極東国際軍事裁判

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【極東国際軍事裁判】とは、太平洋戦争終結後、連合国11カ国が指定した太平洋戦争における「戦争犯罪人」に対する判決を下した裁判である。
【東京裁判】とも呼ばれる。
1946年5月3日から、1948年11月12日まで行われた。

【極東国際軍事裁判】は、A級戦犯は東京で行われたが、BC級戦犯の裁判は各国各所で行われている。
そして各国で、裁判の体面は保っているものの、判決ありきの裁判が行われたことも事実である。
また、「サンフランシスコ講和条約」によって日本政府は【極東国際軍事裁判】の判決を受託し、刑の執行を行うことを認めている。

終戦後、連合国は東京に極東国際軍事裁判所を設立。
太平洋戦争において、連合国が指定した犯罪人を裁く場所を各国に設けた。
罪状は大きく三つにわけられた。

・A級戦犯(平和に対する罪 主に日本を戦争に導いた者)
・B級戦犯(戦争犯罪 捕虜に対する虐待や殺害など、戦争法に反する犯罪)
・C級戦犯(人道に対する罪 国民に対する虐殺や奴隷化、虐待などに対する犯罪)

勘違いしている方も多いかもしれないが、A~C級は罪及び刑罰の重い軽いの順番ではない。
あくまで区別しているだけである。
ややこしいのは、このBC級戦犯のことを、イギリスやオーストラリアなどは「軽戦争犯罪裁判」と呼んでいる点である。

A級戦犯ばかりが取り上げられるが、B級戦犯のほうが遥かに死刑となっている人数は多い(約1,000人)。
そしてA級戦犯の死刑囚は、すべてB級戦犯の罪状によって死刑となっていて、A級戦犯単独で死刑となった者はいない(判決は受けている)。
この理由として、A級戦犯は明らかな「事後法」であり、犯罪者を裁くべく、【極東国際軍事裁判】を行うにあたって作り上げた「概念」である。
これは「自転車を免許制とし、無免許運転を取り締まる」と言った瞬間、自転車発明から今日に至る全ての自転車の運転者が違反者となることに他ならない。
しかしこれが「事後法」であるとの批判は予見されたので、さすがにA級戦犯だけで死刑にするわけにはいかなかったのだ。
この点が、【極東国際軍事裁判】が不当であったことを訴える最大の要素の1つである。
そしてもう一方が、連合国側の犯罪については全く罰せされることがなかった点である。
しかし「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉もあるように、戦争とは、こういう側面も含めて戦争なのではないか、と私は思っている。
常識から逸脱した行為を常識で収束させるのは容易ではない。

ちなみに日本の戦争犯罪人でC級戦犯として起訴された人物はいない。
ただし、諸外国で罰せられた者の中に存在していた可能性はゼロではない。
(ナチス・ドイツを裁いた【ニュルンベルク裁判】では、このC級戦犯に相当する「C級犯罪」で裁かれた者が、ユダヤ人虐殺の観点から存在する)
しかしほぼすべての日本の戦争犯罪人はA級戦犯もしくはB級戦犯であり、死刑囚は皆B級戦犯であることがわかる。

ここからは日本で行われた裁判について取り上げる。
【極東国際軍事裁判】にかけられる被告人は、アメリカ・イギリス・ソ連・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・中国・フランス・オランダ・インド・フィリピンの11カ国の検事による執行委員会によって起訴された。
ちなみに昭和天皇の訴追については多くの国が反対した。

また同時に、同11カ国より裁判官・判事が裁判に参加。
有名なインドのラダ・ビノード・パール判事だけでなく、フランスのアンリー・ベルナール判事も、資料を集めるなど弁護士側の基本的な努力をする機会すら失われている【極東国際軍事裁判】の在り方を切り捨てている(彼は国際裁判において英語を話せないという重大な問題もあったが)。
オランダのベルト・レーリンク判事パールに共感し、パールほど極端ではないが、個人の意見書を出している。

注意すべきは、パールは被告人全員の無罪を主張しているが、これは日本人全てが無罪である、という意味ではない。
まず、意見書内には「南京大虐殺」の規模の信憑性や原爆投下についての意見の記載があるので混乱しかねないが、それによって連合国への処罰は求められていない。
彼は「事後法」によって罰せられることに異を唱えているのであって、日本に重大な過失があったことは多数認め、強く非難している。
それを裁く法律が本裁判前にあったかどうかという点を訴えている。
しかし、パールの訴える「事後法」はA級戦犯とC級戦犯についてであり、B級戦犯はれっきとした戦時国際法であった。
勘違いしてはならないのは、その犯罪による罪を負うものはこの東京裁判の中にはいない(被告として起訴されていない)、という点である。
つまり彼は、この罪状によって起訴されるべきものは他にいる、と訴えたのだ。
決して日本の全ての戦争犯罪者に罪はない、と主張したわけではない。

一方で、ウィリアム・ウェッブ裁判長(豪)およびデルフィン・ハラニーリャ(比)は実際に太平洋戦争に巻き込まれた経験を持つこと、またオーストラリアについては特に反日感情が非常に強かったことから、裁判官という立場にありながら中立公平の精神を著しく欠いていた。
通常このような境遇・思想の者は裁判の場には登用されない。

弁護士にはアメリカ人がついたが、非公式ながらも日本人も弁護団を結成することが許されていた。
弁護士側にはなおさら【極東国際軍事裁判】の在り方に一石を投じる発言が目立った。

この体制は閉廷まで続けられ、弁護士及び被告の主張、また裁判そのものについての疑問など、「連合国が日本に正義の鉄槌を下す」ことを妨げるあらゆる主張が却下された。
逆に主席検事だったキーナンからは「日露戦争」まで遡って日本の残虐さが立証されるという発言もあり、裁判とは名ばかりの「日本潰し」であったことが伺える。
結論ありきの【極東国際軍事裁判】は「政治裁判」「勝者の裁き」であるという評価が国内では多数派である。