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雷【暁型駆逐艦 三番艦】

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起工日 昭和5年/1930年3月7日
進水日 昭和6年/1931年10月22日
竣工日 昭和7年/1932年8月15日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年4月13日
グアム島南南東
建 造 浦賀船渠
基準排水量 1,680t
垂線間長 112.00m
全 幅 10.36m
最大速度 38.0ノット
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃 12.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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戦の道は狂気の道 人道を忘れなかった雷の尊い一生

【雷】【暁】【響】【電】「暁型」4隻で第六駆逐隊を編制し、太平洋戦争の開戦までに「日華事変」などの影響で第四水雷戦隊に所属していました。
昭和16年/1941年2月からは特定修理を受けていて、この時に九三式水中探信儀と九一式方位盤が新たに装備されています。
太平洋戦争が始まった時、第六駆逐隊は第一水雷戦隊に所属しており、【雷】【電】とともに第二遣支艦隊の指揮の下でイギリス領香港を攻撃するためにすでに行動を開始していました。
香港からほど近い碣石湾に5日に入港した第二遣支艦隊は、8日になると空襲と上陸作戦で九龍半島になだれ込み、僅か6日で九龍半島を制圧し、最終的に香港島を締め上げて「香港の戦い」で勝利を収めました。

年が明けるとメナド、ケンダリーと上陸作戦の支援に次々参加。
昭和17年/1942年2月17日、【雷、電】は今度はティモール島攻略に向かっていました。
しかしそこに夜陰に紛れて魚雷が飛び込んできました。
九三式水中探信儀が力を発揮したのかはわかりませんが、【雷】は2回の雷撃を見事に回避、潜水艦の位置もしっかり捉えたようで、目標に接近して爆雷を8発投下します。
その後重油が海上に浮かび上がってきたので、【雷】は華麗に敵を返り討ちにしたわけです。
潜水艦の撃沈は難しいのですが、推定では【米ポーパス級潜水艦 シャーク】ではないかと言われています。
しかし【シャーク】は11日に【山風】が砲撃で撃沈した説もあって、【雷】が仕留めた相手はいまだ謎のままです。

トントン拍子に日本は連合軍を打ち負かして南下を進め、ついにジャワ島まであと少しというところまでやってきました。
すでにジャワ島の防衛を諦めつつあったABDA連合軍は、残された戦力も防衛のためというよりは抵抗するので精いっぱいという感じでした。
そして2月27日、【那智】【羽黒】を中心とする第五戦隊がABDA連合軍と衝突し、「スラバヤ沖海戦」が始まりました。

しかし数的不利とわかっている連合軍は接近戦を避け、お互い遠距離での攻撃が続き、なかなか有効打を与えることができません。
時間がどんどん過ぎていきますが、ジワジワと敵戦力は削がれていき、3月1日には増援にやってきた【雷】らの助けもあったことで何とか8隻の撃沈に成功。
命中率が最悪の長丁場の海戦で、勝った日本も疲労困憊でした。
そして沈没した船も多かったことから、戦闘の合間や終結後も生存者の救助がたびたび行われていました。
【雷】のエピソードだけ特別視されているのは、恐らく新しい情報だということもあるのでしょうが、【雷、電】だけが救助を行ったような印象になっているのはちょっと残念です。

3月2日午後10時ごろ、【雷、電】は生存者救助の為に沈没地点周辺を捜索していたところ、【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】【英E級駆逐艦 エンカウンター】の乗員を発見。
国際条約では、周囲に敵艦隊が存在し、自軍の安全が保証されない場合は味方だろうが敵だろうが救助せずに離脱してもいいことになっていました。
昼ならともかく夜間は潜水艦にとって非常に都合がいい時間帯なので、この時間帯なら助けても自国に利がない敵兵救助をすることは自殺行為に近いものでした。

しかしそれを承知で、【電】艦長の工藤俊作少佐「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」の命令とともに一斉に彼らを助け始めました。
【電】もそれに倣い、マストには「救難活動中」の旗をたなびかせ、縄梯子、竹ざおを海上へ投げ入れます。
「助かった」という安堵から、急激に力を失って沈みゆく兵士もいましたが、それすらも飛び込んで助けに行きました。
しかし、ここでもイギリス兵は規律を忠実に守り、副長、艦長の順で救出されるまで、我先にと救助の手を握ることはなかったのです。
この光景には【雷】乗員も驚かされたといいます。

当時の【雷】の乗員は150名あまり、それに対して救助した人数はなんと422人。
船内はギュウギュウに詰め込まれますが、しかしぞんざいに扱うことはなく、各人に水や食料、治療などが惜しげもなく与えられました。
敵兵の救助そのものは異例なことではありません。
戦意なきものを殺害することは認められず、救助を求められればそれを叶え、そして捕虜として捕らえられるのが通常の流れでした。
ですが、真水や食料という貴重な資源をあろうことが敵兵にくれてやるのはさすがに高待遇が過ぎるというものです。

やがて身体の汚れを落としてもらい、新しい衣類を提供され、そして工藤艦長は集めたイギリス士官たちにこのように英語で話しました。

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」

【エンカウンター】砲術士であったサー・サミュエル・フォール卿は、この期に及んでなお目の前の光景が信じられず、まさに奇跡であったと回想しています。
赤道直下の日射を防ぐために【雷】は大型の天幕を張って航行し、もはや病院船のような有り様でした。

救助を終えて戻ってきた【雷、電】の姿を見て、【足柄】はひしめき合う捕虜の数に圧倒されてしましました。
【足柄】に乗船してた蘭印攻略部隊指揮官の高橋伊望中将「こんな光景は初めて見た」と唖然としたそうです。
他の艦も大小あるものの救助者で溢れかえっており、海戦の規模の大きさを物語っています。
その後、彼らは拘束したばかりの【蘭病院船 オプテンノール】に移乗し、そしてマカッサルの捕虜収容所へと移っていきました。

工藤艦長は存命中に全くこの史実を語らず、実は先ほど登場のサー・サミュエル・フォール卿が母国のラジオでこの話をしたのを偶然恵隆之介が聞き、ようやく書物として発表されたのです。
2008年、フォール卿は悲願であった工藤のお墓参りを果たしてします。
ちなみにこの工藤艦長【雷】の次には【響】の艦長に就任しています。

3月17日には【暁、響】と協力してコレヒドール島への輸送任務中だった【米ポーパス級潜水艦 パーミット】を撃破。
そして3月9日にジャワ島の攻略が完了したことで、当面の計画はおおむね達成。
再編や整備もあることから、第六駆逐隊は本土へ帰投、呉と横須賀で整備を受けることになりました。

5月20日に第六駆逐隊は北方部隊配属となり、「AL作戦」実行部隊の一員となります。
幌筵島で待機後、6月6日にアッツ島に、7日には隣のキスカ島にも上陸を開始します。
いずれも空っぽの状態だったので制圧に何の苦労もありませんでしたが、本命の「MI作戦」「ミッドウェー海戦」の歴史的惨敗により中止になってしまい、「AL作戦」もその後の東進が中断となりました。
そしてこの海域も好きにはさせてもらえず、すぐさま潜水艦や空襲の被害に晒されることになります。

12日には【響】が空襲を受けた際に左舷艦首付近に被弾し艦首が半壊。
【暁】に曳航されて本土へ引き返していきました。
さらに7月5日には夜明けを待ってキスカ港近海で仮泊していたところを【米ガトー級潜水艦 グロウラー】に襲撃され、【霰】が沈没、【霞】【不知火】が大破する大惨事に見まわれます。

急行した【雷】【霞】を慎重に曳航してキスカ島まで引っ張りますが、キスカ島には正直何にもないため、【阿武隈】に応急修理のための材料などを運んでもらい、突貫工事を行いました。
せめて曳航できるぐらいの整備はしないとどうしようもないからです。
設備もほとんどないキスカ島での修理は困難でしたが、28日にようやく出港。
【雷】【霞】の艦尾から曳航、【陽炎】が護衛してまずは幌筵島まで向かいました。
ちなみに【不知火】はまだ曳航できる状態ではなく、8月15日にまでキスカ島に留まっています。

8月3日に【雷】【霞】は濃霧の中何とか幌筵島に到着。
ここからは【電】と交代し、【電】は石狩湾で【富士山丸】にこの任務を引き継いでいます。
アッツ、キスカ両島を占領してから、7月5日沈没の【子日】を含め駆逐艦2隻沈没、3隻要修理という被害を負ったことから、警戒の為に配備していた【瑞鶴】【龍驤】【瑞鳳】を引き上げざるを得ませんでした。

このように北方はにわかに危険海域となったわけですが、一方で南方でも大どんでん返しが起こっていました。
整備していたルンガ飛行場がそっくりそのまま奪われて、「ガダルカナル島の戦い」が勃発したのです。
その激しさが増したことで【雷、電】も南方に派遣されることになり、10月に入るとラバウルに進出します。

この頃は奪われたヘンダーソン飛行場への砲撃と鼠輸送が海軍の生命線となっていて、17日は鼠輸送を実施。
そして24日には陸軍第二師団によるヘンダーソン飛行場総攻撃が行われることになったため、それに合わせて海上封鎖と輸送を行うために【川内】と駆逐艦が出撃することになりました。

【雷】【暁】【白露】とともに突撃隊に任命されていました。
突撃隊がルンガ泊地に到着すると、揚陸作業中の【掃海駆逐艦(旧米クレムソン級駆逐艦) ゼイン】を発見。
確実に仕留めるために間合いを詰めましたが、しかし接近を悟った【ゼイン】もすぐさま逃走を図ったためこちらも砲撃を開始します。
1発の命中弾が確認できましたが、今回の目的はルンガ周辺にいる艦船を叩くことなので、1隻を無暗に追い回すとルンガから離れてしまいます。
なので【ゼイン】の追跡は中止となり、3隻はルンガに戻っていきました。

戻ってくると、今度はやはり揚陸中の曳船【セミノール】と警戒中の哨戒艇【YP-284】を発見。
すぐさま砲撃を開始して、この2隻と他に輸送船と仮装巡洋艦1隻ずつの撃沈に成功しました。
その後敵陣地に向かって艦砲射撃を行うものの、陸上から反撃の1発が飛んできて【暁】に命中。
また【F4F ワイルドキャット】からの機銃掃射も受けて、3隻は反撃が本格化する前に離脱します。
と、3隻はその責務を果たしたのですが、肝心のヘンダーソン飛行場奪還はならなかったため、この泥沼の戦況をひっくり返すことはできませんでした。

日本は輸送を妨げるヘンダーソン飛行場を砲撃で一時的に制圧しつつ輸送を行い、陸上から攻め落とす方法しか取れなかったのですが、艦砲射撃の効果は限定的、機動部隊が出動すると「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」のように空母同士の戦闘となり、当初から苦しい戦いばかりだった陸軍は外部の支援なしにその先に進めませんでした。
ただ「南太平洋海戦」の結果敵機動部隊を無力化させることができたため、11月に入ると、【比叡】【霧島】を中心とした挺身攻撃隊を編制して再突入を図ることが決定。
そして12日深夜、待ち構えていたアメリカ艦隊と激突、「第三次ソロモン海戦」の火ぶたが切られたのです。

この時3隻の第六駆逐隊は戦艦を護衛する本隊に属していて、【比叡】と共に戦場のど真ん中で奮闘します。
かなりの接近戦だったため双方の砲弾が無数に飛び交い、あちこちで火の手が上がる大激戦となりますが、この戦いで【比叡】は舵故障の為に戦闘続行ができなくなったほか、【暁】が探照灯を照射していたことで砲撃が集中し沈没。

【雷】【米ニューオーリンズ級重巡洋艦 サンフランシスコ】を撃破するものの、十数発の命中弾を受けてしまいます。
この中には20.3cm砲弾も含まれていて、当たり所によっては確実に致命傷になるものでした。
1番、2番砲塔を始め、給弾薬室や煙突などに大きな被害が出たほか、三番魚雷発射管も被弾により動かなくなります。
誘爆しなかったのは本当に幸いでした。
主機も一時停止し、戦死者19名、重傷者57名という犠牲者を出しながらも、【雷】は最後まで戦い続けて自力で戦場から離脱しています。
ですが【雷】はこの被害だったので、「第三次ソロモン海戦第二夜」には当然参加できず、ついに日本は2隻の戦艦を失ってこの分水嶺で敗北を喫してしまいました。

修理の為に日本に帰ってきた【雷】は、修理と同時に艦橋前に機銃台が増設され、そこに13mm連装機銃が装備されました。
戦列に復帰してからは北方に向かうことになり、極寒の中アッツ、キスカ島へ向けて輸送を行う任務をこなします。
しかし昭和18年/1943年3月22日にはこの輸送船団を撃退するために陣取っていたアメリカ艦隊と遭遇し、「アッツ島沖海戦」が始まります。
この戦いはお互い決定打を欠き、戦力的には有利だったものの日本は輸送を妨害されてしまいました。

30日には嵐の中で【雷】【若葉】に衝突してしまい艦首を損傷、いったん横須賀に戻って修理をすることになります。
ちょうど同じタイミングで第六駆逐隊は外南洋部隊に編入されることになり、最前線からは一歩引いたエリアで船団護衛を中心とした役目を任されることになりました。
5月20日には護衛していた【盤谷丸】とが【米ポーパス級潜水艦 ポラック】の雷撃を受けて沈没してしまい、【雷】【特設駆潜艇 第7京丸】とともに反撃に出ますが、損害は与えたものの撃沈までは至りませんでした。

9月2日には第4902船団を【六連】とともに護衛をしてトラック島に向かっていましたが、今度は【米サーモン級潜水艦 スナッパー】の雷撃が【六連】に2本命中。
【六連】は大爆発を起こして沈没し、【雷】は爆雷を投下して仇を討とうとしますが【スナッパー】は長居せずにすぐに撤退してしまい、被害を与えることはできませんでした。

昭和19年/1944年1月6日からは1週間という短期工事で艦橋前の機銃を25mm連装機銃に置き換えたほか、九三式水中聴音機や逆探なども新たに装備されました。
3月にはマリアナ諸島の増強の為に始まった松輸送の東松三号船団に加わっています。
駆逐艦は他に【玉波】、旗艦は【夕張】で、それ以外はみな海防艦などの対潜を意識した面々でした。
それでも25日に【第54号駆潜艇】がまた行く手に現れた【ポラック】の雷撃を受けて沈没してしまい、輸送船は無事でしたが無傷での達成とはなりませんでした。

サイパンに到着した後、【雷】は復路の船団には加わらずに別の任務を受けます。
【山陽丸】を護衛してメレヨンへ向かうというものでした。
【雷】【山陽丸】は9日(?)にメレヨンへ向けて出撃し、11日にメレヨンに到着、当日のうちに出発してサイパンへ戻っていました。
しかし13日、帰り道で哨戒機から潜水艦発見の通信が入ります。
【雷】は潜水艦を撃退するために【山陽丸】を先行させ、報告のあった方向へ向かいました。

その動きを捉えていたのは【米ガトー級潜水艦 ハーダー】でした。
【ハーダー】からは之字運動をしながら近いづいてくる【雷】が見えましたが、一直線にこちらに向かっているわけではないことからまだ発見はされていないと判断し、【雷】の針路を真横から狙える位置に移動。
一番いい射点に入ることができた【ハーダー】は、タイミングを見計らって2本ずつ、計4本の魚雷を発射しました。

一方【雷】はやはりまだ【ハーダー】の探知ができていませんでした。
之字運動は正面や後方から、つまり縦の雷撃に対しては一定の効果がありますが、横の雷撃には縦に比べると効果は薄いです。
特に一斉ではなく今回のように時間差で放たれるとその之字運動の誤差も修正されるので、真横をとられるというのは砲撃同様非常に不利です。
そして【雷】【ハーダー】の狙い通り、2本の魚雷を受けてしまいました。

その時に報告された【ハーダー】艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐からの通信が残されています。

「4本の魚雷とジャップの駆逐艦を消費した!」

【雷】は雷撃の前に成すすべなく、2つに割れて沈没してしまいます。
【山陽丸】はサイパンに直行していたため、【雷】を助けるものは誰もいませんでした。
【山陽丸】は到着したのに【雷】がいつまでたっても現れないことから不審に思い、翌日に空からの捜索が始まります。
しかし【雷】らしき姿は全く見当たらず、海上に浮かぶ油紋しか収穫はありませんでした。
生存者はどこにもおらず、状況から乗員238名全員が戦死したとされました。

なお、【雷】の元艦長である工藤中佐は、【雷】が沈没した夜、【雷】に残った部下たちが「艦長!」「艦長!」と現れて、彼を中心に輪を作ると静かに消えていく夢を見たといいます。
飛び起きた工藤中佐は、【雷】になにかよくないことが起こったことを察したそうです。

敵兵の救助という、戦争と人道の明確な線引き、そして敵兵を消費物として扱う狂気の言葉。
戦争という異常で残酷な状況に囚われた人間の心情を捉える上で、非常にわかりやすい事例を【雷】は後世に伝えています。