大本営

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【大本営】とは、戦時中に臨時に設立される、陸海軍を統帥する最高司令部機関。
天皇の命令(奉勅命令)をそれぞれ陸軍向けの大陸命、海軍向けの大海令として発令する。

1893年に「戦時大本営条例」が法制化され、これにより戦時中に天皇直属の最高統帥機関としての設立が認められた。
翌1894年の「日清戦争」勃発で早速設置され、また1904年からの「日露戦争」の時も設置されている。
それぞれ終戦後に解散している。

「日中戦争」は日本は「支那事変」と呼称して戦争と認めていなかったが、このままでは【大本営】を設置することができないため、現行の「戦時大本営条例」を廃止し、新たに戦時以外に事変でも【大本営】を設置することができる「大本営令」が発令制定された。

【大本営】は陸海軍の統帥部長・次長・作戦部長・作戦課長が出席かつ発言権が認められていて、軍人である一方で政府関係者、すなわち閣僚である陸海軍両大臣は、統帥権の独立という観点から、参加はできても発言は許されなかった(逆も然り)。
大元帥である天皇陛下もまた、参加はするも発言をすることは極めてまれだった。

陸海軍のトップが揃いはするものの、最終的に意見を取りまとめる、もしくは命令を下す存在が事実上存在しなかった【大本営】は、日本を路頭に迷わせる大きな悪因となった。
また、軍を止めることができる存在も天皇陛下しかいなかったため、乱暴に言えば軍はやりたい放題であった。
この事態に危機感を感じた東條英機は、首相と陸軍大臣を、さらには軍需大臣、陸軍参謀総長(統帥部長)を兼務し、また海軍大臣であった嶋田繁太郎に軍令部総長(統帥部長)を兼務させたが後の祭りであった。

また、陸海軍の高官同士の対立も激しく(これはどこの国でも往々にして存在したが、どこでそれを解消したかが重要である)、国難であってもメンツや自分側の利益を優先し、ますます戦争は泥沼に陥っていった。
更には戦果や被害を都合よく改竄することが茶飯事と化し、存在しない敵を次々と沈めていった。
特に「台湾沖航空戦」では10日間で空母約20隻を撃沈するという、アメリカ軍の士気など瞬時に霧散してしまうような戦果を上げたことになっている。

台湾沖航空戦の大本営発表の一部

このような誤報とも言えない発表によって、前線は消えたはずの敵の襲撃によって壊滅していったのである。
さらに戦場に近い者からの意見も、高学歴の揃う【大本営】は大して取り入れず、責任逃れと自らが戦争を終結させたくはないという臆病風から、ずるずると負ける戦を続けていくことになった。