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カイロ会談・宣言

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【カイロ会談・宣言】とは、1943年11月23~27日に連合国の対日戦争終結後の戦後処理についてエジプトのカイロで行われた会談、及びその会談を受けた内容の宣言(声明)。

【カイロ会談】は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、中国国民政府の蒋介石主席の三首脳で開催された。
ソ連は当時「日ソ中立条約」によって対日戦争には加担していなかったため、参加はなかった。

開催の意図として、11月5日に東條英機内閣が、日本が大東亜共栄圏と主張するアジア諸国を東京に招き、「大東亜会議」を開催、また翌6日に発表された「大東亜共同宣言」に対抗するためとされる。

蒋介石をこの会談に出席させたのはルーズベルトの意思による。
日中戦争は双方疲弊していたが、戦力を太平洋戦争に割かざるを得なくなっていた日本とは違い、中国は太平洋戦争緒戦で大きく退いたイギリスの支援が失われて以降(援蒋ルートの遮断)、粘りながらも後退する一方であった。
これにより、アメリカは中国が日本と講話し、勝敗はともかく抗日勢力が失われることを危惧した。
日中戦争が終結すれば、特に陸軍勢力が多数太平洋戦争の主戦場に動員され、よりいっそう激しい戦闘になるのは確実だった。
それを恐れたルーズベルトが、抗日戦争後の満州・台湾返還や朝鮮独立などの条件を出し、日本が降伏するまで中国に戦争を続けさせることが狙いだった。
宣言の主な内容は上記にあたる。
蒋介石はこれにより国際的存在価値が上がったとして、権力をより強めることになった。
ちなみにチャーチル蒋介石の出席に反対した。

しかしこの宣言は、戦後の中国にとっては有利に働いたが、戦中の中国にとっては傷口を広げることになってしまう。
国共合作がなされていた中国ではあったが、全面的な協力態勢とは言い難く、当時の戦局も前述の通りアメリカが期待するものとは程遠かった。

さらにこの宣言を受けた日本は中国に対してさらなる強攻策を取る。
「大陸打通作戦」である。
中国2,400kmを縦断した、日本陸軍最大の大作戦である。
この作戦によって中国軍は圧倒されたのだが、蒋介石は日本の大進軍にさしたる抵抗をしなかったとされている。
戦力不足も大きな理由だが、蒋介石は特に国民党軍以外の軍へ満足な補給をせず、撤退する中国軍はその道中の村々で徴発を繰り返すしかなかった。
その状況を見たアメリカが、在華米軍・共産党軍・国民党軍を統括する最高指揮官として任命し、蒋介石に提案したジョセフ・スティルウェル将軍がこんな言葉を残している。

「蒋介石は自分に補給される軍需品を貯めておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占領してこれを粉砕するつもりである。真剣に戦う努力はしないであろう。」

もちろんスティルウェル将軍の任命を蒋介石は拒絶し、その後も敗北を連ねていくことになる。
【カイロ宣言】蒋介石を思い上がらせ、アメリカの失望を招き、また日本の「大陸打通作戦」を引き起こすきっかけになった。

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