連装砲 5基10門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 4基8挺
13mm連装機銃 2基4挺
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油10基
艦本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 3機
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汚名の第七戦隊 戦場を去り、戦場を求める日々

【熊野】【鈴谷】と同じく、【最上、三隈】で判明した強度問題を改善して再設計された軽巡洋艦です。
大型8基、小型2基だったボイラーも大型8基のみに統一され、その影響で2本の煙突の太さは統一されることになりました。
当然「ロンドン海軍軍縮条約」脱退後に20.3cm連装砲に換装、竣工から2年後の昭和14年/1939年に改装されています。
【最上、三隈】との違いとその経緯については【鈴谷】をご参照ください。
ちなみに起工日も進水日も【鈴谷】とは全然違うのですが、この「鈴谷型」とも言われる改装の影響で竣工日は【鈴谷】と同日となっています。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

太平洋戦争開戦時、【熊野】「最上型」4隻で編成された第七戦隊の旗艦でありました。
司令官は有名な栗田健男少将です。
皆々のイメージに違わず、第七戦隊司令官としても疑問符が尽きない行動が目立ちました。

第七戦隊はまずは「マレー作戦」の支援に参加します。
真珠湾攻撃と同時に進められたこの「マレー作戦」は、電光石火でシンガポールを陥落させた素晴らしい作戦でありましたが、海軍はこの輸送船団の護衛などで出撃していました。

計画よりも早くシンガポールを墜とした日本は、続いて「蘭印作戦」を開始。
ジャワ島攻略のために陸軍の第16軍が輸送船総勢56隻という大船団を以てカムラン湾を出撃していました。
この船団の護衛には第七戦隊の他に【名取】【由良】を中心とした第三護衛隊が就いていました。

昭和17年/1942年2月27日、船団から東海林支隊の輸送船7隻が分離、ジャワ島のエレタンへの上陸を目指しました。
しかしこの船団を狙っているような艦隊があることを、【熊野】の水上偵察機が発見、報告します。
これに対して第三護衛隊は、「バリ島沖海戦」で第八駆逐隊が数に勝る連合軍を打ち破ったこともあり、重巡4隻軽巡2隻他駆逐艦多数といった強力な艦隊である我らが輸送を妨げる連合軍を薙ぎ払ってくれようと撃退を進言します。

ところが第七戦隊は、戦うどころか敵艦隊に察知されないように逃げ始めたのです。
輸送船たちはこの報告を受けたために襲撃を恐れて退避しています。
このままでは輸送が達成できなくなりますから、「蘭印作戦」の達成にも影響が出かねません(東海林支隊は上陸済みの第2師団との協力でバンドン要塞の攻略を求められていました)。

当然第三護衛隊からはどういうことだと非難が飛んでくるのですが、第七戦隊側は意見を翻すことはなく、1日近く電文が飛び交ったそうです。
埒が明かないため、結局連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と仲裁に入る始末でした。
仲裁に入ったとはいえ、指揮は第七戦隊が執るようにということですから結局敵艦隊への攻撃は実施されませんでした。

そして28日12時頃、【熊野、鈴谷】の第一小隊から南方48海里の距離に重巡と軽巡各1隻(【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【豪パース級軽巡洋艦 パース】)がいることを偵察機が発見します。
そこから随分タイムラグがあるのですが、【熊野】らは15時前に接触を避けるかのように反転北上し、そして17時になってから「バタビア港外ニ重巡一、軽巡一碇泊、港内に軽巡一アリ」
と報告をしました。
結局ここで逃げ出したために第一小隊は護衛の【磯波、浦波】を含めて「バタビア沖海戦」に全く関与していません。

20時20分、第16軍輸送船団は予定地点に到達し、そこからメラクの2方面とバンダム湾の計3ヶ所に分かれて分離。
うちバンダム湾にて揚陸していた船団を狙った【ヒューストン、パース】を取り囲んで第二小隊らが沈めたのが、「バタビア沖海戦」です。
この戦いで一向に姿も所在も示さなかった第一小隊に対して疑問を持った者は多く、小島秀雄少将は第七戦隊の専任参謀にどうして海戦に参じなかったのかと問うと、「軍令部に第七戦隊を大事にしてくださいと言われた」という返答があってかなり怒っていたそうです(そりゃそうでしょ)。

4月からはベンガル湾を航行する連合軍側の商船を攻撃する、通商破壊作戦に参加します。
勢いづいている日本はこのまま一気にミッドウェー島を手中に収めてしまおうという行動に出ます。
賛否両論のこの「MI作戦」で、第七戦隊は【朝潮】【荒潮】とともに護衛隊支援として参加することになりました。

ところが「ミッドウェー海戦」は空母4隻を1日で失うという空前絶後の大敗北。
対して日本は【伊号第百六十八号潜水艦】が困難極まる戦場で【米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】に止めを刺してくれたからよかったものの、空母撃沈ゼロという可能性すらあった最悪の結果でした。

この戦いの終盤、まだ【飛龍】が健在だったころに、連合艦隊は第七戦隊を先頭としてミッドウェー島への艦砲射撃を行うように命令。
この時第七戦隊は予定位置よりも80海里≒148km以上後方でのんびり動いていたという謎な行動があったのですが、さらにわざわざ現在地を報告して、「ミッドウェー島への攻撃?遠すぎて夜間砲撃には間に合いませんぜ」と暗に訴える有様でした。
第二艦隊からも、第七戦隊のこの怠慢はともかくとして、この位置からの作戦行動は被害を重ねるだけだと作戦の中止をやんわりと進言しています。
ですが結局第七戦隊は命令通りミッドウェー島へ向かうことになり、35ノットの全速力で進み始めました。
この結果、最大速度こそ同じく35ノットの「朝潮型」は燃料や凌波性のこともあって付いていくことができず、2隻は分離されることになりました。

ところが日が沈むころに【飛龍】が空襲に晒されて大炎上。
一縷の望みを絶たれた日本でしたが、炎上してからも命令は取り消されることがなく、中止が決定するまで7時間も爆走を続けていました。
【飛龍】の反撃で空母2隻の撃沈もあってこその作戦だったはずなのに、【飛龍】が戦えなくなってからも作戦を中止するまでに7時間も要したのはいったい何故なのか。
ともあれ第七戦隊では反撃を受ける可能性が非常に高いこの作戦に非難轟々だったため、作戦中止を受けるとすぐさま反転、艦隊への合流を目指しました。

ですが作戦中止の命令が遅かったことは、1時間20分後の悲劇によってはっきりします。
反転した時のミッドウェー島からの距離は約90海里で(ということはそもそも第七戦隊が予定通りの位置にいたらもうすぐ到着していたということになります)、アメリカにとっては十分目が行き届く範囲でした。
そしてその目の1つであった【米タンバー級潜水艦 タンバー】が北北西へ進む第七戦隊を発見。
すぐさま司令部へ報告します。

一方で【熊野】【タンバー】の潜望鏡を発見します。
【タンバー】はすぐさま潜航し、【熊野】は雷撃に備えて全艦に「緊急左45度一斉回頭」を発光信号で命令。
ですがこの時【タンバー】との距離はおよそ5,000mで、45度では魚雷の回避が困難だと判断した岡本功参謀は、更に「緊急左45度一斉回頭」を今度は無線電話で命令を出しました。
ところがこの際、本来ならば無線電話では「赤赤計算九」と付け加えなければならないのですが、それがなかったために後続の【鈴谷】は最終的な回頭角度が何度なのか判断ができませんでした(本人はちゃんと言ったと証言)。

頭を抱えているうちに【熊野】はまず45度の回頭を開始。
後続もそれに続きますが、【熊野】はさらに45度の回頭を行ったため、【鈴谷】はこれから左45度の回頭では衝突してしまうと咄嗟に判断、逆に右に思いっきり舵を取ってなんとか避けることができました。
ですがこの後【三隈】【鈴谷】を見失い、前方に見える【熊野】【鈴谷】と誤認します。
【熊野】【三隈】【鈴谷】が間にいた分距離がありましたが、しかしその距離を90度という回頭が一気に縮めることになり、【三隈】も慌てて同様に左へ舵を切りました。

最後尾の【最上】ですが、これもまた【三隈】を見失い、先頭の【熊野】【三隈】だと思い込みます。
【最上】の転舵は少し複雑なのですが、それは【三隈】(実際は【熊野】)との距離を縮めるための行動でした。
ところが舵を切っているところにいきなり右から船が飛び出てきたのです。
それが【熊野】との衝突を避けようとした【三隈】であり、【最上】【三隈】の左舷中央部にもろに突っ込んでしまいました。

【三隈】は衝突部分に破孔を生じて燃料が漏洩、【最上】は衝撃で艦首が完全にひしゃげます。
双方浸水は抑えることができましたが、艦首を失った【最上】は最大速度が10ノットしか出せなくなってしまいます。

第七戦隊では緊張が走ります、なにせもともと敵制空権内に入っている中で突撃したわけですから、そこを10ノットで脱出するのは不可能でした。
4隻揃って逃げるとなると、【最上】の速度に合わせるしかありません。
海軍内では対空兵装が比較的多い「最上型」とは言え、空襲に対処できるほどの豊富さではありません。

結局第七戦隊は、第一小隊だけ第二艦隊への合流を急ぎ、第二小隊については【朝潮、荒潮】との合流の上、【最上】を護衛しながら離脱することになりました。
ところがここから第一小隊は雲隠れしてしまい、連合艦隊からの通信も完全無視を決め込んでいます。
そしてその間に【三隈】は徹底的に破壊されてしまいます。

狙ったのかどうかわかりませんが、【三隈】の命運尽き果てたあとにようやく第一小隊は自身の所在を報告。
なぜ音信不通になったのかというと、噛み砕いて言えば「連絡を取れば【最上、三隈】を助けに行けと言われると思ったから」というものでした。
開いた口が塞がらない言い訳で、実際第二艦隊通信参謀は、「どうにも困った部隊である」と口にしています。

実際に第一小隊が向かえば助かったかどうかはわかりませんが、【三隈】を失い、【最上】も大規模修理、そして航空巡洋艦へと改装されることになるため、第七戦隊は【熊野、鈴谷】の2隻だけとなりました。
【熊野】はその後、インド洋で再び通商破壊作戦(「B作戦」)を行うのですが、途中で突如発生した「ガダルカナル島の戦い」に駆り出されることになります。
8月24日の「第二次ソロモン海戦」【熊野】【比叡、霧島】らと機動部隊の前衛として出撃しますが、航空戦となったために戦果はありませんでした。

10月18日に【熊野】は機関故障が続いたために旗艦を【鈴谷】へと譲り、そして26日には「南太平洋海戦」に出撃しました。
この時は前衛ではなく本隊に配属されていたのですが、「SBD ドーントレス」の爆撃によって至近弾を1発受けてしまいました。
被害そのものは大きくなかったのですが、機関故障の問題もあったために海戦後に【熊野】【瑞鳳】とともに呉へと帰投し、修理を受けることになりました。

修理後は12月に外南洋支援部隊に復帰しますが、すでにガダルカナル島からの撤退が決まる寸前であったことから、しばらくは輸送支援などの裏方任務が大半となりました。
そしてガダルカナル島からの撤退が完了した後も、【熊野】は海戦からは程遠い輸送支援を継続して実施。
昭和18年/1943年6月15日には第七戦隊はかつて同戦隊を指揮した栗田中将が率いる第三戦隊(【金剛】【榛名】)の指揮下に入りました。

7月20日、【熊野】【鈴谷】【鳥海】らで編成された夜戦部隊+輸送部隊がラバウルからコロンバンガラ島を目指して出撃。
しかしこの行動が筒抜けになっていたことから、部隊は夜間空襲に晒されることになります。
この空襲で【夕暮】【清波】が沈没してしまい、また【熊野】も魚雷(反跳爆撃?)を1本受けてしまいます。
舵を故障してしまった【熊野】【工作艦 山彦丸】の応急処置を受けた後に【雪風】と共に日本へと戻っていきました。

復帰後はトラック島を拠点に輸送支援などで活躍しましたが、戦況は悪化の一途を辿り、ラバウルも大規模な空襲を受けたことから活動範囲も劇的に狭くなってしまいます。
そして昭和19年/1944年6月19日、【熊野】「マリアナ沖海戦」で前衛艦隊に所属して戦いに挑みます。
ですが完全な航空戦で一方的に叩きのめされてしまい、水上艦の出番は航空機に対する対空射撃のみ、【翔鶴】【大鳳】【飛鷹】を失う「ミッドウェー海戦」に匹敵する惨敗を喫しました。
そして【熊野】は壮絶な最期を遂げるドラマの序章である「レイテ沖海戦」へ身を投じます。

昭和19年/1944年6月30日 あ号作戦後と竣工時の対空兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 4基8門(±0)
機 銃25mm三連装機銃 8基24挺(+8基)
25mm連装機銃 4基8挺(±0)
25mm単装機銃 24基24挺(+24基)
13mm単装機銃 全撤去
電 探21号対空電探 1基(+1基)
22号水上電探 2基(+2基)
13号対空電探 1基(+1基)

日本よ遥か 四肢を失うも海を這い続けた31日

【熊野】【鈴谷、利根、筑摩】で新たに編成された第七戦隊で第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属して「捷号作戦」に参加。
ところが最初の難関として当初から想定されていたパラワン水道に侵入するや否や、【高雄】【愛宕】【摩耶】の3隻が【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】によって襲撃されます。
【愛宕、摩耶】は沈没、【高雄】は大破離脱となり、「高雄型」3隻が30分のうちに栗田艦隊から離脱することになるのです。

さらには10月24日の「シブヤン海海戦」で絶え間ない空襲に晒された栗田艦隊は、世界最大最強の戦艦の双肩を担ってきた【武蔵】を失い、また【妙高】【浜風】【清霜】が撤退。
2日間で栗田艦隊が目撃した水上艦は、いまだにゼロです。
そしてこの2日間で艦隊からは護衛含めて9隻もの艦艇が離脱しています。

それでも栗田艦隊は進撃を続けます、続けるしかありません。
翌25日、仲間の屍を超えてひたすらにレイテ島を目指す栗田艦隊に、欲して止まなかった敵空母が遂に現れました。
何千何万という仲間の命を奪ってきた憎き機動部隊、それをこの大戦艦の砲撃で叩き潰す機会がついにやってきたのです。
栗田艦隊は皆そのような思いであったに違いありません。

ですがこの空母の正体は主力空母とは似ても似つかぬ量産型の護衛空母であり、日本軍を直接的にではなく間接的に苦しめていた存在でした。
栗田艦隊は通称「タフィー3」と呼ばれる第77任務部隊第4郡第3集団に対して【大和】の砲撃を合図に全艦に攻撃を命令。
そして巡洋艦や駆逐艦は鬱憤を晴らすかのように全速力で追撃に移りました。

一方「タフィー3」も必死です。
こっちは護衛空母と駆逐艦しかいませんから三十六計逃げるに如かず、駆逐艦の煙幕の中に飛び込み、少ないとはいえ搭載している艦載機を栗田艦隊に向けて飛ばし、また駆逐艦も砲雷撃で巡洋艦らの動きを惑わします。

栗田艦隊は煙幕とスコールを巧みに利用する「タフィー3」から飛んでくる艦載機と、駆逐艦による砲雷撃を同時に対処するという前代未聞の状況に置かれますが、この苦難に怯えるものは誰一人おりません。
先頭を走る【熊野】は敵機の空襲に応戦しつつ煙幕へ向けて爆走します。
最初の敵機の攻撃は爆撃機なのに爆撃ではなく機銃攻撃が多く、とにかくすぐに出せる艦載機を出して抵抗するということだったのでしょう。

7時10分過ぎ、1つの煙幕がこちらに向かって流れてきました。
煙幕を炊きながら【熊野】の前に勇猛果敢に突進してくる1隻の駆逐艦は、【米フレッチャー級駆逐艦 ジョンストン】です。
この圧倒的に不利な状況でも、魚雷の一撃によって形勢逆転を狙う1隻の鼠は5インチ砲をこちらへ向けて放ってきます。
【熊野】の近くで大きな水柱が上がる中、【熊野】【ジョンストン】との距離は9,700mにまで迫ります。

そこに【熊野】の上空から爆撃(「TBF」か)が行われ、【熊野】は被弾回避のために大きく転舵します。
ところが同時期に前方の【ジョンストン】も突如反転。
この動きは明らかに魚雷を撃つための行動でしたが、先に爆撃回避の行動をとっていたため、同時に魚雷の回避というのはかなり難しいことでした。
右前方からの3本の雷跡を確認した【熊野】でしたが、時すでに遅し、計10本放った(「フレッチャー級」は5連装魚雷発射管2基搭載)うちの1本が【熊野】の艦首を13mも抉り取っていきました。

艦首を失った船がどうなるか、「最上型」である【熊野】がそのことを知らないはずがありません。
14~15ノットという速度こそ出せたものの当然戦い続けることはできず、【熊野】はここでリタイア、単艦で戦場から離脱することになりました。
第七戦隊司令部はここで【鈴谷】に移乗することになりますが、【鈴谷】も一連の戦いの中で至近弾を受けて23ノット程の速度にまで低下していました。
【鈴谷】はこの後艦隊に合流することができずに空襲によって沈没してしまいます(司令部はさらに【利根】へ移乗)。

雷撃を受ける前の空襲を振り切って追撃する【熊野】
【熊野】に護衛が就かなかったのはなぜか、そこは疑問ではありますが、とにかく【熊野】はまずはコロンへ、そして遠い遠い日本を目指します。
この間も【熊野】には時折航空機が攻撃を仕掛けてきましたが、初期の空襲に対しては自力で振り切っています。

やがて、上空には日の丸の航空機が現れました。
その正体は3機の「瑞雲」でした。
「瑞雲」は結構新しい機体であるため、艦内にはその姿を知らない者も多くいました(恐らく艦長の人見錚一郎大佐も)。
とは言え日の丸が艦の上空にやってきてくれたのは大変ありがたい話です。

が、突如2機の「瑞雲」からは爆弾が落とされたのです。
【熊野】は驚きましたが、幸か不幸か爆弾は【熊野】の近くに落下して至近弾にもなりませんでした。
【熊野】からは艦長の命令で高角砲が数発発射されており、威嚇によって「瑞雲」は去っていきました。
さらに1時間後には爆装した「天山」からも爆撃を受けますが、これもてんで的外れな場所に投下されており、日本艦の識別はできないし、狙いも稚拙極まるパイロットの技量には呆れ果てるしかありませんでした。

いちいちこんなことをせねばならぬのか、敵に素性を知られることよりも、味方に素性を知らせる方が優先されたため、【熊野】は戦場で日の丸を1番砲塔の天蓋に展開しました。
栗田艦隊には自身の位置と味方機に攻撃を受けた旨を報告しています。

サマール島北部からサンベルナルジノ海峡に入った17時すぎ、正体不明の航空機が4機迫ってきました。
その正体が「TBF アヴェンジャー」であることが確認されると、続いてうようよと「SB2C ヘルダイヴァー」「TBF」が現れます。
海峡は周囲に島や岩礁が多く、抵抗の大きい今の【熊野】では操艦も一苦労です。
爆弾を回避して、魚雷を回避して、座礁を回避して、さらには敷設されている機雷を回避して、そしてその中で対空戦を行う【熊野】は、遂に神業を披露して1発の直撃弾も1発の被雷もなく、また海図を見誤ることもなくすべての困難を突破したのです。

空襲を掻い潜ったと同時に日は沈んでいきました。
今のうちに何とか少しでも戦地を離れたい、ですが14ノットという速度は、翌朝には【熊野】をまだミンドロ島までしか届けることができませんでした。
目指すコロンはこのミンドロ島南端を突破しなければなりませんが、たった1隻の巡洋艦を滅ぼすために再び30機の空襲が【熊野】に襲い掛かりました。

前回の回避が奇跡的なものであっただけで、さすがに1隻で爆撃と雷撃を何度も全回避することはできませんでした。
雷撃こそ辛うじてすべて躱すことができましたが、最後の編隊の爆撃が1発煙突に直撃、もう1発が檣楼付近に至近弾となり、機関は大ダメージを受けてしまいます。
動かない船に未来はありません、機関科はじめ必死に復旧作業に当たりました。
幸いアメリカは【熊野】の被害を見て沈没確実と判断したようで、追撃はありませんでした。

動いては止まりを繰り返しながらも、最終的にはボイラー1基の復旧に成功して9ノットまで速度を回復させた【熊野】は、痛々しく押しつぶされた煙突から黒煙を吐き出しながら【熊野】は再びコロンへ向けて動き始めました。
そして13時30分ごろ、ついに【熊野】にはっきりとした希望の光が灯りました。
【足柄】【霞】が救援に来てくれたのです。
志摩艦隊に所属していた【足柄】【霞】は、「スリガオ海峡海戦」での西村艦隊の壊滅を受けてコロンへと退避するところだったため、大変ありがたいことでした。

18時30分、コロンへ無事入港できた【熊野】は、まずは【日栄丸】から補給を受けて艦内の整理や負傷者、遺体の搬出などを行いました。
ですがコロンが安全な場所とは言い難く、まだまだ敵機の攻撃圏内であることから少しでも早く敵制空権を脱出する必要がありました。
九死に一生を得たわけですが、逆に言えば次に見つかれば確実に仕留められます。
護衛の駆逐艦(【浜風、清霜】)との合流を待つようにと栗田艦隊から命令がありましたが、休息もそこそこに、【熊野】は10月27日午前0時にマニラを目指して再び単艦で出発、まずは西進して制空権から抜け出し、そのあとマニラを目指すことにしました。
航行中、幸いなことに【沖波】が午前5時ごろ(?少なくとも夜明け前)に護衛として合流してくれています。

28日午前7時20分、無事何事もなく【熊野、沖波】はマニラへと到着しました。
錨のない【熊野】【特務艦 隠戸】に横付けして停泊することになります。
敵からの空襲はこのマニラでも起こりうるわけですが、しかしマニラは設備が整っているため、応急処置だけでも捗ります。
艦首はあくまで防水処置のみで、また圧縮された煙突もそのままです。
ひとまず【熊野】はマニラに滞在し、日本に戻るための万全の態勢を整えることになりました。

しかし29日には早速アメリカからの空襲を受けます。
この空襲では290機という膨大な数の艦載機からの攻撃だったのですが、【那智】で火災が発生しましたが、幸いに全体的な被害は少なく、【熊野】も無傷でした。
そしてこの後は意外にもマニラを狙った空襲は起こりませんでした。
ただし、それも【熊野】が出撃するまでのことでした(11月5日、マニラは再び上空が黒点で埋め尽くされ、【那智】ら多数が沈没します)。

【熊野】は危険なマニラに長く滞在するのは避け、【青葉】ともども護衛をつけて高雄への早期回航を希望しましたが、護衛艦の調整がうまくいかずに断念されます。
やむを得ずマニラ停泊中にできる限りの修理を行い、缶は8基中4基が回復し、15ノットの速度を取り戻しました。
度重なる空襲で弾薬もかなり減っており、魚雷を受けて大破、最大8ノットほどしか発揮できない【青葉】から1万発ほど譲り受けましたが、高雄までの長い道のりで果たしてこれだけで足りるのか不安でした。

11月5日午前1時、【熊野】【青葉】とともに「マタ31船団」の中に組み込まれることになり、護衛し、護衛される形で高雄へ向けて出撃しました。
【熊野】だけに限れば、15ノットの速度であればかっ飛ばせば1日半で高雄にたどり着くことは可能なのですが、しかし船団の護衛は海防艦2隻、駆潜艇5隻と特に空襲に対しては頼りなく、機銃の豊富な【熊野】は船団護衛に入れたかったという思惑があったのでしょう。

この航行中にどこかへ向かうアメリカ軍の大航空機部隊を発見しましたが、彼らの目的がどこであるかは言わなくてもよいでしょう。
寸でのところで危機を脱した【熊野】ですが、船団は【青葉】の存在もあって8ノットそこそこの速度を強いられます。
初日は磁気探知機を装備した「九六式陸上攻撃機」や爆装した「二式高等練習機」の対潜哨戒を受けて、何とか被害を受けることなく、サンタクルーズ港へ入港することができました。

続いて2日目、引き続き沿岸沿いを進み、今日はサンフェルナンドを目指します。
ですがこの地は日本にとってはとても危険な海域で、米潜水艦の根城のような場所でした。
案の定、途端に【米ガトー級潜水艦 ブリーム、ギターロ、レイトン、レイ】の4隻が「マタ31船団」に怒涛の雷撃を繰り広げます。
この中の【ブリーム】【青葉】を大破させた張本人でもあります。

午前9時20分ごろ、突如左舷に水柱が上がり、次には後方3,000mの岸でまたもや水柱が上がりました。
確実に魚雷、つまり潜水艦の襲撃でした。
55分頃、【ブリーム】の潜望鏡を発見して船団は舵を左に取ります。
綺麗に飛び込んでくる雷跡がそこにはありました。
【熊野】は急いで回避を行い、幸いここでの雷撃被害はありませんでした。

しかしこれはあいさつ代わり、ここからさらに1時間後には間髪おかずに大量の魚雷が襲い掛かってきました。
ちらちら見える潜望鏡に対して爆雷を投下するなどこちらも反撃を行いましたが、ついに回避中に岸から離れてしまったことから両側からの攻撃ができる位置まで出てしまいました。

この機を逃さず、【レイ】が4本の魚雷を【熊野】に発射。
回避が間に合わなかった【熊野】には2本の魚雷が命中してしまいました。
1本は残存していた艦首部分を全て破壊し、1番砲塔も中身がむき出し、支えがなくなったことで少し前に傾いてしまいます。
さらにもう1本は右舷機械室付近という急所に命中し、機械室はすべて浸水、傾斜11度、完全に停止しました。

幸いなことに【レイ】はこの後座礁したらしく、止めの魚雷が飛んでくることはありませんでした。
ですが航行できない【熊野】は誰かが曳航するしかありません。
一番適しているのは魚雷の全てを躱しきった【青葉】ですが、今の【青葉】【熊野】を曳航できる力はありません。
「ワレ曳航能力ナシ オ先ニ失礼」という信号を残し、【青葉】は帽子を振りながら船団に続行することになります。
(この「お先に失礼」【熊野】乗員をかなり怒らせたと言われていますが、まず「お先に失礼」という信号自体は珍しいものではなかったようです。ただこの状況で言うの?ってだけ。)

【熊野】には救援のために【貨物船 道了丸、駆潜艇18号、37号】が就きましたが、しかしこのあまりに巨大な【熊野】を動かすのは至難の業でした。
駆潜艇は言わずもがな、【道了丸】ですら排水量2,270tですから、5倍以上の排水量に加えて注水・浸水の5,000tが上積みされている【熊野】を動かすなんてとても現実的ではありませんでした。
ですが【道了丸】に引っ張ってもらうしかないのもまた事実であり、【熊野】は一度断られながらも【道了丸】に艦尾から曳航をしてもらうことになりました。
ここまでで傾斜は8度、そして最終的に4度まで回復しています。

僅か1ノットという速度ではありますが、20時ごろ、【道了丸】に導かれて【熊野】はリンガエンへ向けて動き出しました。
ですが夜の間に向かい潮の影響で船が全く進まないことから、目的地はサンタクルーズへと変更されました。
【道了丸】には駆潜艇に代わって【第18号海防艦、第26号海防艦】が就き、曳航の補助を行いました。
特に舵を取るのに苦労したため、工夫して【道了丸】【第18号海防艦】が曳索を引き、船を曲げてやるという処置が取られました。
このような努力があって、【熊野】は無事7日の昼から夕方ごろにサンタクルーズへ戻ってくることができました。

11月9日には台風が【熊野】を襲いますが、【熊野】はそれでも負けません。
【熊野】には錨がなかったのですが、【第21号掃海艇】が艦尾付近で投錨の上、繋留策を【熊野】につなげていました。
この錨を頼りに沈没を防ぎ、台風の通過までじっとこらえ続けました。
ただ、錨を降ろしながらも【熊野】は1,200mほど流されていたため、結構危ない状態でした。
さらにはこの影響で【熊野】【第21号掃海艇】に衝突しており、この衝撃で【第21号掃海艇】はフレーム変形により浸水を起こしています。

さて、傷だらけの【熊野】が日本に戻るために今何が必要か、それは燃料ではなく真水でした。
次の目的地は台湾の高雄、そこに向かうまでの真水はあと500tも必要でした。
造水装置が破壊されていたため、艦首などの応急修理の傍ら、毎日ドラム缶を使って川から30tもの真水を【熊野】まで運び込みました。

17日にはマニラから【特設掃海艇 第21長運丸】がやってきて、【第21号掃海艇】から任務を引き継ぎます。
ですが19日にはサンタクルーズへの空襲が行われ、爆撃の被害はなかったもののさらに戦死者4名などを出してしまいました。
空襲を乗り切った【熊野】は、修理が始まって1週間半の11月21日、ついに6ノットまでの速力回復を果たします。
もう少しで今以上の修理が施せるマニラへ行ける。
マニラへ戻ったら応急修理をして、もう一度高雄、そして日本を目指す。

そんな決意は、アメリカには知ったこっちゃありません。
11月25日早朝、レイテ島へ向かう【八十島】に負傷者を送ってもらい、【熊野】は出発の時を待っていました。
それを遮ったのは鬱陶しいことこの上ないプロペラ音でした。
7時30分ごろ、「F6F ヘルキャット」が木々などで偽装していた【第21長運丸】に対して機銃掃射を行いました。
偽装を見破られた【第21長運丸】からも応戦の機銃が放たれましたが、やがて【第21長運丸】からは火災が発生してしまいます。

続いてうようよと湧いて出てきた航空隊は、狙いをマニラへ向かっている【八十島】と3隻の【二等輸送艦】に定めます。
多少対空装備を施したところで100機に迫る艦載機の群れに対して抗う術はありません。
4隻はすべて沈没、生存者はごく僅かでした。
そして炎上していた【第21長運丸】も正午過ぎに爆沈しました。

しばらく空は再び静寂に包まれました。
もう終わったのだろうか。

否。

14時30分から、【米エセックス級航空母艦 タイコンデロガ】の艦載機群がサンタクルーズ港に侵攻してきました。
【熊野】は必死に上空めがけて砲撃戦をはじめますが、残弾は少なく、集中攻撃をかいくぐれる時間は長くありませんでした。
そして【熊野】は停止したままで、相手にとっては非常に狙いやすい的でした。

艦橋後部と右舷に魚雷が立て続けに命中、左舷にも2発、加えて爆撃が2番砲塔や艦橋後方に直撃。
【最上、三隈】の最期のように、【熊野】もありとあらゆるところがぐしゃぐしゃに破壊し尽くされ、血だまりの甲板からは生き永らえたものが必死に撃ち続けるまばらな機銃の音しか聞こえません。
やがて【熊野】の船体は、ゆっくりと左舷へ傾きはじめました。
刃折れ矢尽き果てても、本土の地を踏みしめれるのなら泥でも飲み込む覚悟で航海を続けた1ヶ月、15回もの空襲に耐え抜いてきた【熊野】は、ついに悲願叶わず、15時15分、サンタクルーズ港へと沈んでいくことになるのです。
【熊野】から飛び降りて脱出した者たちには、まるで当然かのように機銃掃射が浴びせられました。

【熊野】はそれまでの戦いよりも、あまりにも壮絶、意地の塊で生き抜いたこの1ヶ月が圧倒的に有名で、 悲劇の多い「最上型」の中でも特に語られることの多い艦です。

だたし、悲劇はこれだけでは終わりません。
【熊野】の生存者はこの後マニラへと移送されますが、今度は陸戦隊や防衛隊に駆り出されることになります。
この「マニラ攻防戦」は市民70万人の命が全く度外視された戦いであり、なんと10万人という罪のない一般人が日本軍へのゲリラ攻撃を恐れて虐殺されています。
言うまでもなく戦後戦争犯罪として取り上げられたこの戦いに強制参加させられた海軍兵は、海での生死のいずれが是か問いながら戦ったことでしょう。

2020年08月22日 加筆修正


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