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ハル・ノート

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【ハル・ノート】とは、アメリカのコーデル・ハル国務長官が1941年11月27日に日本に突きつけた日米交渉文書である。
正式名称は「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」である。
これは公式文書ではないものの、明らかにアメリカの姿勢を示す文書であり、日本はこの【ハル・ノート】を受けて対米戦争を決意したとされる。

1939年、欧州では第二次世界大戦が勃発し、アメリカは当初静観していたものの、当事国の先頭に立つイギリスへの支援を始めていた。
一方アジアでは1937年から始まった【日華事変】によって日中の戦闘状態が激化。
さらに日本は「日独伊三国同盟」蒋介石に対抗して設立された汪兆銘政権を承認する形を取り、アメリカは大西洋・太平洋双方の不安定な情勢に挟まれていた。
第二次世界大戦の参戦も余儀なくされていたアメリカにとって、日本の動きは邪魔でしかなく、アメリカは日本に対して経済制裁を行った。
日本は輸入資源の大半をアメリカに依存しており、この状況は【日華事変】維持は愚か、国家安定すら困難になることから、ここに至って日米は関係改善のための交渉が始まった。

交渉は1年に渡って行われたが、大雑把に言えば、アメリカは終始「日本はこれ以上出しゃばるな」という意見を譲らず、中国からの撤兵と「日独伊三国同盟」からの日本の脱退を最後まで訴え続けた。
対して日本は難しい立場に立たされていた。
対米交渉ではあるものの、その裏側では独伊の存在があり、さらにドイツはソ連との戦争の準備を進めていた。
日本は「日独伊三国同盟」を維持しつつもソ連との対立は何としても避けるべく、1941年4月に「日ソ中立条約」を締結している。
アメリカに対しては、5月に松岡洋右外相「日独伊三国同盟」の継続と、アメリカの影響力を持ってして【日華事変】を終結させ、極東の共産化を阻止して欲しいという強気の姿勢を見せた。

しかしアメリカの立場と日本の立場は全く異なるため、アメリカは日本が得をする内容ばかりの提案に対して更に強硬策を取ることになってしまった。
日米交渉の肝は「日独伊三国同盟」であり、日本は是、アメリカは否であった。
そしてこの点が双方妥協がないため、より交渉は難航することになるのである。

6月、アメリカのハル国務長官松岡の提案に対する回答を出す。
その内容は松岡案と真っ向から対立するものであり、

・アメリカの第二次世界大戦参戦に日本は口出しをしない
「日独伊三国同盟」の実質的凍結
【日華事変】は和平交渉の仲介役を果たすが、無賠償、無併合、双方早期の撤兵を原則とする
・その他日本軍の進軍を許さず

という内容であった。

近衛内閣はこのアメリカからの要求と、依然強気の姿勢を崩さない松岡の板挟みにあっていた。
確かにアメリカからの要求は日本が大きく妥協せざるを得ないものであったが、松岡はその妥協の一切を許さなかった。
松岡の言い分は、弱気な姿勢を見せればアメリカはそこに付け込んでどんどんと要求を増大させるというもので、やがては対米交渉を打ち切るべきであるとまで言い始めた。
ハルも全く交渉の余地を残さない松岡に嫌気がさしていて、暗に松岡を罷免するようにを口頭文書で日本に伝えている。

しかし近衛内閣もまた、妥協の度合いについては見誤っていた。
結局日本政府としてもアメリカ側が交渉の余地ありと認識を改めるほどの妥協案を提示することはできず、日本はまだ【日華事変】の勝者としての解決や南方進軍を諦めていなかった。
最終的に松岡は内閣改造によって外相の座を退くが、日本は7月、遂に南部仏印進駐を開始。
アメリカを一層刺激する結果となる。
【ハル・ノート】の布石は松岡ではなく、交渉の最中にもかかわらず渦中の南方進軍(南部仏印進駐)を実施したこの瞬間である。
この南部仏印進駐に、「対米戦争の覚悟がない限りするべきではない」松岡は最後まで反対していた。

日本の南部仏印進駐を受けてアメリカは対日資本凍結を決定。
続いてイギリス、オランダも同調し、戦闘中の中国を含め、「ABCD包囲網」が日本を取り囲むことになる。
さらに8月にはアメリカからの石油の全面禁輸が始まり、日本はアメリカの想定外の経済制裁に取り乱す(アメリカ政府としては全面禁輸の命令を出してはいないが、いつのまにか石油禁輸はなされてしまったという。理由は現在も不明とされる)。

周囲を見えない鎖で閉ざされた日本は、資源確保のために更なる侵攻を求める声が増大。
油田のある蘭印を早期確保すべきであるという意見が急速に熱を帯びてきた。
アメリカ政府が石油の全面禁輸令を発令しなかった理由はここにあり、全面禁輸をすれば日本は必ず資源を求めて武力を行使することを懸念していたのである。
アメリカは日本の早期武力解除を求めたが、同時にルーズベルト大統領は当初は日本が提案した日米首脳会談に参加の意向を示していた。

しかしアメリカには首脳会談に否定的な声も強く、駐日大使であったグルーの首脳会談賛成派の声はかき消された。
ハルもまた首脳会談反対派であったため、日本側は、相対することさえできれば、中国から撤兵しても、ドイツとの軋轢が生まれてもこの問題は解決できるという覚悟であったものの、最終的には首脳会談は実現しなかった。

やがて国内でも対米戦争論が盛り上がるようになり、内閣では中国からの撤兵と対米妥協か、【日華事変】と対米戦争という二足の重すぎるわらじを履くか、意見は割れた。
10月に近衛内閣が総辞職し、代わって東條内閣が成立したが、東條は戦争回避の行動を積極的に行った。
しかし時節は彼の思いを簡単に飲み込んだ。

日本は交渉によって少しずつ問題を解決する姿勢に対し、アメリカは一貫して当初の要求を曲げず、妥協案など交渉は近衛内閣時よりもより徹底されたものの、遂に解決には至らなかった。
やはり日本は撤兵という文言に異常な嫌悪感を示し、アメリカは逆に「ABCD包囲網」の中心としてその点を頑として譲らなかった。

そして11月26日、【ハル・ノート】が日本に突きつけられた。
・中国大陸からの全面撤退及び蒋介石政権の承認
・仏印からの撤兵とフランスの領土主権尊重
・実質的な「日独伊三国同盟」からの脱退
主な要求は以上の3点で、結果的に、交渉の初期段階を超える制限を求められたわけである。
ハル自身も、受け取った日本も、この【ハル・ノート】が最後通牒であることを認識していた。
(アメリカはこれを最後通牒と表明していないが、この立場を今後崩すことはないとの意思があり、実質的には最後通牒であった。)
つまり、これを受け入れるか受け入れないか二つに一つ、交渉の余地はもはやないということである。

東條内閣で最後まで交渉を続けた東郷茂徳外相「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」と、この【ハル・ノート】に絶望しており、大日本帝国は戦わずして屈服するか、帝国の誇りを持ってアメリカに刀を振りかざすかの二者択一を迫られていることを痛感した。
内閣でも避戦論の先頭に立っていた東郷は、この【ハル・ノート】を持って開戦やむなしと意見を翻さざるを得なくなった。
東郷は後に「これでは松岡君が交渉不成立を見越してその打ち切りを主張した理由がわかる」と述べている。
6月に松岡へ対してハルが提出した案から、アメリカは一歩も引くことがなかった。

しかしこの【ハル・ノート】は、日本を徹底的に追い詰めて欲しい中国を除いた英蘭豪にも衝撃的な内容だったようであり、イギリスも当初はアメリカに対して抗議まで行っている。
諸外国にとっても、【ハル・ノート】は事実上の開戦の号砲であることを認識していた。

12月1日、御前会議において対米英蘭開戦が決定された。
そして翌12月2日、決行を12月8日、目標は真珠湾に決められた。

【ハル・ノート】には基本的にはアメリカを批判する意見が多い印象だが、日本も戦争回避のために必死に交渉を行ったかと言われると甚だ疑問である。
特に交渉の最中に南部仏印進駐を始めた点については、以降アメリカが一切の妥協を許さず、また資本凍結、更には結果的に石油禁輸という措置に至っている点からも明らかに日本の汚点である。
確かに【日華事変】を日本の事実上の敗北で終えるのは国としては屈辱的だろう。
しかし東條「支那事変にて数万の生霊を失い、見す見すこれを去るは何とも忍びず、但し日米戦ともならば更に数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えざるべからずも、決し兼ぬる所なり」と述べているように、対米戦争が何を引き起こすかは一目瞭然であった。
それにもかかわらず、日本はメンツを優先した。
東條の段階では交渉の余地は残されていなかったが、英断ができるタイミングはいつでもあった。
それを日本は終戦の機会同様、尽く損なってきたと言わざるをえない。

【ハル・ノート】の要求を単独で見れば確かに無情で冷酷で、大日本帝国の歴史を踏みにじる傲慢な要求だと思うだろう。
しかし日本はハル【ハル・ノート】を突きつける前に前向きな交渉ができる期間が1年近くあった。
【ハル・ノート】は明治以降の日本の権益を全て損なうものだという意見もあるが、そのような文面は一切なく、また満州国に対する言及もされていない。
日本は満州国で十二分の成功を収めていた。
さらに欲を出した結果である【日華事変】に対しての警告でもあった強国アメリカの要求を、最後まで突っぱね続けた日本側が被害者だとは到底思えない。
突っぱね続けるのであれば、戦争の覚悟を決めるのも遅いし、また戦争に対する熱意・本気度も全く欠如している。
日本は交渉の段階からアメリカに敗北しているのである。

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